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プライドが歪めたフィナーレ(サッカー人生振り返り後編)

前回の続き。高校編であり、これが最終回です。
(※この記事に出てくる固有名詞は全て仮名です。)

スタートダッシュ

僕は、神奈川県の公立であるタテジマ高校、通称タテ高に進学した。

タテ高は、全国大会に出るほどの超強豪校ではなかったが、過去にJリーガーや日本代表選手を輩出したこともあり、公立の進学校にしてはサッカーが強かった。

入学より1ヶ月早い3月の春休み。
僕はその頃、タテ高サッカー部の春合宿に参加していた。

タテ高には中学時代の先輩がいたのだが、その先輩からの誘いに応える形で、僕は他の同級生より一足先にサッカー部の活動に参加したのである。

驚くべきことに、その春合宿で僕はいきなり監督から気に入られ、入学前からスタメンで起用されるようになった。

ポジションはトップ下。
フォワードの選手を活かしながら、自らもゴールを狙うのが役割だった。


躍動

4月になって入学式を迎えると、僕も含め、1年生は約20人が入部した。

4月から5月にかけて行われた春大会では、僕は全試合スタメンで出場し、大事な試合で決勝ゴールを決める等、主力級の活躍をした。

試合に出始めた当初はその自覚がなかったが、通常、入学直後の1年生がその舞台に立つのは非常に難しい。
高校サッカーは、中学までのサッカーとは別物だからだ。
高校生は、中学生とは体の作りが全く違う。
その圧倒的なフィジカルの違いに加え、スピードもテクニックも、レベルが数段変わってくる。

その中で遜色なくプレーできていた僕に対し、周りからは賛辞や妬み、いろんな言葉や感情がぶつけられた。
同級生からは、羨望の眼差しで見られるようになった。
他校からは、僕が一年生であることをひたすら驚かれた。

周りのリアクションに触れて、僕は、高校サッカーで一年生が春からスタメンに選ばれるのは、よっぽどのことなのだと知った。
あまりにも出来過ぎな滑り出しで、僕の中には「自分は人とは違う」というエリート意識すら芽生えるようになった。


ずれ始めた歯車

僕は、ワンタッチのダイレクトでどんどんパスを回しながらゴールに向かうのが好きだった。
最初のうちはそのスタイルがハマっていたのだが、そのうち、うまくいかなくなった。

僕の後ろのボランチの位置でプレーする2個上(3年生)の中井先輩が、「ダイレクト多用すんのやめろ、まず一回ボール止めろ」と言ってくるようになった。

中井先輩は、チームで一番うまかった。
中井さんはタテ高の司令塔で、中学時代は横浜Fマリノスのジュニアユースだった人間だ。
どうしてユースに昇格できなかったのかわからないぐらい、中井さんはサッカーがうまかった。

中井さんは僕に、「派手なプレーをしようとするな、シンプルにやれ」とも言った。
僕は、中井さんに言われた通りにやろうと思った。
でも、中井さんの求めるシンプルなプレーを忠実に体現しようとすると、うまくできなかった。
ミスが怖くて、ボールに触れるのが恐ろしくなった。


「ちゃんとやれ」

僕に要求したのは、中井先輩だけではなかった。

1個上の2年生である川口先輩は、長身でガタイの良いセンターバックで、次期キャプテンと称される人物だった。
川口先輩は僕のことをよく気にかけてくれ、檄もたくさん飛ばしてくれて有難かったのだが、僕はそのうち川口さんの声かけをしんどいと感じるようになっていった。

川口さんは、試合中に僕がミスをすると、僕に対して「ちゃんとやれ」と言うようになった。

「青砥、ちゃんとやれ!」

ちゃんとやれ?

「ちゃんと」って、なんだよ

必死にやってるよ、こっちは

こっちがミスするたびに、子どもを叱るような口調で注意してくるなよ

ふざけんな

僕は、川口さんを睨み返した。
「ちゃんとやれ」と言われ頭にきていたが、そうはいっても、僕自身も自覚はあった。
プレーがあまりにもひどく、チームに全く貢献できていないことは、僕自身が一番わかっていた。

