見出し画像

ヨーロッパ文化の理解の仕方ー『ヨーロッパの目 日本の目』

2008/11/4

このブログ『さまざまなデザイン』のサブタイトルに「ヨーロッパの目」をつけたのは、ぼくが今月に出す本の題名からとったことは以前書きました。その本が約10日前からアマゾンでも予約を開始しました。来週半ばには書店に並ぶ予定です。そこで本書について、何回かに分けてお話ししていこうと思います。

まず、この書名にはサブタイトルがあり、「文化のリアリティを読み解く」です。これは欧州文化のリアリティが、あまりに日本に伝わっていないことが背景にありますが、それは欧州における日本文化もそうです。外国文化にはおよそリアリティを持ち得ないのが一般的です。

画像1

そういう意味で、外国文化のリアリティをどう捕まえるか、というテーマがぼくの頭の中にいつもあります。そして、このリアリティがつかめない限り、外国人の相手を説得するコツをつかむのは極めて難しい作業とならざるをえないと思います。まったく地図をもたずに荒野を歩くようなものでしょう。どこに自分の感覚の拠点をおくか?というのが、とても大事です。

表紙のデザイン表現をつかえば、やや「雲をつかむような」話に見えるかもしれませんが、本書の内容は日常生活から多くの題材を得ています。しかし、そこから生活記録本にはならず、ノウハウを語るビジネス書ではなく、欧州文化を理解する手助けをするというのがぼくの目的です。

尚、表紙の空の写真は、アーティスト廣瀬智央氏の作品です。以下「2008ミラノサローネ」でご紹介した作家です。

2008/11/4

目次はアマゾンでもご覧になれますが、ここにも掲載しておきます。「6 デザインの祭典ーミラノサローネ」は、このブログで3月から3ヶ月近く書き続けた「2008 ミラノサローネ」の一部をまとめたものです。本書では文化をデザイン面から実践で語った部分という位置づけになっています。

まえがき
TVドラマ「のだめカンタービレー欧州編」にみるローカライゼーション

Part1 文化とビジネスの交差点を歩く

1 異文化のギャップを読み解く
地図を描けない人たち
住宅展示場の南欧風住宅に思う
ちゃぶ台をひっくりかえす
風邪も文化のうち
イタリア男はもてるか
中国人の和食レストラン
チョコレートで文化を比べる
フランスの三つの災難
強い人間と弱い人間
政治と宗教から読み解く
ヨーロッパの学校見学
縁ある出会いの数々

2  ヨーロッパのビジネス流儀を知る
対ドルだけで円高と騒いでいいのか
連続性のある欧州文化
ワードとパワーポイント
トップレベルのデザインとは
ヨーロッパ各国の苦手意識
英語を勉強する人たち
メイド・イン・イタリーの謎
戦後復興とビジネス

3 都市空間とライフスタイル
鉄道の駅が行き止まりのわけ
バウハウスの流れ
ジプシーについて何を知っているか
田舎の風景とワイン
伝統的社会とつきあうコスモポリタン
これぞライフスタイル
おしゃべりと都市計画

4 ヨーロッパから眺めた日本
日本神話を信じるか
日本のグローバリゼーション
虫の鳴き声を詩的に聞く?
日本人の教養
なぜ、日本の陶芸品が売れないのか
ひきこもる日本チーム
ヨーロッパの統合とその多様性

Part2 ヨーロッパ文化のリアリティと向き合う
5 柔軟性と想像力の社会
「欧米」という言葉はやめよう
欧州から学ぼうといわない
イタリア人はなぜ遅刻するのか
英国式とフランス式のテーブルマナー
言葉以外の世界
「満足している?」
正当性の領域と範囲
非日常生活が生む出すもの

6 デザインの祭典ーミラノサローネ
ミラノサローネとは何か
解説を読む人、読まない人
欧州人の直感と日本人の直感
楕円と丸い円は同じ円
外国文化は長いスパンでみる
ジャパンデザインへの冷ややかな眼差し
文化を象徴する品質クレーム

7 過去をステップアップに使う
前衛よりクラシック
イタリアに溺れる不幸、イタリアを知らない不幸
古いワインが語ること
カトリック教会が売りに出される
敷居を低くするとは
2800年前の船をつくる
東西の架け橋、フィレンツェの文化財団
隔離された精神病棟のない社会
文化には深さが必要
ヨーロッパ文化の四つの特徴

