見出し画像

トスカーナに露天風呂をつくる。

2008/9/1

アレキサンダー・フォン・エルポンスがトスカーナの山の中の自邸に露天風呂を自分で作ろうと思ったという話をしますが、まずは彼のバックグランドから説明します。父方家系を辿ると15世紀のイタリアに行き着き、フランス、プロイセンと貴族の称号を得てきました。母親の家系もベルギーの金融界の重鎮でした。彼はドイツ人の父親とベルギー人の母親の子としてスイスに生まれたのですが、幼少の頃より、自宅の食事の席につくにも、ネクタイとジャケットを着るように言われる家庭に育ちました。ぼくは15年くらいの付き合いになりますが、夜中遅くまで酒を飲んだ翌朝早く、台所でネクタイをして前の晩の食器を洗う姿には感心しました。

画像1

<上の写真はアレキサンダーからすると4-5世代前の人になります。フィレンツェ大学で法律を勉強し、後にスペインの教会の法律顧問となりました>

ベルギーでカトリックの厳しい高校生活を終えたアレキサンダーは、将来は外交官になりたいと思い、大学では法学部を選びます。しかしながら、教養課程でさまざまな分野に触れ、特に哲学に関心が惹かれます。法律にとんと興味を失います。そこで母親にこう言われます。「法学部を卒業したら何をやってもいいから、法学部だけは出ておきなさい」

法学部に在籍しながら、彼は哲学の勉強を続けます。ハイデッガーやニーチェに傾倒していきますが、そのうちにハイデッガーと交友のあった日本の九鬼周造『「いき」の構造』 に出会います。彼は、ここで日本文化と遭遇します。あくまでもハイデッガーが主役であり、そのハイデッガーを通しての日本だったのですが、彼は哲学と並んで日本学も勉強したいと思うようになります。

ベルギーで法学部を卒業した彼は、大学の教授の紹介で、ドイツのミュンヘンに向います。そこで哲学と日本学を更に極めていきます。それまで、彼は合理的であること、効率的であること、 時間が何よりも重要であること、そういう価値観を重んじてきました。しかし、日本学を勉強をはじめてから、こうした価値観に大きな変化が生じてきます。そのきっかけは漢字の学習でした。でも、どうして漢字の学習で変わったのでしょうか。

2008/9/3

漢字を覚えるのはアルファベットと比べると、とてつもなく面倒です。書くのも複雑で時間がかかります。しかし、一つの漢字そのものが伝えられる情報量はアルファベット以上です。その点にアレキサンダーの驚きがありました。何が効率的であるかということについて、彼はここで今までとは異なる座標軸を得たと言って良いでしょう。同時に、漢字の使われている象形文字が馬、牛、木、竹、草など自然や農業に関係のあることを知り、机上ではなく日常生活のなかでものを考える大切さを理解しはじめます。また、漢字を上手く書くために、左利きから右利きへも変えます。

画像2

<上の写真はアレキサンダーの父親です。第二次大戦時、アフリカで連合軍であるフランスの捕虜になり、戦後’48年に釈放になります>

アレキサンダーは半年間、日本に留学します。そのあいだ各地を一人で旅しますが、都内の下宿先は、昔ながらの冬は冷える家の二階で、彼は畳の上に座りひたすら哲学の本を読みます。日本で西洋人とつきあっても意味がないと、かなり禁欲的な生活を送ります。

彼が変わったのは日本文化だけが原因ではありません。’87年、母親がトスカーナに別荘を買います。イタリアで有名なTVジャーナリストの家で、今の自邸です。それまでもバカンスにはモンテカティーニを時折訪れていましたが、この’87年を境により頻繁にイタリアに来るようになります。イタリアで生きるには、すべからく実質的で実践的である必要があります。彼はこれを身につけていきます。彼の家系は15世紀のイタリアに遡るわけですが、自分の血にあるイタリアを発見していくプロセスがはじまったといえます。

2008/9/5

日本文化、イタリア文化、この二つがアレキサンダーの世界を変えたと書いてきましたが、女性との出会いも同様に重要です。’92年に結婚するファビエンは結婚前から、彼の自邸にあるオリーブ農園の収穫などをベルギーから手伝いにきていました。彼がミュンヘンで哲学の試験勉強をしている最中、彼女が収穫を一人で取り仕切ることもあり、こうした姿が彼に与えた影響を大きいようです。それまでの本から学ぶ世界に距離をもち、自分探しの哲学が色あせてみえてくる、そういう時期がきたようです。「あの頃から、ストレートにものごとを考えられるようになってきた」と彼も語ります。

