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2.礎 柏原源次郎の信仰と生涯/西山輝夫

要旨

(まずは本の内容をざっくりと)
名東大教会の2代目会長柏原源次郎(明治8年~昭和32年)の人生が描かれた伝記。名東の教会数が7ヶ所のときに会長になり、その後約300ヶ所まで発展。ない命をたすけられたことから入信。その後単独布教に出た先で脳の神経病に。親会長(土佐卯之助)の真実により、またも神様のご守護をいただき回復、それからは六本の武器を作って因縁と戦い土佐会長への御恩に報じることにだけ尽くした。後年は本部員に登用。立たない人の足を立たせると有名で、おたすけを乞う人ら計17人の足の立たない病人をおたすけし見事歩かせた。生涯何度も命を落とす危機に見舞われるが、そのたびに心を奮い立たせ、83歳まで長生きし教祖一条に通り切った。

因縁…自分が過去に行ってきた行動や心遣い。人間は魂だけは生き通しで、前生(前の世)や前々生(前の前の世)などの行いも今生にいんねんとして現れることがある。親神様の思いに添わない自分中心の心が後々に病気や事情となって現れてくる。)



感想

熱くなる本です。
西山輝夫さんは書く文章は熱い。源次郎先生はほんと尊い生き方で、学ばせていただくところが多いなと思いました。

名東大教会は僕の所属教会で、理の親であり、名東を作り上げた第一人者である源次郎先生の本を色んな本より優先して今回読ませていただきました。

理の親…入信を導いてもらった人。所属の教会長。また、教祖。色んな立場の人を指して言われる。)


こういう、教祖のひながたを通り切った先生方の伝記を見るとき、様々それぞれの持ち場立場での通り方があり、自分自身にヒントを得ることができます。


理の親としての生涯の通り方について、自分のこれからの生涯と照らし合わし思案してみたいと思います。



六本の武器

源次郎先生のすごかったところは、ない命をたすけてもらった元一日のことをいつまでも忘れず、自分を厳しくいましめ続け、教祖のひながたを通り切ったということです。

その特徴として、自分の因縁と戦うための生涯の心定めを六つ掲げています。

心定め…神様との誓い。身上や事情(病気や問題ごと)があった時に今一歩の心の成人をするために定める。そうして親神様の心に添うような心に入れ替わることでご守護いただける。)


その内容は
朝起き50年(日の出の一時間前に起きる)
一夫一婦生涯(色の間違いなく生涯一人の妻)
禁酒禁煙50年
見物全廃50年(レジャーや芝居、テレビなど)
日の丸弁当50年(粗食。買い食いもしない)
綿服一貫50年(粗衣で通る。絹などの良いものは着ない)

これだけの自己規制を、50年を超えもはや生涯に渡って続けられたのです。

本文より

布教師とは何か。みずからは簡易生活、最低生活に甘んじて、世人を救済せんとするものである。教祖の道を行わんとするものは、世人の親とならんとするもの。親が楽をし、みずからの楽しみを求めておっては、子供が育つ道理はない。

との思いで、自分を世上の安楽に流されないように律し続けたのです。




なぜできたか

上記の六つを生涯やり遂げていくというのは、簡単に真似れるほど容易なことではありません。

後年語られたこの言葉がひとつの解として、ただおたすけの喜びに生きている姿として見てとれます。

私は誰をつかまえても話をするので、人は私のことを、大変話好きだというが、そうではない。救かってもらいたいばっかりや。このありがたい道を、人様にも分けたいというばかりや。  
私は、生きるか死ぬかという大節を七回も通ったが、その都度、お救けいただきました。このありがたい御恩は忘れられるものやない。何とか御恩報じがしたい。それだけが私の願いです。 
この喜びにくらべたら、人間の楽しみなどというものは薄っぺらいもんですなあ。私の楽しみといえば、人様に救かってもらう、この辺でしょうな。あとのことは何にも考えまへん。考える必要もありまへん。



