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「デザインマネジメント」自体の意味のイノベーションが必要かも?

上の写真、ちょっとずれている変な景色だけど、こんな感じのバールで(あ、そういえば、カウンターのライトの電球が一つ切れてますね!)今日、『デザインマネジメント論』の6回目の対談を八重樫さんと行いました。画像から想像できると思うけど、やや低めの椅子に座って、我々の席のちょうど上にスピーカーがあり、そこでクリスマスソングがずっと流れている、という状況です。

およそ150ページの本について毎回1時間近く話して6回目、それにも関わらず全部を網羅しているわけでもない・・・この不思議さ!いやあ、ぼくも事前に整理せずに挑んだので、いろいろとダブルところはあるしで時間を食ってしまいました。申し訳ないです!

最後のワードは「アーティスティック・インターベンション」と「デザイン・アティテュード」です。1960年代からデザインのプロセスを科学することでデザインマネジメント論の合理的解釈が盛んに(特に工学系の人たちが熱心になって励んできて)論議され、その流れでシリコンバレーのエンジニアによる「デザイン・シンキング」があるとするなら、その先に合理性の通じないところを如何に抑えるか?という課題は当然のように出てくるわけです。その代表選手として、前述の2つをネタにしました。

殊に「アーティスティック・インターベンション」は、2年前に八重樫さんと出した「デザインの次に来るもの」のなかで、どう位置付けるかを編集のなかで結構議論したので、これを外すわけにはいかなかった。日本でアート思考が騒がれている今にして驚くべきことですが、2017年の春、デザインの議論のなかにアートを入れるのは、かなり熟考すべき項目だったのです。

詳細はポドキャストを聞いていただきたいですが、ぼくがデザインマネジメント論で歪だと思うのは、アングロサクソン系のエンジニアや経営学の人たちがデザインを英語でああだこうだと言っているのがメインストリームであり、クラシックな範囲でのデザイナーの世界とは距離があるという点です。あるいは南ヨーロッパの文化とも乖離があると表現して良いでしょう。

ですから、ムナーリやソットサスなどイタリアデザインの中心を占めたデザイナー(デザインシンカー)の言葉が彼らデザインマネジメント論の風景のど真ん中にはなく、結果、かなり非効率な印象をもつのですね。「そのあたり、イタリア黄金時代のデザイナー達がもう十分に語っているじゃない!」というのが、デザインマネジメント論のなかでかしこまった位置にある・・・。

その一方で、先週書いたように、哲学者や社会学者の言うことには慎重に耳を傾けているのです。これはいったいなんなのだ?とやはり思わずにいられません。そこで、このコラムのタイトルにあるように、デザインマネジメント論自体の意味のイノベーションが要望されているのではあるまいか、と考えるのであります。

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