8 ヨーロッパと日本ー今後の行方
日本からヨーロッパのリアリティが見えるか?
ヨーロッパへの無関心の始まり
活動が鈍いヨーロッパとの姉妹都市
欧州と日本は赤い糸で結ばれていないのか
文化を知らないと命が危険にさらされる
ロジックの次にくる感性
こういう状況で何をするか

あとがき
本書の成り立ちと文化の定義

2008/11/5

ぼくがこの本で語りたかったのは、「ヨーロッパ?なんか色々と勉強しないと、付き合えそうになく、面倒だなぁ」と一歩身を引いてしまわないためには、欧州文化に対してどういう見方をすればよいのか?ということです。欧州文化を理解するには、古い教会や美術館にある、あの膨大な宗教画が分からないといけないという思いにとりつかれすぎている日本人が多い。この点を打破しないといけないのです。

確かに欧州文化を作る重要な要素であるキリスト教の理解があれば、それに越したことはないでしょう。が、自分の目線を意図的に欧州人寄りにすることで、日常の世界から見えてくることが、もっと自然に目に映ってくるはずなのです。自分の尺度が日本のものであることを自覚し、それが欧州の尺度とどれほどの差があるものなのか、それが分かると(あるいは勘がつくと)、欧州文化がまったく違ったものに見えてきます。重さや軽さという表現は、絶対的な重量を言っているのではなく、その文化の全体の価値観のなかで相対的に決まってくるわけです。

画像2

帯のフレーズを読んで「あれっ?」と思う方がいれば、かなり熱心にこのブログを読んでいらっしゃる方です。10月のはじめ、ぼくが日本の国際関係論の教授とお会いした時に、彼が語った台詞そのものなのです。しかし、そのとき、このフレーズと同じ内容が既に出版社側で作られていました。が、最終決定はしていませんでした。この教授が「偶然」にも語ったフレーズが最終決定へと促したのです。

冒頭で、欧州文化に対する知識を溜め込むことができなかったことに敗北感を抱く必要はないと書きましたが、ただ、どういう道筋でコトが成り立ってきたかを、代表的な事例をもって知っておくことは欧州ロジック理解に役にたつだろうと思います。その一つとして、本書ではEU成立の経緯そのものを欧州文化の特徴を理解する手立てとして紹介しました。また、デザイナーのピエール・ポランがインタビューで語ったフランスの歴史も引用していますが、これも欧州における「国際性」を知るにキーとなるであろうと思ったのです。

2008/11/8

先週、ぼくの本『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』で紹介した「東西の架け橋 フィレンツェの文化財団」のイベントのためにフィレンツェに出かけてきました。そこでイタリアで40年近く活動してきた建築家の渡辺泰男さんの講演がありました。以前もこのブログでご紹介しましたが、槇文彦事務所を経てイタリア政府給費留学生としてローマ大学で勉強。都市計画の大家であるミラノのジャンカルロ・デ・カルロ事務所で働き、ウルビーノ大学の学生寮を手がけ、その後、アドリア海沿いのペザロでイタリア人とインタースタジオという事務所を設立しました。

イタリアを中心に、学校や大規模スポーツセンターなど多くの公共の建物を設計してきた方です。ぼくも15年近くお付き合いさせていただいていますが、ぼくが本を書くにあたっても、色々とアイデアを提供くださいました。その渡辺さんが、東欧や米国の建築家や建築の学生を前に日本建築の5つの特色を説明しました。その五つとは、「床構造(高さ)の重要性」「間切りの意味」「仮設性」「水平線の強調」「余白の意味」です。大変面白い内容でした。

ぼくは、この講演を聞きながら、いろいろな構想を膨らませていたのですが、その一つのアイデアとして、これらの五つの特色を日本の工業デザインの特徴説明に繋げていくとどうだろうかと考えました。今回の講演の観衆のメインは建築分野の人たちなので、建築に限った話でよかったのですが、異なった分野の観衆をも巻き込むプランを考えたらどうかと思ったわけです。

日本文化の特色を説明するにあたり、建築という歴史性と風土を要素として強くもつ視覚的題材はとても有効です。工業デザインの表現でも十分に地域性が出て、その地域性をどう意識化するか?とぼくは本のなかで書いたわけですが、工業デザインにはユニバーサルな要素も多く若干隠れがちになります。

