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メトロクスものがたりープラスチック雑貨から日本の工芸品まで。

2008/11/12

「90年代のなかば、ぼくにプラスチックの本を送ってきて、こういうインパクトの強いプラスチックの製品を扱っていきたいとおっしゃってましたが、原イメージとして、つまり幼少の頃に接したどんなデザインが記憶に残っているのですか?」

ぼくが下坪さん(メトロクス社長)にこう質問したのが、「メトロクスものがたり」を書こうと思う契機になりました。この10月、二人でイタリア各地を旅したのですが、レストランで夕食をとりながら、クルマでボローニャからフィレンツェへの高速道路を運転しながら、ホテルのバーで酒を飲みながら・・・結果的にほぼ1週間、毎日、ぼくが質問をしながら、多くの記憶を辿ってもらうことになりました。

ぼく自身は「ミッドセンチュリー」という言葉が好きではないので、「モダンデザイン」という表現をつかいますが、1990年以降の日本におけるモダンデザインを下坪さんの個人的なヒストリーを元にビジネス面から語っていこうと思います。きっとそれによって、メトロクスというブランドの歴史や意味が伝えられるのではないか。そう考えたのです。

冒頭の質問に戻ると、196?年生まれの下坪さんは、こう答えました。「台所のテーブルにかかっていたビニールのテーブルクロスやタッパーウェア、あるいはグラスですかね。こういうものの原色系、黄色、オレンジ、グリーンといったカラーがとても印象に残っていますね。でも、こういうのを改めて意識したのは、高校からデザイン専門学校に通っていた時代の、洋服のモノトーンに嫌気がさしたからかもしれないんですよ」

2008/11/12

小さな頃、下坪さんの趣味はコレクションでした。ミニカーです。トミカ(現タカラトミー)から出ていたミニカーをショーケースに埋めていくことが最上の喜びでした。セメント施工の会社をやっていたお父さんがお客さんに集金に行く際、彼はお父さんのお供。そして、その帰りにいつもプレゼントがあったのです。

いわゆるスーパーカー世代です。でもミニカーはスーパーカーより普通のクーペなどが中心でした。クルマそのものへの関心もさることながら、「ショーケースのなかに何かが欠けている」ということが気になって仕方がなかったのです。このあたりに、下坪さんの「完全」に対する情熱がみえます。

しかしながら、家にこもりっきりの子ではありません。小学校3-4年生の頃、そろばん塾の帰りがてら、町内にあった街灯を片端から石を投げて壊したことがあります。木の電柱で電球も低かったのでしょう。それにしてもたいした命中率です。しかし、下坪さんは翌日、お母さんに電柱に縄でしばられ、2時間ほど泣きっぱなしだったそうです。通り行く人やクルマが皆、足をとめていくわけですから、かなり厳しいお仕置きです。

下坪さんのお姉さんは1歳年上です。背も高く運動も勉強もでき、いつも弟として悔しい思いをしていました。そのお姉さんが中学1年のとき、下坪さんが小学校6年生のとき、二人で喧嘩して弟は彼女を投げ飛ばした。このときの解放感と爽快感は忘れがたいといいます。街灯を壊したことといい、その頃の腕白ぶりがほほえましいです。とにかく、学校では工作が好きで、モノ作りが大好き。でも少年野球では投手。バランスの良さが窺えます。

2008/11/14

下坪さんは、中学と高校ではバスケット部で活躍します。シューターでした。本人の表現によれば「まあ、まあ、上手かったほうでは」とのことです。高校の頃の趣味に、今の仕事に通じる芽がみられます。お父さんのもっていたロンジンなどの古い腕時計に興味をもち、「使い込んだ古いものの味にしびれた」と言います。彼が社会人になって今の基盤を作る最初の仕事が、アンティーク家具ですから、この古い腕時計に対する目覚めは重要なポイントだったと思えます。

彼の実家は札幌から2時間ほど離れた街です。高校生になると、電車に乗って札幌に洋服を買いに行くのが楽しみの一つになります。雑誌では『ポパイ』『ホットドッグプレス』『メンズクラブ』『ブルータス』などを読みます。特に本を読むタイプではなく、小説などほとんど手にしないといいます。漫画も読みません。しかし、現在、その彼のオフィスに膨大な各国言語のデザイン書籍があります。そのあたりの変化は20代になってからです。彼は本に頼ることなく、自分の頭でよく考える人だったのです。