僕は次第に、スタメンから自分を外してほしいと願うようになった。
それでも、監督は僕を使い続けた。


中井先輩の引退と再出発

高校サッカーの華である選手権大会の神奈川県予選は、ベスト32で敗退することが決まった。

中井さんという突出した人材をはじめ、その年、戦力的には県ベスト8以上を狙えるポテンシャルはありながら、最後まで組織として噛み合わずに終わった。

2個上の引退が決まった瞬間、僕は自分の責任を感じ、泣いた。
中井さんの要求に最後まで応えられなかった自分が情けなかった。

嘆いていても時は流れ、新しいサイクルが始まる。
1個上の川口先輩の代になり、チームとして再出発した頃、僕と同じポジションで頭角を表している同級生がいた。

その同期は、小学校時代マリノスプライマリーに所属していた人間である。
中学時代はマリノスのジュニアユースに昇格できずに別のクラブチームに所属していたが、それでも、高校生になった彼の技術は目を見張るものがあった。

その同期に自分のポジションを脅かされる中、僕を支えていたものは、「入学して最初の大会でスタメンだったのは俺だ」という、くだらないプライドだけだった。


最初の肉離れと一生の後悔

1個上主体の新生チームとなってから最初の試合で、僕は怪我をした。
左足のふくらはぎの肉離れだった。

調子が下がり続けていたこのタイミングでの肉離れは、僕には痛過ぎた。

医者によれば、治るまで3週間ほどかかるという話だった。
僕はしばらく、治療に専念することになった。

それまでにも数回、数日の休養を要する小さい怪我はあったのだが、しばらく戦列を離れるほどの大きな怪我は、中1のときのオスグッド以来だった。

あの頃の出来事で、ずっと後悔していることがある。

肉離れが治りかけていたとき、ちょうど高校の体育祭があった。
体育祭のメイン競技、クラス対抗100mリレーに出るようクラスメイトから頼まれ、僕は、リレーであればサッカーのような接触プレーはないわけだし、ただ走るだけなら大丈夫だろうと、出場してしまった。
そして、そのリレーで、ふくらはぎをまた痛めてしまったのだ。

怪我の恐ろしさを知りながら、自分は一体何をやっているのか。
体育祭を優先するなんて、なんと愚かなのか。

あのときから、僕の左ふくらはぎは肉離れを頻繁に起こすようになってしまった。
しっかり治さないと、肉離れは癖になってしまうのである。
僕は高校時代に通算5回、肉離れを経験することになる。


復帰したときに自分の居場所はなかった

僕が肉離れで療養している間、既述の同級生が、僕の代役を務めた。
すると不思議とボールがうまく回るようになり、スムーズに攻撃できるようになった。

僕がいない方が、チームとして機能するのだ。
残酷な現実を突きつけられ、僕は目を背けたくなった。

怪我から復帰したとき、僕の居場所はコートの中にはなかった。
トップ下のポジションには躍動する同期がいて、僕はサブ扱いになった。


生き残るためプレースタイルを変更

僕は次第に、プレースタイルを変えていった。
変えざるを得なかった。
攻撃ではこれ以上通用しないと悟り、守備に重点を置くようになったのである。

これは僕の持論だが、サッカーは、守備よりも攻撃の方が圧倒的に難しい。

攻撃は、ゴールに直結するプレーが求められ、そのためには、基礎技術や戦術理解だけでなく、想像力が備わっていないといけない。
また、サッカーとは騙し合いのスポーツであり、相手を騙して点を取る、その胆力が問われる。
これらの力をトップレベルで発揮し続けられるほどの実力を、僕は持ち合わせていなかった。

一方の守備は、求められるものが攻撃とは全く異なる。
守備はリアクションなので、どこでどうボールを奪いに行くか決めておいて徹底的に準備さえしておけば、あとは相手のアクションを見ながら、ある程度やれる。
僕は、空中の競り合いは得意だったし、ドリブルで簡単に抜かれない自信もあり、少しずつ、守備でチームに貢献できるようになっていった。

この変化を受け入れるのは、決して簡単ではなかった。
攻撃では通用しないと認めるのは大きな挫折感を伴い、自尊心は大きく傷付いた。


ボランチ、そして筋断裂

僕は、センターバックなど後方のポジションをいくつか経験し、最終的には、中盤の底であるボランチに落ち着いた。

守備の要でありながら攻撃にスイッチを入れるのがボランチの役割だが、僕は攻撃的ではなく守備的ボランチだった。

ボランチとしてレギュラーになってから間もない頃、左ふくらはぎの肉離れが再発するようになり、肉離れで戦列を離れ、復帰してボランチに戻ったかと思えばまた肉離れになり、というのを繰り返していた。