このあたりに「馴染みやすい文化理解」のネタがあるように思えます。

2008/11/27

先週、フランスにクルマで仲間と出かけた帰り、フランスのチーズとワインを買っていこうということになりました。イタリアのワインやチーズも美味しいですが、やはりフランスのそれらも大変魅力です。しかし、ミラノといえども、フランスのワインやチーズが豊富な種類、入手できるとは言いがたいのです。ミラノにフランス料理のレストランが殆どない、その事実をもってもイタリアにおけるフランス料理の位置が良く分かろうというものです。あるいは、イタリア人の保守性が想像つきます。

ご存知のように、フランスでイタリア料理のレストランを見つけることは全く問題ありません。素材を生かすその軽さもあるし、パスタやピッツァという、それだけで世界を構成できる要素があるのも、イタリア料理が海外で普及した大きな理由ではないかと考えます。文化は必ずしも全体力ではなく、部分力で浸透するという一例になるかもしれません。

さて、先週の買い物ですが、高速道路に一度乗ってしまうと、なかなかスーパーを見つけるのも難しく、つまり見つけたときは、既に行き過ぎているということを繰り返しながら、モンブランの30分手前くらいでやっと事前にスーパーの表示を見つけました。小さな街ながら、それなりの大きさのカルフールがあり、チーズはかなり大量に買い込みました。イタリア製と比較しても、とても種類が多いと思います。

この種類の多いことに、愛国心の強い知人のイタリア人は「フランスのチーズは、素材が同じで色を変えたりして沢山のバリエーションを作っているだけだ」と語ります。この意見をぼくは残念ながらまともには聞かないのですが、一つだけ言えるのは、素材が同じでバリエーションを増やすのも一つの文化のあり方です。「平安時代の和歌は素材が限定されており、例えば歌にとりあげられた植物でその時代の植物の全体図は描けない。表現のバリエーションがあったのだ」ということを本で読んだことがあります。月に対する表現は多くても、星へのそれは少ないとか。

ことは、どうしてその素材にバリエーションが生じるか? それを考えることにエネルギーを費やすのがいいのではと思います。

2008/11/28

文化が何を指すかは色々と言われますが、政治学の平野健一郎さんが『国際文化論』(東京大学出版会)で定義されている文化に、ぼくはもっともしっくりときます。このなかに「文化要素は本来複数の機能や意味を備えているのである。システムを構成する各部分は、一見、一つの機能しか果たしていないように見えるが、微細に観察してみると、いろいろな意味がこめられている。文化要素には多機能性、多義性があると考えておくことが、文化をシステムとして捉えるためにも必要なのである」とあります。

コンテンポラリーアート作家の廣瀬智央さんが、11月29日、今週土曜日から東京の小山登美夫ギャラリーで展覧会を開催しますが、題名が「官能の庭」です。ぼくが本のなかで紹介した大理石のテーブルや豆とロウの絵画も展示される予定です。

画像3

ぼくは、彼の書いた豆の話が気に入りました。もともと豆は貧しい食材としてみられがちなところを、彼はトスカーナで出会ったスープ、それはレンズ豆などを鶏がらのだし汁で煮込んだもので、そこに香り高いオリーブオイルを少々たらすのですが、これがなんともいえなく「貧しいのに豊か」と表現します。豆のポエジーさえ感じると書きます。

彼は説明します。フラットな空間に10数種類の豆が何千個とロウによってフィックスされているのですが、近くでみると単なる豆が遠くからみると大きな広がりをもった空間にみえ、作品を横から見ると無数の小石が広がった庭や大地に見える、と。見方次第でどうにでも自分が空間のなかに入り込めるような気になれる、と。

この豆とこれらが作る世界こそが、平野さんの言う、文化の両義性と多機能性なのだと思います。そこに文化理解の難しさやコンテクストの重要性という課題が出てくるのですが、これを悲観的に捉えるのではなく、果てしなき可能性が前面に広がっていると考える楽観性こそが肝だと考えます。即ち、「豆とは、〇〇である」と〇〇に入る言葉を決めるのは、あなた自身なのです。どこかに正解があると思ってはいけません。

2008/12/4

「2008 ミラノサローネ」を書いているとき、デザインや建築について書いている山本玲子さんのブログを引用したことがありますが、11月28日に書かれている「プロトタイプ展2」を読んでいてなるほどと思いました。