画像3

<上:ファビエンがトスカーナの空気に馴染み始めてきた頃の姿>

<下:結婚前のファビエンとアレキサンダーが家の前でバイクに乗っているところ>

画像4

彼はトスカーナに拠点を移しはじめてから、自分の手をより動かすようになります。93年に母親が亡くなり遺産として邸宅と農園を継いでからは、何でも自分で作り始めます。この頃からオリーブオイルのビジネスをはじめるのですが、ボトルに貼るラベルやギフトボックスのデザインも自分でやりました。グラフィックデザインを勉強したわけでもないのに、非常に洗練されたデザインでぼくは驚きました。林のなかに何頭もの豚を飼い、適当な体重になると自分でピストルをもって殺し、皮をはいで生ハムを作っていきます。これがまた抜群に美味しいのです。

このように野生味溢れる人間になっていきながら、彼が慎重にコトを進めるタイプであることには変わりません。

2008/9/8

オリーブオイルのビジネスをやりながら、自分が知らないことが多いことに気づいたのでしょう。「自分の知っていることは知っているが、知らないことは、何が知らないか分からない」と語り、トスカーナに家族を残し、1998-99年にかけてブリュッセルの大学でMBAを取得します。自分で何もかもやるからこそ、自分の知っている領域をはっきりさせ、事前に知ればすむことは全て把握しておきたかったのです。「雑誌『THE ECONOMIST』をちゃんと理解したかった」と後になって話していました。

画像5

<結婚前、自宅の外で犬と戯れるファビエンとアレキサンダー>

オリーブオイルに対しても同じです。トスカーナのオリーブオイルのテスティングする資格も取得し、味を判断していきます。自分で何でもやるということは、単に無謀になることではないということです。彼は自然を愛し、自分の畑でできる野菜や果物を食べながら、ヴェジタリアンにはなりません。豚を飼いそれを自分で殺して食べるのも、ある摂理を守ることが大切だとの考えが根底にあります。常にバランスがとれています。

さて露天風呂です。最初、自邸の横にプールを作るというアイデアがありました。しかし、そこにプールを作ると景観を損ねると役所から建築許可が下りない可能性がありました。また日本の友人を沢山招きたいとも考えました。いわば、文化交流の場を作りたいとも思ったのでしょう。ファビエンと新婚旅行で味わった日本の温泉を二人で実現し、自分たちの日常世界にその経験を組み込みたいという気持ちが強かったと思います。

<風呂の場所からは、こんな風景が広がります。この山の向こうに夕陽が沈んでいきます>

画像6

2008/9/10

アレキサンダーとファビエンは日本で味わった温泉の全体イメージとディテールを思い出しながら、これから作る露天風呂の概略を検討しはじめます。日本から友人たちが送ってくれた旅行雑誌の写真をみながら、ディテールを再確認していきます。約20トンの大理石をいっぺんに大型トラックで運べるような道はありませんから、何度も何度も山の麓と自宅を往復し石を運び込みました。ぼくも施工中、状況を見に行きましたが、どの目の高さであれば水面と景色が上手く繋がるかを慎重に決めていきました。水面の先にバリアがあり、その向こうに景色があるのではいけません。

画像7

こうして自分たちが考える日本のイメージを具現化していったのです。出来上がった露天風呂に招いた欧州人も、なかには「水着をつけちゃあいけないなら入らない」という人もいます。ファビエンも娘たちに「ここは、日本の文化を重んじるところなのだから、水着は駄目」と言います。友人たちは、下の写真にあるような西洋そのもののテイストの客間から、浴衣を着て日本手ぬぐいを片手に下駄で敷石を歩き、斜面の中腹にある和式の風呂場に辿り着きます。

画像8

風呂場につくと、バスタオル、タオル、シャンプー、籠と温泉に必要な全てが棚に揃っています。このホスピタリティの細かさに夫妻の神経の遣い方がよく出ています。しかし、こういう完璧さがちっとも重みにならず、客人をリラックスさせる術を知っています。東洋趣味の西洋人にありがちな青筋が彼らには見られません。知性と教養は人にとって欠かすことのできないものであることを、この露天風呂に入りながら思うことしきりです。

画像9


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?