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匿名の彼方から

知られることが怖かった。
知られていないことが優しかった。
インターネットの匿名の中で、余りに希薄な関係は
けれどもとても暖かいものだった。

*

「このアカウントは存在しません」
画面には無機的にそう表示されていた。そういえば見かけないな、とふと気がかりになり手繰るフォロー欄。アプリケーションの検索窓でアカウント名を入力してみる。けれども見つからない検索結果。特徴的な文字列で記憶に残っていたIDをブラウザで入力してみる。そうして辿り着いた事実はもうそのIDに紐づいたアカウントが存在しないということ。別にやりとりを行ったこともない。ただ普段の投稿を見て下さり、また見ていただけの関係性。
それは、とてもとても遠く薄い関わりなのだろう。もしかすると、別の名前になっているかも知れない。けれども、きっとその人と自分とを結びつけていたか細い糸は途絶えたのだろう。

命であれば終われば葬儀が執り行われ墓が立つ。
或いはやり取りを重ねた相手であれば、最後にその思い出をスクリーンショットの様な形で記録として保存することも可能だろう。けれども、ただほんの僅かに、暗闇の中でモールス信号を送り合う様にイイねのボタンを押して、そうして通知に名前がのぼっただけの存在。消えてしまえば、いつか曖昧な記憶の彼方に忘れ去られていくのだろう。

勿論、現実のその人は生きているのだろう。
きっと知らない場所で知らないままに、知らない人生を進んでいくのだろう。けれども、架空の匿名の抽象の概念としてのその人は失われた。
インターネットでの関わりとはそういうものだ。
只、一言くらい「いつも見てくれて ありがとう」
そう言えなかったことだけ、心の片隅で微かに澱んだ。
これはとても身勝手な感傷。

*
昔から演技ばかりしてた。
顔色ばかり窺って、片手の指で足りる人間関係の中でだけ本当で、あとは一人で空想している方が楽。
自分という実際を人に知られることが怖かった。
そこに伴う失望はいつだって恐怖でしかなかった。
だから、実体のない空間でいられる世界が好きだった。

ある年の誕生日、匿名掲示板で
「私は誕生日だから誰でもいいから祝ってくれ」と募集をかけて、
突発で全く知らない方二人が来てくださり、3人で下北沢でジンギスカンを食べたことがある。お互いに連絡先などは交換せずに、ただ芸術や経済や犯罪について自由気ままに話をした。それは到底、実社会の人間には話すことの出来ない類の不穏な会話で、「完全犯罪」「傍観者効果」「未必の故意」などおどろおどろしい会話だった。全く異質な取り合わせであったが、とても楽しく会話ができたことを覚えている。まず奇跡でも起こらない限り再度巡り合うことはないと知りながら「またね」といって、別れた。
正直でない場所だから、私は遠慮なく自信の邪悪さを語ったし、
架空の人達だから、彼等の語るまことしやかな話も心地よかった。

*
今のアカウントを作る以前もSNS自体は幾つかやっていた。
その頃は鍵に籠り、少数の知らない人とやり取りもつかないやりとりをしたりしなかったり。
合わない人とでも、チャットしながら朝まで徹夜でゲームしたり、
書いた絵を見せて貰ったり、
或いは交換日記形式に小説を書いてみたり、
そうやって遊んでは現実逃避をしていた。
結局大体話は暗い方に流れるのだけれども、それが不思議と優しく穏やかな時間だった。そこは傷を舐めあうだけの優しい闇だった。
けれども全く以て必要な闇だった。

数多の歌で、詩で、作品の中で登場する「貴方」
実体を持たない概念的で極めて抽象的な存在。
その貴方という概念に想いを重ねたり、託したりする。
SNSで関わる人の多くの人もまた一人一人違った、実体のない「貴方」の様なそういう概念的な存在であった。

私はプロフィールにもずっと貴方達と書いている。
貴方達とは、そういう概念的でずっと寄り添ってくれた匿名の人達だ。

*
私は匿名性が好き。

今、写真投稿を中心としたアカウントをやっていて
抽象から実体に変わった人もいる。
その中には私の名前を知っている人もいる。
リプライだけでやりとりを重ねた人もいる。
只、イイねをしたり、貰ったりモールス信号を続けている人もいる。
残念ながら消えてしまった人も沢山いる。

けれども、誰が大切とか、そういう話ではなく
ふと思う。優しい匿名空間に隠れる様に生きてきた身としては、そういった実社会とは無縁の遠い関係性にこそ、自分自信が救われていた。

*
昨今も凍結祭りなんて呼ばれたりして、Twitter自体も不安定だ。
匿名性の危険性がやり玉にあがり、実名に推移する流れも大きくなっていくのだろう。もしも凍結なんてなったらインスタに移るだろうか。それともすっぱり消えていくかも知れない。また違う名前に生まれ直すかも知れない。

匿名だから、語れる言葉もあり
匿名だから、隠せる心もあった。
闇の中に沈めてしまう言葉、その一端でもただ眺めて認知してくれる匿名と集合知。いつかネットという空間で、自分という存在の残影を消してしまう日が来て、それからきっと、少しずつ色々な人の記憶の中から失われていくものだとしても、或いはすでに忘れてしまった、忘れられてしまった匿名の誰かについてもそう。

明日、閉鎖されてしまうかも知れない電子の海の海岸線、
真っ暗で真っ黒な海を眺める。

その波打ち際に寄せては帰り、浮かんでは消えていく微かな存在。
消費的に流れていく言葉は見つかる時にしか見つからない泳いでいく魚で、モールス信号は茫洋広がる真っ暗な海に浮かぶ不安の中で一時見つけた灯台の灯りの様だと思う。

誰も寄り添ってくれなかった心の闇に、
隠し通した悍ましい本音を、
その一端を見ても、そこに居てくれた匿名の群衆が、
只、真っ暗で「何もない」世界の中で、
こんな写真も載せていない文章を最後まで読んでくれるような
見知らぬ「貴方」達が私は好き。

ふっと最近の流れをみて、
それから、消えていく人をみて、
或いはずっと投稿を見てくれている人々に
言えなくなる前に、ちゃんと「ありがとう」と書いておきたかった。
少し気持ち悪いかも知れないけれど。
匿名っていいよねっていう、ただそれだけの文章。

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