高校を卒業し、デサイン専門学校でインテリアデザインを勉強しました。雑誌でみた空間デザイナーをカッコいいと惹かれたのです。この学校に通うようになり、あらためて幼少の頃に日常にみていた原色系、黄色、オレンジ、グリーンといったカラーが好きだったことを再認識したようです。

デザイナーにはなろうと思わなかったといいます。デザイナーをやるには、もっと才能が必要だと自覚していました。ぼくは、この言葉を聞いたとき、下坪さんがその頃に狙っていたデザインのレベルが分かるような気がしました。最上レベルのデザインが自分の手から実現できないなら、自分は裏に回ろうと思ったのではないかと思います。その通り、彼は卒業後、イデーの札幌店に入ります。当時デザイン家具を扱う会社としてはイデーが一番新鮮でした。札幌店は4-5人の店員規模だったようで、彼も一店員からスタートします。

2008/11/17

およそ1年間、イデーで仕事しました。常連のお客さんからオファーをもらい、イデーを退職したのです。婦人服デザイナーで自分のお店で販売を手がけている女性が、旦那さんと一緒にアンティーク家具の店をはじめるので、そこで働いてくれないかというのです。旦那さんは商社の駐在員として米国西海岸で生活したことがあり、その頃に見ていたインテリアデザインに興味があったようです。

こうして西海岸や英国に毎年2回ほど出張する生活がはじまります。最初の2年は、オーナーと一緒でしたが、その後は一人です。アールデコや1930年代の家具がメインでした。クロームや黒のモノトーン、高級感のあるマホガニー系の赤茶色が、時代のムードとあっていたのでしょう。こうしたデザインあるいはいわゆる猫足の椅子などが扱い商品の主流でした。ただ、下坪さん自身の趣味ではありません。1950-60年代のデザインに興味がある彼にとって、これらのラインは重過ぎます。

アンティークの買い付けは気力勝負でもあります。約1か月、トラベラーズチェックをもって、各地を巡ります。小型トラックやワゴンタイプのレンタカーでショップカタログと地図を片手に、一軒一軒掘り出し物を探していきます。店だけでなく倉庫にも入り込み、埃だらけになりながら、棚の上や下に目をやります。「いいものは、店主も忘れかけたような棚のてっぺんか下に隠れてある」というのが学んだことです。

購入するとクルマに積み込み、宿泊先のホテルや契約先倉庫に運びいれます。丁寧に家具や照明器具を写真で撮影しながら分解していくのです。そして、それらを運送中の破損がないよう梱包していきます。そのため下坪さんは、今も名品の数々の構造を熟知しています。ピエール・ポランと話している時、下坪さんはザヌーゾのチェアの構造をすぐさま説明し、ポランに「あなたは、なんでも知っているんだね!」と大いに驚かれたこともあります。

2008/11/19

買い付けの仕事は孤独です。倉庫にモノをおさめたら、ホテルでその日の経費計算をしないといけません。アンティークの世界は領収書もきちんとしていないこともあり、数字を忘れる前にノートしておかないといけないのです。そして次の日も朝早く6時頃には出発しないといけません。パブで酒を飲んで暇つぶしする時間はないのです。こういう生活が4週間、土日なく続きます。

ぼくは、この禁欲的な出張の話を聞いて、映画でみるスパイの孤独な旅を思い起こし、思わず「かっこいいですねぇ」と言ってしまいました。下坪さんの出張で感心したのは、この禁欲性だけではありません。そのような生活が続くので出張の日当が貯まっていきます。そのお金は自分の向学のためにデザイン関係の書籍を買い集めることにしたのです。

この会社は結局5年勤めました。前回書いたように、下坪さんの扱いたいデザインははっきりしていました。自分の道を歩いていくタイミングがきたということです。1993年に独立します。メトロポリタンギャラリーの誕生です。都会的でギャラリーのような余裕のある空間を、との思いがこの名前にこめられています。

