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審美性を議論する空間がない?

八重樫文さんとの3回目のポッドキャストをリリースしました。今回はいつもよりも周囲が音楽や話し声でやや騒がしいので、カフェの雰囲気がより伝わりやすいのでは(?!)。

前回、審美性と意味の関係がどうか?ということからスタートしてあらぬ方向に行きついたので、今回はデザインの議論のなかで、どうして審美性が外におかけることが多いのか、という点からはいっていきました。

よく「日本ではデザインを意匠とよび、色カタチばかりが対象となっていて、デザイン本来の役割を認識しておらず、デザインの対象が広がっている現在、こうした認識が足をひっぱっている」と、批判的というか自嘲気味な語りを聞くのが多いのです。

が、そもそもにおいて色カタチの意味を踏まえて、このような語りをしているのか?という疑問があるわけですね。

このポッドキャストのなかで、八重樫さんは審美性を育成するような受け皿は高等教育以降にはない、ということを指摘しています。育成どころか、それを議論するような空間もない。デザインがビジネスの世界で語られるとき、審美性よりもロジックがさらに重視されるからです。審美性を語るとデザイナーの主張はビジネスパーソンからは拒否されるから、審美性に触れずして如何にコンセプトが表現されているかにエネルギーを使うわけです。

こういう話をしながら、ぼくはリトアニアのことをふっと思い出します。旧ソ連時代、審美性を政府が判断することで、国家秩序を維持していた歴史です。審美性は個人の判断に委ねられるからこそ自由な社会がつくられ、そこに公的な判断がはいると、全体主義的な社会をつくる機動性を発揮する。

よって審美性は人格と同じようにアンタッチャブルな要素であり続け、きわめてデリケートな扱いをされてきています。

ここで問題は、デザインがエキスパートの手を離れ、非エキスパートの次元にデザイン文化として定着する場合、審美性はいかなる扱いをうけるか?です。デザイン言語が有効であると一般の人が理解することがデザイン文化の定着を意味し、しかしながら、それは非エキスパートの表現するデザイン言語をーつまりは低い審美性をともなうー寛容に受け入れる土壌をつくる、ということではないのです。

やはり、エキスパートの登場が期待されるわけです。

さて、ここで一見急転するのですが、このように微妙な扱いをうける審美性を何段階にも渡って吟味する空間が、実はラグジュアリーブランド成立の論理にある・・・というのが、ポッドキャストの最後です。








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