まとめ

この教祖伝についてのページでも書きましたが
この本「礎」からは信仰のヒントになることが多く書かれていたように思います。

そして自分の解釈・解説を進めていくより、もうそのままこの本を読んでもらった方が早いというぐらい、西山先生によってわかりやすく的確に書かれています(笑)
ので、本文を多く引用しながらまとめていきたいと思います。


まずは僕の過去の反省から
無理して一世一代のおたすけにかかっても、それはなかなか続けていけるものではなく、理想との、出来ていない自分に対するギャップにやられ、余計に自信を無くしてしまうという結果につながります。

これは、野球選手のイチローも言っています。

高い目標を成し遂げたいと思うなら、常に近い目標を持ちできれば次の目標も持っておくことです。
それを省いて遠くに行こうとすれば、挫折感を味わうことになるでしょう。
近くの目標を定めてこそギャップは少ないし、仮に届かなければ別のやり方でやろうと考えられる。
高いところにいくには下から積み上げていかなければなりません。

実際に、積み上げてこられた方の言葉は説得力が違いますね。



また、

こういった先人の伝記を見たときに、人それぞれ成人の度合いによって響く部分は違うのだと思います。


僕はかつて、先生方の後年のすごさにばかり目をとられがちでしたが、逆に目を向けるべきは、最初のころの積み重ねの時代にあるのだと思いなおしています。


本文から


源次郎先生の六つの武器の原型は、教えを仕込まれた撫養大教会初代の土佐卯之助会長にある、とのことです。

その土佐会長の方針としては、

格別なことを求めるのではなく、日常の平凡なことを確実に果たしていくというものであり
具体的には

第一に早起きでなければならない
食うもの着るものに贅沢はいらない
大酒・色情は乱れの元

と説いて自らもそれを実行した。

要するに、
これらはやる気になれば、誰でもできる範囲の禁欲主義であり、宗教家として守るべき最低限の事柄であるが、こういう日常の小さな実行の積み重ねができなくて、大事は成るものではない。

といい、

また、

気ままに流れ易い心を日々修正してゆくためには、何といっても、日々の生活の姿勢が大切である。大酒をのみ、朝寝をしていても、たまには人が救かることもあるかもしれないが、それでは自分が救からない。

とあります。


源次郎先生はこの生活規範に習い、それが最善だと思い、自分の生活信条を決めました。

六つの武器を生涯通すというと、一見途方もなく難しいことのように思いますが
元を辿れば、日常の小さいこと平凡なことの積み重ねなのです。
(だからといって、決して簡単にできるものではないですが)


本文にも

努力精進の一生であった。後年の源次郎をつくったのは、この努力の積み重ねによるものである。

とあります。

努力を続けられるか、という戦いはあるでしょうね。


でもそういった努力を
源次郎先生が自ら身に行って残してくださった生涯の通り方に
少しでも近づけるように
自分自身、小さな積み重ねをする努力をつとめていきたいと思います。



そして最後に、

自分への戒めを含め、今のお道の現状にも繋がる、当時の教会長に対して的確な指摘をしている源次郎先生の話を紹介して、締めくくらせていただきたいと思います。


神様は「近道も欲も高慢なきように、ただ一筋の本道に出よ」と教えて下された。
近道とは、苦労なしに人を救けんとするのである。
今日の担任者は早づくりの所長様になりすましているから、大病人が頼んできても、釣鐘を鋳かけ屋が請け負うたように、手の付けようも知らぬ。妻君が難産してもお救けができない。
そうして、私等は徳がない、というておる。徳なんか語るべき自分でも何でもないので、神一条で人を救けるという修業が少しもできていないのである。
‥‥教祖一条ということで、我々は日々夜な夜な教祖一条となっているかどうか。なっておらないではないか。
‥‥この心がお救け人の身ごしらえである。この身ごしらえは、一日々々油断なく勤めるところにある。





最後までお付き合いありがとうございました。








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