「1996年頃、ぼくが下坪さんから初めてコンタクトをうけたとき、ジョエ・コロンボが好きで、この商品を扱いたいと言ってましたけど、初めてのジョエ・コロンボの製品は、どこで何を買ったのですか?」と尋ねると、パリで買ったスパイダーだったとのことです。3万円です。今も事務所のデスクに置いて使っています。その次にコンフォルトのエルダも買い、プラスチック製品の解説ではバイブル的存在の L’UTOPIE DU TOUT PLASTIQUE 1960-1973 もパリで入手します。じょじょに準備が進んでいったわけです。ただ、ダイレクトに、この路線にきたわけでもありません。

2008/11/21

アンティークをメインとするメトロポリタンギャラリー以外にも、20世紀半ばのアメリカンデザイン家具を中心として扱う米国モダニカ社の「モダニカ札幌」というポジションもありました。日本のモダニカは東京が中心で、名古屋、福岡、そして札幌は下坪さんの会社が運営するという協力関係が形成されました。メトロポリタンギャラリーで開催した「‘60年代の室内」という展示会に、雑誌編集者などと共に、モダニカ関係者が訪問してくれたのが契機です。そして、ここでイームズのシェルチェアがヒットします。札幌のお店で4万円の椅子が毎日一脚は売れたのです。

米国のモダニカが新聞に広告を出し米国全土からシェルチェアを買い集め、5桁にのぼる在庫を倉庫に積み上げ、それを大々的に米国、英国、日本で売り出しました。従来のアンティークショップより、モダニカは1-2割高い価格でした。しかし、アンティークショップでは2-3脚が販売ロットだったのに対し、モダニカは100脚をいっぺんにすぐ用意できたのです。日本で評判となったのは、もう一つの幸運があります。雑誌『ブルータス』がイームズの特集を組んだのです。これがイームズブームに火をつけました。

その頃、パントンチェアがヴィンテージものとして6-7万円したのですから、4万円のシェルチェアは割安な価格です。しかし、シェルチェアブームには別の意味もあります。それまで、イームズの椅子は建築家やデザイナーが買うアイテムでした。それが20代の普通の女性も買うようになってきました。それまで彼女たちがデザインという時、雑貨、それも花柄のファンシーな商品がメインでした。その彼女たちがインテリアの椅子に目が向くようになったのは大きな変化です。70-80年代に「自立しはじめた女性」が、90年代になって余裕がではじめてきたという時代背景とも関係があるでしょう。

2008/11/24

『ブルータス』ではイームズのあとにはヤコブセンの特集を組み、北欧ブームも起きてきます。この北欧家具はソフトな印象が強いためか、女性購買層をよりひっぱる要因になりました。やや日本に特有な傾向と思われるのは、チーク材ではなくビーチが主流で、白い清潔感がことのほか好まれるという点でしょう。他方、イタリアデザインは、アレッシー的なカラフルでユーモアのあるタイプは女性に好まれますが、もう一方の伝統的な正統派のデザインは、圧倒的に男性が多いという流れが、このあたりの時期でもはっきりしていました。

下坪さんは、こういうイームズブームが落ち込むことを予想し、以前から準備していたイタリアデザインの領域を得意分野にしていこうと思います。独立前にもイタリア製品を全く扱ったことがなかったわけではありません。米国でイタリアのガラスやセラミック製品を「遊び」で買い集め、それを日本で売っていました。イタリアの独特のカラーに惹かれていたのです。

話しが少し飛びますが、実は2003年、フィレンツェのビトッシからオファーをうけ、取引を検討するにあたり、ビトッシの工場でコレクションを見せてもらいました。そこでガラスケースのなかに収められたロンディの作品の数々を見て、下坪さんは「アッ!」と驚きます。およそ10年前に米国で買い集めていた作品が、ここにあったのでした。1990年代の前半、米国でビトッシもロンディの名前も知らずに商材としていたものが、イタリアの名の知れたアートディレクターによる作品であったというのが約10年後に判明したというわけです。ビジネスを即決意しました。

2008/11/26

1996年、ぼくはミラノではじめて下坪さんと会います。下坪さんがヨーロッパ路線のものを本格的に増やそうと考えていたときです。モダニカの看板を掲げているので、店におく商品はモダニカ(アメリカ)製品が多くを占めるという当然のルールと自分の好きなデザインを扱っていけないとのジレンマに悩まされていた時期です。下坪さんはぼくに ”L’UTOPIE DU TOUT PLASTIQUE 1960-1973”の本を送ってきて、ここに掲載されているジョエ・コロンボを中心とした製品をイタリアから輸入したいと言ってきました。

