am1:23

こんばんわんこ。
重い話をするのでチョケてみました。
チョケるってどこの方言なのか知らないけど(たぶんaikoが言ってた)、知らないのに一発で意味通じるからすごいなって思う、しかも響きも可愛い日本語。
わたしもそんな人間になりたい。


今日の話。

生きてるだけで丸儲け。とは言うけれど。


生きてるってそんな尊いことなのか。
死に際したときに、もしくは誕生の瞬間に際した時に、すごく大きくまばゆく感じるものであって、生きてるってそんなえらいのか。
そもそもえらいってなんだ。


信頼する大人に対して、自分なりに気持ちを頑張って伝えようとしたとき、
「えらそうに言うな」って一言で蹴り飛ばされた経験が幾度となくある。
えらいってなんだ。
おまえはえらいのか。
わたしはえらくないのか。
じゃあ誰がえらいんだ。
校長先生か。
校長先生はえらそうになんかしない。
いつもニコニコ、校庭の花に水をやったりしている。わたしたちに最近あった面白かった話をしてくれる。そんな話を聞くのが好きだった。
1年前、弟の卒業式に参列したが、校長先生のスピーチをボイスメモで録っときゃ良かったと思うくらい話が良かった。
久しぶりに良い歳の取り方をした大人の話を聞いた気がして、嬉しかった。


本当にえらい人は、えらそうになんかしない。


これは私が20年ちょっと生きてみて割と確信していることのひとつだ。

定義がわからない「えらい」という言葉を、物差しを、よくわからないままに自信満々に使うのはきらいだ。これは「えらい」に限った話ではない。
どうやら世の中にはそういう人間は少ないらしい。
そんなだから、難しい言葉を使う人間は意地悪だ、なんていうやつが出てくるんだ。
まずは調べろ、今持ってるその煌々と光る賢い板で。
その前に疑え、自分の知識の曖昧さを。


はあ。

生きてるって、そんなにえらいのか。
ということは、生きてなかったらえらくないのか。
えらくないというと、つまりは良くないということなのか。ダメなのか。悪なのか。ダサいのか。
どっちに良いも悪いもなくないか。

生きてるんじゃなくて、まだ死んでないだけではないか。というか、そうだと思う。
誰しもが、次の瞬間死ぬ可能性を秘めていることを、うっかり忘れているだけではないか。
忘れていることを悪とするわけではない。ある程度忘れていないと、そうでないときに備えられないだろうから。人間はそこまで器用ではないから。


新社会人、私の1年目は散々なものだった。
初めて私のnoteを読んでくれた人のためにざっと書くが、1社目をパワハラモラハラ→適応障害により半年で退職。2社目でも異なる角度からのえげつないパワハラいじめ→適応障害により3ヶ月で退職。
ストレス源から離れても症状は全く良くならず1人で生活が難しくなり、鬱疑惑も大いにある中(怖くて聞きにいけず今に至る)、漢方や抗不安薬、その副作用、トラウマやフラッシュバックと共に闘いながら、とりあえず結果として生きている。

私の「生きている」はそんな感覚である。
結果として、生きている。
どうやら、生きている。でも確かである。


正直めちゃくちゃ消えたかった。
全部全部全部うまくいかなかった。頑張ったのに全部ぐちゃぐちゃにされた。有る事無い事言われても耐えるしかなくて、何が本当で何が嘘かわからなくなってしまった。今でも思い出して死んでくれって思うのは此奴らだけ。人生で一番頑張ってたのに「私頑張ってない」って自分で自分に呪いかけちゃった。これがまたなかなか解けない。勘弁してくれ。

ほんとは消えたかったけど、ささくれから血出ただけで騒ぐくらい痛いの苦手だし、無理だった。あとは実家の猫が可愛すぎてそれが心残りになりそうだった。そう、ただ死んでないだけなのだ。まだ、死んでないだけなのだ。

そんなだからもう頭はいっぱい、かつ神経疲労すごくてマジで動いてくれないし、「えっ普通に考えて死ぬのが最善策では?」みたいになってた。
いや、今も時折思う。どれだけ自分を受け入れられるようになっても、そもそも受け入れるという作業にめちゃくちゃエネルギー使ってるから。ただでさえパフォーマンス落ちてんのに、今まで必要なかった「受け入れ」という業務増えちゃってるから。
そんなの、自動効率化していただくに限る。
人生24年やってて今から全部手作業とか、有り得ないっす。


色々あったこと、今の職場ではかなり耳当たりの良いようにというか、学生バイトの子達を必要以上にビビらせないようにというか、軽めに伝えている。
だから、相談を持ちかけてくれる子も、ありがたいことにいる。


新社会人になる子達に向けて軽く何言か伝えるってなった時に、ふと詰まった。
「私も1年目めちゃくちゃ色々あったけど、なんだかんだこうやって、

なんだかんだこうやって、、なんだ。

生きてるし!って、ちょっと前なら言ってたかもしれない。実際、そういう言葉を発信する当事者も多い。
でもそれってやっぱり「生きている」ことを神格化していないか。

「生きてる」から、OKなのか。
生きてればどうにかなる、
ってのはどうにかしなきゃいけない壁を自分が直接どうにかしたり、自分がプライド捨てたり人に頼ったりしてどうにかしてるだけであって、ド疲弊している人間にそれをやれというのはオカシな話なので、ダウト。
生きてれば良いことある、
に関しては、生きてたらすんげー嫌なことあって良いことが霞むどころか消えちゃったよみたいなレベルでしんどいのに、そんな舐め腐ったこと言われたらたまったもんじゃないので、ダウト。生存者バイアス、結果論にも程がある。五月蝿いですシンプルに。

色々あったけど、なんだかんだこうやって、こんな感じで、みんなと楽しく笑ってるからさ。
みたいなことを結局、言った気がする。
これがズバリ答えかと言われたらわからないけど、「楽しく笑う」ことは良いことだって科学的に証明されてるし、咄嗟に捻り出した割には、今の私の中では最適解だったかなと思う。
また変わるかもしれないし、これが定着していくのかもしれない。

笑ってたい。
1年目の仕事がしんどかった時、大晦日の朝に呟いた。「1年後は笑ってたい」。
2年目の大晦日、それが叶ったことが何よりも嬉しかった。生きてて良かった。勿論、結果論だ。間のえげつないシンドさはゼロにはならない。

笑えてる、だからオッケー。
死ぬ時も笑ってたい。
なんなら笑いすぎが原因で死にたい。
これは10年くらい言ってる。

「笑えてる」だけで今日をオッケーとする。
人と話しても良い、何度も見たお笑いネタを見たって良い、実家の猫のおもしろ動画を見たって良い。
今日1日がどうにかなれば、問題ない。
そんなことを繰り返すと、1年が経つ。そしてまたそれを繰り返していく。
自分の中でぐんとハードルをやさしくした。
そのおかげで、ずっとたのしくなった。
今日もたくさん笑えた。
明日もたくさん笑えそう。
それが何よりの幸せだ。


長くて重かったと思うけど、ここまで読んでくれてありがとうございます。

こういうの哲学でいうとどこに属するんだろうか。
わかる方、教えてください。
4月はたくさん、諦めてたことやりたいんだ〜

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