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アシュタールセッションのその後~お母さんの意識が飛んできて~

アシュタールセッションを受けて数日後、洗濯物を畳んでいるときのことです。突然、どこからともなく「怖かった…」、続いて「赤いランドセル…」という声。

えっ?お母さん?

と思うと同時に、お母さんの意識が私の中に入ってきました。正確には何かが私の中に入ってきて、それがお母さんの意識だとはっきりとわかったという感じです。

そのエネルギーは、いつもの強気なお母さんからは想像もできないくらい柔らかくて女性らしくて、とても深い悲しみに包まれていました。
お母さんの悲しみが私の体全体に広がり、私はどうしてよいかわからぬまま、しばらくお母さんの意識とともにいました。そして、そのエネルギーは出ていきました。
海の底にいるような感覚から普段の感覚に戻った私。

えっ?えっ?お母さんこんなに悲しかったの?

正直、びっくりしました。お母さん、普段の生活の中でこの感情をよくここまで抑圧できてるなって思いました。

思い返してみると、お母さんは4人姉弟の3番目の三女。(4人目は男の子でした) 生まれたとき男の子を待ち望んでいた父親から、「女はもういらん。」と言って、見てももらえなかったと聞かされていたようです。
(私の生まれた時と似てるやん。お母さんは生まれたての私に会うことを断った人やった)

このエピソードは私もずっと前から知っていたのですが、お母さんがあまりにもあっけらかんと話すので、私もここまで傷ついていたとは思っていなかったのです。きっとほかにも理不尽な目にあってきたのでしょう。
姉弟の中でも、石炭を運ぶなどの力仕事は進んで自分が引き受けていたと言っていた母。自分の存在を肯定するには、女性性を捨てなければいけないほどの厳しい環境でよく頑張ったなぁと、母に寄り添う気持ちも少しばかり出てきました。

ここで点と点が繋がります。
私にオレンジ色のランドセルを買ったのは意地悪でもなんでもなく、赤いランドセルが怖かったお母さんにとってギリギリの選択だった。

私が短い髪しか許されず (一番短い時は、短髪時代の梓みちよさんとタイマン張れるほどでした)、女の子らしいヒラヒラやレースとは皆無な洋服しか着せてもらえず、私が男の子と間違われると喜んでいたのも、お母さんが自らの女性性を刺激しないためのものだった。

私が20代のころの会社帰り、大雨の中、私の傘に「途中まで入れてください」と言って入ってきた男の人から、急に路地に引きずり込まれ、両手を押さえつけられ暴行されかけて、悲鳴を上げて泣きながら必死で逃げて帰った時、お母さんは私の話を聞くどころか、
「大したことない!グズグズ言いなさんな!」と私を一喝し、それ以上の話を聞こうともしなかったのは、お母さんにとって自分の子供である私が、女であることを認めないといけない辛いことだった。

全部仕方なかった、うん、本当に仕方のないことだった。お母さんの意識を自分ごとに感じたからこそ、理解できる「仕方なかった」。

うーん、わかる。めちゃくちゃわかる。わかるけど…
だけど、私は?
いくらお母さんの悲しみを感じたからと言って、お母さんにとっての「仕方なかった」を許せるほど、私は心が広くない。怒りは怒りのまま私の中で暴れている。

ここで、そういえば以前同じような内容でアシュタールさんに質問したことがあったなあって思い出して、音声を聞いてみたのです。
(状況や登場人物は違いますので、内容がしっくりこないところもありますが、そのまま書き起こします)

ま 相手が未熟だったというのは理解できても、私の理不尽な怒りのやり場はどうすればいいのでしょうか。

ア はい。一つのご提案ですけど、その状況を作り出したのはあなただということを認めてみてはいかがでしょうか。あなたの周囲にいる方々というのは、あなたを反映してる方々なんです。

ま そうですね。はい。

ア あなたの中に人を責めたい気持ちですとか、(色んなことをしてまで) 自分を守りたい気持ち、そういったのが体験に現れてます。

ま この怒りはまず横に置いといて、これは私が作りだしたんだって認めるってことですね

ア そうですね。一つの提案としては。あなたが採用しても構わないのであれば、そう感じられた方があなたの怒りは収まりやすくなると思います。

ま それはポジションチェンジみたいなものですか。

ア そのやり方もいいと思うんですけど、私からのご提案というのは、その状況を作りだしたのがあなたの意識だということです。伝わりますか。

ま わかります、わかります。だから、それだけ抑圧していたということですよね。

ア そうですね。とても我慢していて、おそらくイライラしていて、だれかを攻撃したい気持ちもあったかもしれないです。

ま そか。そういうことか。

ア あなたが自分を整えれば整えるほど、あなたの人間関係はよくなってますので、今の人間関係の方が当時の人間関係より、ずっといいものが得られると思いますよ。


結局、このお母さんも、この色々も私が体験したくて作り出したもの。だれも悪くないってことですね。

でも、今の私の感情はそんなにうまくまとめられないし、今は、お母さんの気持ちをそのまま感じることで見えてきた「仕方なかった」を受け入れる、それが精いっぱい、これ以上無理。

と思いながら、昨日、怒りの素を一つ手放してみました。

見るたびにイライラしながらも、もったいなくて残しておいたお母さんからのお下がりの綿のジャケット。
とても高かったという理由で何とか着てあげたくて置いてたけれど、昨日チョキチョキ切って台所の油ふきにしました。

そうしたら、心がとても楽になってきて。
私の中の罪悪感 (お母さんの気持ちより自分の気持ちを大事にする) を手放していけばできるかも、お母さんとの和解。
同時に、抑圧してる私の中の攻撃性も罪悪感から派生してること多そうだなって気づきました。

結局、だれも悪くない、そして私も悪くない。そゆことですね。

今回の記事いかがでしたか。 気に入って頂けたらとても嬉しいです。