そこで、ぼくが出したアイデアは、並行輸入はやらず、正規ルートでメーカーから購入するビジネスをするということです。つまり既に日本とビジネスが進行している中に横はいりするのではなく、デザイン事務所やメーカーと正面から向き合えるビジネスを発展させることを提案したのです。下坪さんは、アンティークの世界で商売をしてきたので、著作権やメーカーの事情にあまり強くありませんでした。一方、ぼくはアンティークとは無縁でした。彼のように古いデザインにさほど詳しくもありませんでした。しかし、ぼくがデザイン事務所やメーカーの文化を知っていることが、彼の助けになると考えました。

ぼくはジョエ・コロンボのデザインにどんなものがあるかを本でリサーチし、デザインの著作権を誰がもっているかを調べ、そして肝心の人間からどの製品なら我々が扱えるかを実際に聞いたのでした。そうした下準備ののち、下坪さんとミラノ郊外にあるオールーチェを訪ね、スパイダーの限定生産について協議したのです。まだ金型があり、復刻することは可能だが、最低生産数量は50と言われました。もちろん今では全く問題ない数ですが、その時はどうなるかも全く分からないビジネスですから、50にもどきどきしました。

現在、オールーチェがスパイダーを通常の量産品で扱っているのをみると、かなり感慨深いものがあります。今、”L’UTOPIE DU TOUT PLASTIQUE 1960-1973”に掲載されている商品で、扱った経験のある商品あるいは現在も扱っている商品を数えてみました。ジョエ・コロンボ「ボビー」「ランプ281」、ボネット「マガジンラック」「QQ」、ピレッティ「プランタ」、マルティネッリ「モデル643」、ソットサス「ウルトラフラーゴラ」、デパス他「ジョー」、スーパースタジオ「パッシフローラ」、ザヌーゾ「ドネイ21」、ザヌーゾ&サッパー「アルゴール11」・・・と随分あります。なかには他インポーターから仕入れている製品もあります。

2008/12/1

”L’UTOPIE DU TOUT PLASTIQUE 1960-1973”に掲載されている商品で、メーカーに再生産の交渉をしたけれど、数量やコストがあわず、適わなかったものもあります。このように1960-70年代のイタリアデザインを、メトロクスが日本に紹介してきたのです。メトロクスという名称を使いましたが、もともとのメトロポリタンギャラリーという言葉が「ギャラリー」として誤解を生む、あるいはやや名前として長いということもあり、モダニカ札幌も統合してメトロクスという店名に変更しました。2002年のことです。

メトロクスで直接メーカーから仕入れる商材が多くなり、当然、デパートを含め、全国のデザインショップに卸をしていくケースが増えます。現在、卸売りの取引先は250以上に及びますが、そのきっかけになったのが、ジョエ・コロンボのボビーです。2001年春からスタートしました。この前は事務機器メーカーが輸入し、設計事務所などに販売していましたが、この会社がボビーの独占輸入権を手放すと2000年12月初めに聞き、我々は急遽動きました。クリスマスから大晦日ぎりぎりにかけて目処をつけ、年明けすぐにメーカーに駆けつけ交渉したのです。

メトロクスのアイデアは、このボビーをもっと一般家庭のインテリア商品として普及させることでした。そのため、白や黒だけでなく、他の色を追加しました。この狙いはあたりました。今までの事務用品イメージからインテリアグッズにも領域が広がったのです。そして、この月間数百台出荷するボビーを中心に、他の製品を紹介することができるようになりました。

この1-2年前から、メトロクスでは独自に開発した「セルシステム」というユニット家具を国内で作り始めており、主力製品に育ってきていました。ありそうで案外ない良いデザインのもの。こういう空白を埋める製品です。ボビーは、この製品と両輪をなす位置づけになったわけです。

2008/12/3

モダニカ札幌を運営しながら、下坪さんが好きなヨーロッパのデザインを扱いたいと強く思っていた‘90年代半ば、パリの蚤の市で一つのデスクと出会います。もともと下坪さんはデスクに惹かれるようで、オリベッティのデスクとは’90年代前半の米国買い付け時代に出会っていました。今もイタリアのアンティークショップでデスクを見つけると、目がキラリと輝くのが下坪さんです。