<ここから>
先日とあるデザインコンペの授賞式で、審査員が受賞者に対して「今、直接あなたから話を聞くと制作意図がよく理解できるのだが、応募時のプレゼン資料では分からなかった」と言ったところ、その受賞者が「くどく説明するよりもアウトプットで見せた方がいいと思った」と答える場面があった。展示会にしろ、コ ンペにしろ、見る側としては作品を眺めて自由に発想するだけでなく、それ以上に制作者の意図や考えを共有したい、つまりコミュニケーションしたいという気持ちがある。確かにその受賞者の気持ちも分かるが、やはりアートとは異なるのである程度丁寧な説明(文章や言葉でなくてもよいが)も大切ではないか。
<ここまで>

一方、ぼくが28日に紹介した、コンポラリーアートの廣瀬智央さんから以下のようなメールを受け取りました。

<ここから>
今回このような文章(プレスリリース)を書いて、テキストを読んでくれた方は、非常に共感と理解を示してくれて、作品がより魅力的になったという感想をいただきました。やはり、アーティストのリアルなさまを文章でロジカルに書く訓練は、非常に大事だと再確認しているところです。
<ここまで>

ぼくの本のなかで欧州地域研究家として文章を引用させていただいた八幡康貞さんと、今週、電話で話しているとき、八幡さんより「コンセプトを考えるときのキーワードは自分で考えないといけない。これは極めてクリエイティブな行為なのだから、雑誌や本から拾ってきた言葉の組み合わせで新しいコンセプトを考えようというのは、あまりに経験主義的過ぎる。仮説をたて論理を組み立てていくプロセスを経ていないコンセプトはコンセプトなりえない」という内容の言葉を聞きました。

ぼくは本の中で、欧州人は美術館の入り口でより解説を読むと書きました。直感的あるいは直観的な作品鑑賞の問題点の指摘は、どうも欧州向けの話だけでなく、日本についても言えるのではないか・・・そういうことを考える契機をぼくは得たようです。

2008/12/9

先週4日に山本玲子さんのブログを紹介し、作品の解説の意義について触れました。彼女のブログでもう一つ引用しておきたい部分があります。少々長いですが、以下です。「ひとへやの森-インタラクティブな風景展」(11月1日~4日)に関する11月28日のコラムです。

<ここから>
“樹木”ユニットを眺めながら同時に思ったのは、近年の若手建築家、若手デザイナーの作品にちらほらと見られる詩的なストーリー性はどこからくるのか、ということだった。自然の中で深呼吸をしたり、時間をゆったりと積み重ねたりすることに、静かに思いを寄せるような彼らの作品には、ぼんやりとした閉 塞感の中で自分だけの無限の自由を求めるロマンチシズムのようなものが感じられなくもない。

ひとまわり年上の先輩デザイナーたちは「もっと自分をさらけ出して」「もっと大きなビジョンを」と言うが、声高かつ簡潔に言い切ることだけが現代の正解ではない。むしろ、言葉を慎重に選び、時間をかけて相手との距離を少しずつ縮めていくようなアプローチ方法にも、もっと目を向け、丁寧に読み解こう としてもよいのではないかという気もする。
<ここまで>

偶然ながら、この「詩的ストーリー性」が、八幡康貞さんと電話で話し合ったとき、やはり一つのテーマになったのです。欧州の大学教育でも、本を最初から最後まで読むのではなく、複数の本をチャプター毎に読んでレポートを書かせることが多くなったが、これは米国の教育方法の影響だろうと八幡さんが指摘しました。一方、ぼくが「欧州人も若い人たちは、カチッとした強さより、弱々しい中性的な表現を好むようになり、そのあたりは日本の若い人たちと共通の面が出てきましたね」と話すと、八幡さんは「そうですか・・・でも、欧州の若い人たちのほうが、痛々しさというか、苦しみというか、こういうことを内により含んでいるような気がする」と語りました。

本の中で、欧州においても「軽い」ということに価値が持たれるようになってきましたが、それは日本の「軽さ」とは違ったバックグランドとニュアンスがあるので、その文化差をきちんと把握していないと大きな勘違いを招くと書きました。これは当然のことながら、「弱々しさ」「中性的」といった表現にも出てくるギャップですから、世代傾向を眺めるときにも、よく見極めることが大事です。八幡さんのいう「痛々しさ」「苦しみ」というのは、自分のコンセプトを生み出すときのプロセスを指しているのだろうとぼくは理解しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?