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イタリア人は「信用できる明るさ」と「信用できない明るさ」を判断する。

読書会ノート

ファビオ・ランベッリ『イタリア的 「南」の魅力』の第4章 イタリア政治の不思議な世界 - カーニバルとユートピアのあいだ

イタリアにおける政治は、国家運営の専門的分野だけでなく、民俗史や文化史に深く根付いている。よって政治を通じてイタリア人の社会像が浮き彫りになる。

そこから見える強力な2つの概念/メタファーは、カーニバルとユートピアである。前者は「明るい」既存の社会秩序を強化し、後者は想像力に基づく「別にある理想社会」への希求と、そこに向かうための創造意欲へと繋がる。

政党の事務所としてのバールがあった(1990年代までに多くあったシステム)。地域の住民がカフェを片手にサッカーや政治について熱い議論を交わす場としてバールが、実は政党活動と重なっていたのである。

また共産党の事務所には図書室があり、一般的な教養を育む場としても機能した。夏にはフェスタが行われ、パネルディスカッションや娯楽(社交ダンスから有名ミュージシャンの登場まで)や食事を通じて(正党員に限らない)人々の交流が行われた。

このようなプログラムや場には、冒頭に述べたカーニバルとユートピアの両方の2つの性格が織り込まれていたのである。

さらに政治にあらわれる社会的な特徴は、「家族」を中心とした行動の枠組みである。カトリック教会での父なる「神」、主の息子「キリスト」、聖なる母「マリア」が形而上のモデルになる。ただ、家族はやや広く捉え、親戚・友人・知り合いも含めたユニットである。

このユニットで、イタリアにある強い傾向「不信の文化」が作用する。ユニットの外に対する不信である。具体的には、ユニットの外部とのレイヤーから権威や権力に至る人への不信である。「あいつは、私を騙そうとするかもしれない」との想いが根底にある。

しかし、だからといって受動的に内に籠るだけではなく、能動的にも行動する。その時、「明るく」振る舞うのである。騙される前に、自分が狡猾に相手を攻めることで相手を取り込もうとする。

この狡猾、フルビツィア(furbizia)の起動は、周囲の状況に対する鋭い解釈に基づいた戦略や戦術でないといけないので、センスとクリエティブな力が要されるわけだ。小さな非合法に対する批判と賞賛も、この文脈でみると理解できるだろう。日々の生活から国家レベルの外交政策まで、さまざまなところで、これが良くも悪くも顔を出す。

したがって、信用できる明るさと信用できない明るさを判断できないと、イタリアの文化コードが分からないと見なされるのである。

<分かったこと>
イタリアの法律は数としてドイツのそれの何倍もあるという。それは小さな非合法への対策の結果なのだろう。いたちごっこだ。

網の目のようにあるから、逆にそれをすり抜けるためのクリエティブもさほどネガティブには受け取られない。これが、フルビツィアの実態である。何か壁にぶちあたったとき、いろいろと壁自体の解釈を試み、穴を探るー第2章の宗教で説明されたように、「聖人」を介して何とかアプローチしようとすることの背景説明にもなる。

かつて、それなりの年配の先生が、「日々の授業でのテストのときのカンニングは自分のためにならないからダメ!しかし、資格をとるためのテストでは見つからないように!」とアドバイスしたと聞いた。フルビツィアの両義性が、ここにある。

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