このパリで買ったデスクは1956年、米国のネルソンの影響もうけたピエール・ポランがデザインしたものでした。‘60年代以降、非常に有機的なデザインを始める前の直線ラインが印象的な作品です。2002年、メトロクスはこの作品を日本で生産することを検討し始めます。これまでの輸入ビジネスから一歩進んだ、ロイヤリティ生産する初めての経験です。

ぼくはポランの連絡先を探し出し、ポランが指定したパリの弁護士との契約協議のために、下坪さんと二人でパリに向かいました。そこで我々が特別に依頼したポランのサインをデスクの一部に入れたいという要望が、引き出しの中ならOKという形で受けいれられたのは、嬉しい思い出です。ポランはとても控えめな人柄で、目立つことをあまり好まないのです。

2003年は一つの重要なイベントがありました。それは東京店のオープンです。これまで札幌を拠点としていることで良いことがありました。東京の多くの同業者と直接対峙することがなかったのです。常に協力関係でした。また、タイムリーなことばかりにエネルギーを費やさず、東京人と違うリズムで生き、違うモノをみることにより、違う考え方を維持することができるというメリットがありました。しかし、更なる成長を見込むには東京への出店は不可避な時期にきていました。

2008/12/5

東京店のための不動産物件探しも楽ではありませんでした。当初から天井の高い空間であることに拘りました。必然的に倉庫や工場跡が候補になり、羽田空港の近く、あるいは木場の倉庫街などが考えられました。良いモノが良く見える場所である必要がありました。しかし、大型トラックの排気ガスが蔓延する道路を、徒歩でおいでいただくお客さんの気持ちも考えないといけません。紆余曲折のあったなか、今の新橋の物件が見つかったのです。元ダンボール工場です。

愛宕警察の裏にあたるこの地域、家具を作る小さな工場が多かったことは後から知ったのですが、高い天井と何となく昔の匂いが残す町並み、汐留や芝公園に近いという地の利、こういう要素が全てメトロクスの味方をしてくれるだろうと下坪さんは考えました。インテリアショップが軒を連ねる場所に安易に引き寄せられなかったのは、彼の意思の強さだと思います。

2003年、もう一つ新しい試みをスタートさせます。‘50-’70年代に活躍したデザイナーへのインタビューです。その時代のデザインを扱っていて、それを考えたデザイナー本人の生の声を聞いておきたいという欲求が強くなってきました。それもどこの雑誌や本でも取り上げているデザイナーではなく、作品自体は有名だけど、デザイナー本人があまり外に出ていない。そして、メトロクスが扱っている(あるいはこれから扱いたい)製品をデザインしている人、こういう条件のもとにはじめました。

一年に二人ずつ、インタビューを開始しました。トップバッターはMH WAYの蓮池氏、そしてプリアチェアのジャンカルロ・ピレッティ氏、ジョエ・コロンボの右腕だったイグナチア・ファヴァタ氏、フランス工業デザイン界のヒーローだったピエール・ポラン氏、パリのオルセー美術館の設計も担当したガエ・アウレンティ氏・・・と続きました。我々がここで得たものは、想像以上に大きなものでした。

2008/12/8

デザイナー達と話しをして、我々は50年代から70年代の空気や考え方について、ある実感をもって知ることができました。人の語る過去は美化している部分、整理しすぎた部分、そういうことが沢山あるのは承知していますが、それでも、メーカーがロイヤリティを約束とおりに払ってくれなかった話などになると、まさしく今の問題のように喋ってくれるものです。

およそのところ、どんなクリエーターもそうであるように、過去の自分の作品を振り返ることにさほど関心のない様子をみせますが、一度製作当時のことに想いが届くと、まったく違った顔をみせてくれます。その瞬間をみると、我々も「同時代性」をリアルに感じるのです。

さて、話をビジネスに戻しましょう。直接輸入商品が事業の核になってくると、経営面からのリスク分散を考えないといけないことになってきます。輸入はオーダーから入荷、そして販売までのリードタイムが非常に長いです。売上げ金を実際に手にするまで、3-4ヶ月はかかります。為替変動もありますし、リードタイムが長いと、どうしても社内で柔軟な対応がとりにくくなります。

