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「あらゆる概念は誤解を必ず伴う」ーこの認識がどれだけ共有されているか?

山懸さん

下記、お返事ありがとうございます。

言葉遣いに「染まる」。ありますねえ。ぼくも学生時代、読んだ小説家や批評家の文章にグングンと寄っていったことがあります。今も染まれるなら染まりたい。誰か、イタリア人の偉大な文筆家なんかに 笑。

また、剣道の「居着かないように」との表現、気に入りました。動とわかる動ではなく、静のような動ですね。これから意識していきます。そうとうにヒントになるというか、指針になります。

さて、早速コメントしたいと思ったのは、山懸さんの以下の文章を読んで、ハッと思ったからです。

日本語として生まれてきたわけではない概念が翻訳されて摂り込まれるとき、さらに難儀な課題も前面に浮かび上がってくるわけです。

だからこそ、概念を自らのなかに摂り込むのって、かなりのエネルギーを使う営みですし、さらに感性的な合致感とでもいうのか、そこらへんも大事になってくるように思います。なので、どこまで平たい和語(やまとことば、という言い方も、いろんな手垢がついているので、使うのに悩むところです)に落とし込めるのか、手間がかかっても、しっかり考えたいですよね。

2014年、『世界の伸びている中小・ベンチャー企業は何を考えているのか?』の原稿を書いているとき、ブルネッロクチネッリが語る「人間の尊厳」を他の言葉に置き換えられないか考えました。そこで糸井重里さんにアドバイスを求めたのですね。そうしたら「ありがたし」との言葉を教えてくれたのです。人間存在そのものが「ありがたし」である・・・ぼくは「そうか!」と思い、この経緯も含めて上記の本に書きました。

そして、先日山懸さんに書いたように、またもやクチネッリのスピーチが契機となり、「人間性」と「人間らしさ」の距離に今さらながらに気がついたわけです。ぼくはいったい、年々何を学んでいるのやら・・・時間かかりすぎ 笑。

ところで、前述の「ありがたし」の経験で、英語やイタリア語の言葉が、大和ことばというか、ひらがな表現というか、漢字熟語ではない言葉に置き換えられるのを目標とする、とのひそかなぼく自身の目安がありました。それこそが日本の文化コンテクストに嵌るコツであり、あるいは嵌ったとの証になる、と。

しかしながら、昨日、山懸さんのnoteを拝読しながら「待てよ!」と思ったのです。たまたまミラノの街を散歩しながらスマホで文章を読んで、そう思ったのです。

ひらがな表現になることが目標となるのは、ローカライズの見本としては結構だけど、これが日本における概念を巡る議論のなかで目指すところなのだろうか。コンテクストに嵌ったローカライズは行き止まりではないか?

というのも、あらゆる概念は誤解を必ず伴う、との認識が大前提になっていない発想だ。そう疑いをもったのです。コンテンツにすぽっと嵌れば、それは対象文化の一要素として認められた証拠で、そうなればもう誤解は生じない・・・さあ、ハッピーだね、と直線的に思っていないか。

これは、かなり危険度の高い思考プロセスだと思います。殊に、日本の文化土壌として「あらゆる概念は誤解を必ず伴う」との認識があまり共有されていないために危険なのです。

例えば、「人権」や「自由」と一見ユニバーサルな価値のようでいて、実は文化圏によってさまざまな解釈と理解があり、当然、誤解も頻繁に生じる。こういう言葉の扱いにおいて、日本での理解をそのまま他国にあてはめ、「それでいいんじゃない?文化相対主義だし」と判断するのが如何に怖いかですね。そういう趣旨を、先週、ぼくはサンケイビズのコラムに書きました。

ある種、アルファベットそのまま→カタカナ表示→漢語→ひらがな とのヒエラルキーがあり、右(ヒエラルキーとするなら上ですね)にいけばいくほど洗練されている。だから洗練されたところを起点として左(下)にもう一度向かって問題があるはずがないじゃないか。そう思うような傾向を無意識のうちに「大和言葉にしよう」のなかに内在させているとしたら、これはローカライズの意味を再検討するに相応しいと思い至ったのです。

忘れないうちに書いておこうと思い、やや走り書き的ですが、お許しください。

写真©Ken Anzai


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