架空は現実

頭の中に「ある」、あるいは「いる」現実。
不穏で、不誠実で、不義理で、不道徳で、不快な現実。
不当で、不幸で、不相応で、不実で、不定形の空想。

路地を歩く時、路傍の花を見る時
廃墟を彷徨う時、宿場町を訪ねる時、
嗅覚を、視覚を、聴覚を、触覚を、五感を刺激するものは現実だろう。
では、頭の中に、胸の奥に、心の奥に
沁みついて、こびりついて、離れてくれないこれは空想だろうか?

空想について、頭の中ですぐに生まれる言葉を羅列する。

まず一つ目に死に直結する内容。
自殺、自傷、自暴、それらに伴う、至る過程。
ナイフで、剃刀で、ロープで、ビルの最上階で、薬で
電車で、寿命で、病気で
自分が、誰かが、停止してしまう様なそんな情景。

次に、何かを失う情景。
不意に誰かに見放されてしまう時の目、
誰かを見放してしまった時の鏡の中の自分の目、
不意に離してしまった手のぬくもりが未だ残る感覚、
幾つもの「サヨナラ」の言葉のリフレイン。

最後に、幸せな空想。
美味しいものを食べたとか、
楽しい映画を見ただとか、


どこの町でも住んでいる人がいる。
どこの廃墟にもかつては利用者や持ち主がいた。
その人を想像する時、どうしても空想になりきれない。
名誉を、歴史を、記録を、積み上げてきた営みを、
そういったものを毀損してしまう様な気がしてしまう。

では、一層 現実の記録に終始してみてはどうだろう。
こんな頭の中の出来事など、
現実の前には取るに足らない架空のものだと、
そう切り捨ててしまえばよいだろう。
それがどうしても忍びない。

空想とは、現実に存在していた出来事の再現でもあるのだ、

誰かを壊したいと思うこと、
誰かに壊されたいと思うこと、

殴られたら、殴り返したいと思ったこと
殴られても、殴り返すことをしなかったこと。

いじめられた子を助けたかったこと。
いじめられた子を助けることをしなかったこと。

もしも、空想を全て切り捨てれば、過去まで見捨ててしまう気がしてしまうのだ。
それはとても寂しいことの様に思ってしまう。

それからIFの話。
もしも、もしもを並べてる。
もしも、私が「」であったなら、失わずに済んだこと、
もしも、私が「」になり切れたら、見捨てずに済んだこと、
もしも、「」たら、どんな話をしただろう、
もしも、変わりに「」いたら、君は笑ってくれたかな

並べて、繋げて、浮かべて
少しだけ、救われる。

だから、もしもは大切なのだ。
棄てたくないのだ。

倫理を度外視すれば、現実など空想の一要素に過ぎない様に思ってる。
光に速度があるなら、網膜に映る光景は必ず過去であり、
過去であるなら、それは空想と何が違うのか。人は真実、と思いたいものをかき集めて現実と呼んでいるのではないかしら。

それでも、私の空想が誰かを傷つけてしまうことが怖い。
けれど、誰も傷つけない言葉なんて、
きっと、誰にも刺さらないだろう。
それはきっと、自分にも刺さらないのだろう。

2023年を迎えた。時は過ぎていく。
本音を言えば、全ての空想の0kgの体重を風景に押し付けたい欲望はある。
けれども、それが毀損にあたってしまうことがどうしても恐ろしい。

だから、noteで基本的に文章だけで、写真もごくごくたまに
今年は此処で、少しだけ空想をこっそりと吐き出してみようと思う。
SNSで宣伝をしなければ、私の文章なんぞ誰も読まないことなど知っている。けれども、いつか誰かに刺さるといいなというささやかな願いと、
それから、自分の頭の中の不穏な空想を自分の為に吐き出していこうと思う。





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