もう一つの車輪をもっと大きなものにしないといけません。もう一つの車輪とは国産品です。セルシステムやプチデスクのようなロイヤリティ生産では不足している部分、これをどう補完していくかがテーマになってきます。

2008/12/10

1998年、池袋セゾン美術館で「柳宗理のデザイン展」が開催されます。柳宗理は1915年生まれで、民藝運動のリーダだった柳宗悦の長男で、いうまでもなく既に工業デザインの第一人者ですが、この展覧会を境に柳宗理の再評価が高まります。その後、2000年代に入り代表作のバタフライスツールがよく売れるようになります。このあたりから、日本のデザインあるいは民芸品が見直されるという流れになっていったのですが、こういうトレンドを見ながらメトロクスが選んだ道は、バタフライスツールを追随して売ることではありません。

1990年代前半の猫足ブーム時代にヨーロッパのモダンな家具に目覚め、1990年代半ば、特にイームズブームの最中にイタリアデザインの準備をはじめた。流行りの通りにショップを並べる同業者とは一線を画し、新橋に店舗を構える。これが下坪さんのやり方です。インタビューしたデザイナーの面々の選び方も、一番光があたっている場所を避けているのが分かります。

経営面での大きな両輪作り。国内デザインの隆盛。この二つの背景をもってメトロクスがスポットライトをあてたのは、1911年生まれで現役の渡辺力さんです。1954年、清家清が設計した邸宅に渡辺さんはスツールをデザインしました。メトロクスはこれを「ソリッドスツール」と名付け、量産品として作りはじめました。2005年のことです。

2006年には日本の伝統工芸である切子展を行い、同じ年に1960年の長大作さんの作品、パーシモンチェアとマッシュルームベーステーブルを復刻させます。このようにして、ヨーロッパの輸入品やロイヤリティ生産、自社製デザイン品と国内有名デザイナーの名品という枠組みを作ることができました。しかし、そこに一つの落とし穴がありました。

2008/12/11

下坪さん自身は、ヨーロッパデザインとジャパンデザインを同時に取り扱うことを、経営上の課題のためだけでなく、自分の趣味の変遷としても自然な流れとして受け入れてきました。1990年代の年齢20代から30代、彼は特に日本の伝統工芸に興味があったわけではないのですが、年齢が増すと共にだんだんと日本の手仕事の美しさにも惹かれていきます。かといってヨーロッパのデザインへの興味を喪失したわけではありません。40代の今も、ヨーロッパデザインの新しい企画に夢中です。

が、お客さんの目にはそう映らなかったようです。ジョエ・コロンボのような個性的なヨーロッパデザインに圧倒的に強いメトロクス。これがメトロクスのブランドです。今も他社では扱わないような希少性のあるデザインを扱って欲しいという依頼や、他では得にくいデザイン情報に関する質問を多くいただきます。それでも、日本のデザインや工芸品を扱うようになって、何かヨーロッパの味が薄まったのではないか、そういう印象をもたれた方達もいたようです。メトロクスは、大いなる反省をしなければいけないことになります。お客さんに分かりやすいイメージをもてるよう、ちゃんと二つ、つまりヨーロッパのデザインと日本の伝統工芸を明確に分けることが大事でした。

それではじめたのが、n-crafs@metrocs (エヌ・クラフツ)です。メトロクスと言う白地のキッチリ感のあるロゴはヨーロッパデザインを中心とし、エヌ・クラフツは紫色の柔らかいロゴで日本のクラフトものを扱う。こういう仕分けを目で分かるようにしました。サイトも二つが混ざらないよう、メトロクスのトップページではエヌ・クラフツに出会わずヨーロッパデザインを中心に楽しめ、エヌ・クラフツのトップページに飛べば、日本の優れた工芸品に100%浸ることができる。そういう工夫を施しました。

デザインの著作権がきれた作品を狙い、ヒット品と同じ商品を作るというビジネスがあります。名品を復刻するリプロダクションという表現に、それと似た印象をもたれることが全くないわけではありません。しかし、メトロクス自身が企画するリプロダクションで扱うデザインは、名品ではありますが、必ずしも「かつてのヒット作」ではありません。かつては注目されなかった価値を見出し、それを今の市場で再生することにメトロクスの強みがあります。