ちなみに、復帰といっても、完治して万全の体制でプレーできることは殆どなくなっており、高2からは常にどこかに痛みを抱えながらプレーしていたように思う。

そんなリズムでやっていたから、全国大会常連校と強度の高い試合をしたときに、肉離れの最上級ともいえる怪我「筋断裂」を起こしたのは、ある意味必然ともいえる出来事だった。

筋断裂のため、1個上の先輩たちの引退試合には、出られなかった。


副部長就任、そして靭帯断裂

1個上が引退して自分たちが中心の代になると、僕は副部長に任命された。

その頃僕は身も心もボロボロだったし、役職をもらえるような中心選手ではなかったのだが、同期や監督は僕を見捨てずに盛り立ててくれていたように思う。

そんなチームに少しでも報いようと、筋断裂でプレーできないときでも、タテ高の応援歌を作って応援を盛り上げるなど、自分のやれることは進んでやるようにした。

それに、怪我に悩まされて一時期投げやりな精神状態になっていた僕も、「怪我から復帰したら活躍してチームを勝たせたい」という気持ちだけはあった。
「高校に入学した頃のように、また周りの人たちを驚かせたい」とも思っていた。

でも、現実は甘くなかった。
高校3年生の初期、筋断裂から回復すると、今度は左膝の靭帯を断裂した。
「自分のサッカー人生は終わった」と、天を仰いだ。


望んでいなかった形のフィナーレ

一応、最後の大会の最後の試合には、膝にテーピングを巻いて、出場した。

実力は拮抗する相手だったが、完封負けを喫した。
自分は体を張ってプレーしたと思うが、正直なところ、その引退試合のことは細かく覚えていない。
明確に覚えているのは、引退が決まったあとの、同級生の部長の言葉だ。

「負けるべくして負けた。ずっと勝ちたいと思って準備し続けてきた相手に、昨日今日勝ちたいと思った人間が勝てるわけがない」

これは、ズシリと響くものがあった。
部長は、うちのチームの日々の練習の積み重ねや日頃からの覚悟が足りなかったことを取り上げて相手チームと比べてこのように言ったのだが、僕は、自分自身のことに重ねてこの言葉を聞いていた。

自分はこれまで、純粋に勝ちたいと願って、3年間サッカーに打ち込んでこれただろうか。
入学直後にうまくいってチヤホヤされてからは、その立ち位置を守りたいとか、恥をかきたくないとか、そんな保身めいたことばかりしか考えていなかったのではないか。

僕の選手時代のピークは、高校入学時に終わりを迎えていた。
周りはどんどん上手く強くなっていったのに、僕はそうならなかった。

早朝や居残りでの自主練をする同級生がいた中で、僕はそういう自主練をロクにしなかった。
それは、怪我が怖くて練習し過ぎるのを避けていたということもある。
オーバーワークで疲労を溜めては体に良くないと思っていたのは事実だ。

でも、そもそも僕に、「純粋にうまくなりたい」という向上心はあったのだろうか。
「自分はやればできる」「自分は人とは違う」と幻想にすがり、サッカーがうまい先輩や同期に教えを請うこともしなかったし、監督やコーチの求める選手像に近づこうともしなかった。

そんな選手が、ずっと勝ちたいと願って毎日地道に練習してきた相手に、勝てるわけがない。

怪我が僕を駄目にしたのではない。
くだらないプライドを持った僕自身が、僕を駄目にした。

こうして僕は、不完全燃焼のまま、ユニフォームを脱ぐことになった。


最後に

あれから十数年が経った。

改めて思い返してみれば、高校サッカー時代には、悔いしか残っていない。

あのとき、中井さんの求めるシンプルなプレーを難なくこなせるようになるまで必死に努力していれば。
川口さんに「ちゃんとやれ」と言われても反発せず、安定したプレーで見返すことができていたら。
肉離れが治りかけているときに体育祭のリレーで走っていなければ。
トップ下で活躍する同期から学ぼうという姿勢を持つことができていたら。

僕は己の弱さを、サッカーから教わった。

自分を大人にしてくれたサッカーに、いつか恩返しできる日が来るといい。

今の僕にできることは、サッカー選手達を陰ながら支えることくらいだろうか。

もうすぐ、カタールW杯が始まる。
僕は日本代表を、ただひたすらに応援しようと思う。


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