2008/12/12

以前紹介したピエール・ポランのプチデスクは、日本市場用として2003年に再生しました。自宅で仕事をする、居間や寝室の一角を書斎コーナーとして使う、さまざまな目的でこのデスクが出荷されていきます。毎月決まった数が売れるメトロクスの定番商品です。このような正統的なデザインが安定した評価をうるようになって、我々もとても嬉しいです。そのため、2006年、このプチデスクと同じシリーズの商品をF061サイドボードとして復刻させました。

2008年初め、フランスの家具メーカーであるリーン・ロゼが、プチ・デスクと同等の製品を発表しました。メトロクスはプチデスクを欧州で販売しないので、欧州はフリーであったわけです。脚の部分が若干違いますが、基本的には1950年代のポランのデザインの復刻版です。つまり、名前は違いますが、プチ・デスクと同じデザインです。我々が価値を発掘し2003年に市場に投入したデザインを、フランス大手メーカーが5年後に欧州市場で発表したのです。この知らせをポランから直接受けたとき、「やった!」と思いました。正直言うと、我々の手で欧州市場開拓できなかったのは悔しいですが、我々の目が彼らの先をいっていたことは喜んでしかるべきだと考えました。

過去に埋もれて見えなくなっているデザインを発見し、今の市場にマッチする素材を選びリデザイン。そこから量産化のルートを作り、世に再評価を問うわけですが、このプチ・デスクの例は、その一つです。プチ・デスクは下坪さんがパリの蚤の市でみつけた宝でした。ただ、いつもネタが蚤の市やアンティークショップあるいはデザイン書籍に眠っているわけではありません。それは多くの人の目に触れる場所であることもあります。

2007年、バウハウス最後の巨匠といわれたマックス・ビルの1930年代のアートポスターを再生しました。これは、どこかにひっそりと眠っていたものではなく、2006年、ミラノの大聖堂の横の王宮で開催されたマックス・ビルの回顧展にあったのです。ここに展示されている作品に感銘をうけ、その後、今は亡きマックス・ビルの著作権者探しをしたというわけです。

一つ誤解されないよう言葉を加えておいたほうが良いでしょう。メトロクスは過去のデザインを上のものとみなし、現在のデザインを低くみているわけでは決してありません。すべては同等です。しかしながら、今だけの流行のデザインには目を惑わされず、これがデザインヒストリーを作っていくだけの価値があるかどうか、そういう目と頭でデザインをみています。

2008/12/17

15回にわたって、ぼくが知っているメトロクスの歴史を書きました。それでは下坪さん自身の目からみて、この15回の連載をどう読んだのか? それを知りたくなります。下坪さんの感想をインタビュー形式で聞いてみましょう。(-で始まる台詞が下坪さんです)

― そうですね。一つ触れていないのは、2003年に東京店を開いてから、エキシビションを年2回くらい企画するようになったことですね。2回と言っても、大きいのを1回、小さいのを1、2回という感じですけどね。こういうことをやるようになって、商品プランとか色々な面でよい影響がありました。インパクトがあったなと思えるのは、ブラウンですかね。特定のデザイナーに絞ったものや大型の製品を集めたブラウンの展覧会はあったのですが、ライターやシェイバー、時計などの小物を中心としてブラウンの全体像に迫ったのは、メトロクスの成果と言っていいでしょう。

― ブラウン以外でそれなりの貢献をしたなと思えるのは、オリベッティやマックス・ビルかな。プロダクションは一級品なのに、ちょっと派手さに欠けるというか・・・・マイノリティを救ったというか(笑)。

オリベッティは派手じゃない?いや、だいたい派手って何でしょうね。人でいえば、スタルクでしょうか、例えば。これは誰ということより、ある意味、トレンドにのっている人や作品かな。ピエール・ポランの60年代の作品はトレンディだけど、50年代は正統派でいっているとか・・・。そういう意味では、リチャード・サッパーなんかは、トレンドとデザインが結びつくのを避けているようなところがあるから、彼を派手とは言わないかもね。

― そう、いぶし銀がいいんですよ。ゆるぎなく、流行に左右されなくて・・・。話題やスター性より、プロフェッショナルな感じがにじみ出ているものに惹かれるんだと思います。

ああ、じゃあ、下坪さんの性格そのものですね。これから、「いぶし銀下坪」って名づけよう(笑)。ところで、目指したい理想のショップってどういうものですか?

ー 見た目のインパクトが強くなくても、それぞれがとっても高品質。決して安くはないけど、がんばれば手が届かないわけじゃない、そういうモノが揃っている店がいいですね。世界中のいいものがあり、でもオリジナルがある・・・ミラノのモンテナポレオーネ通りにある刃物のロレンツィが理想の商売ですね。どの店員も質が高く深い知識があってね。それで、コレというものを、世界中の人がそれを目指して買いに来る。

そうですね、あの店、いいですね。今度、あそこの店の紹介をブログで書いてみましょう。

2008/12/18

下坪さんへのインタビューの続きです。(ーで始まるのが下坪さんの台詞です)

エヌ・クラフツで手作りの世界が多くなりましたけど、2003年からのビトッシもそうで、前々から手作りをやっていなかったわけじゃない。でも、このハンドクラフトに力を入れ始めたのは、どうしてですか?

― 確かに20代の頃もガラスものは好きで扱ってきましたが、30代の半ばを過ぎたあたりから、手仕事から学ぶことが多いなと思うことが増えたんですよ。指の先でモノが出来てくるわけですが、そこからできる微妙な美しさがたまらないんです。

― 若いときは機械でパカパカできるものの方がスマートでカッコいいと思っていたんですね。手作りで出来たものってモタッとした感じをもっていたんですよ。ぼくは基本的に、何でもモノを判断するには、自分で買ってみてそれを手にとり、触っていじくっているうちに分かってくることを信じる性質なんで、そうして良さが分かってきたのが30代半ばなんでしょうね。

でも、じゃあって、これからハンドクラフトだけで、それこそアートギャラリーのような一点もので生きたいとは思わないのでしょう?

― そう、機械で作られたものの魅力も消えないです。で、ぼくって、一点ものより、一定数作られたモノに惹かれるんです。エヌ・クラフツの方針もそうですが、手作りでありながらも、必ず一定量の生産が可能であることを条件にしているんですよね。一つの絵画より、何十枚分の一と書かれるリトグラフが好きで、そっちを買うんですよ。まっ、すごくお金をもったら分からないけど・・・(笑)。

なるほどね・・・下坪さんが小学生の頃、ミニカーのコレクションに夢中だったエピソードを最初の方で紹介したけど、そのままですね(笑)。

2008/12/19

下坪さんへのインタビューの最終回です。(ーで始まるのが下坪さんの台詞です)

これからの話をしましょうか。来年とかじゃなくて、もう少し遠い、そう5年くらい先かな。このあいだ、イタリアの巨匠にもう少し迫ってみたいと言ってましたね。

― ええ、イタリアでかなりの巨匠であっても、日本では正統に評価されていないことが多いですね。そういう人の作品をもっと仕掛けていきたいですが、巨匠を相手にするにはそれなりの準備期間が必要なんで、今はその時期っていうところ。

それはぼくも思うのだけど、日本におけるイタリアって歴史に連続性がないんですよね。ローマやルネサンスの後に、急に第二次大戦直後のカンツォーネや映画のブームに飛ぶ。その後、80年代のアルマーニだったりね。それがフランス、ドイツ、イギリスと違うところで、フランスだったら、フランス革命、印象派、アールヌーボー、アールデコ、映画のヌーヴェルバーグと言った風に、もう少し代表的なターミノロジーで連続させられるんですよね。

― ぼくにとって最初のイタリアって、スーパーカーなんですよ。だから、その前のイタリアの巨匠は、ゾクゾクする相手なんです。で、全体的なことに話しを戻すと、今もそれなりの種類の製品を扱っていますが、もっと豊富な品揃えにしていきたいし、そして、ミラノの刃物のロレンツィのように、小さいけど磨きがかかったものを増やしていきたいですね。

最後に。自分の顔を表に出していくことについては?

― いやあ(笑)、こういう性格なんで、必要に応じて表に出ますが、あまり露出はしない方向ということで・・・・(笑)。

そのキャラクターがグッドデザインを見つけ育てるにあたり生きているわけだから・・・じゃあ、ここは一回だけ、出演してください(笑)。90年代前半、下坪さんが20代の時に初めてパリで買ったジョエ・コロンボのスパイダーの前で、今も仕事をしているシーンで・・・。

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