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細々とした事実が無際限に繰り返されると、それらは連鎖的な現実として自己主張する。

読書会ノート

ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造』結論として ー 昨年11月から読み始めた本書3巻のうちの1巻を読了。ブローデル自身の結論を批判的に読むのが今回の課題。

ブローデルが歴史にあるあらゆる現象の土台として、物質生活を可能な限り調査したことによる恩恵は大きい。もちろん、すべてが語り尽くされたわけではない。しかし、物質生活(食用植物・衣服・家・都市と農村の違い)は他の分野と比較して、緩慢な進化であるとの特徴がある。規則性が根強い。

ブローデルは規則性を歴史の巨大な作り手のひとつである惰性によるとも評している。歴史は変革に急いで展開される部分もあるが、惰性に基づく規則性が物質生活にたち現れ、即ち社会における文化の差異として可視化される。

まさしくこの理由で、ぼくはローカリゼーションマップとのアプローチをつくった(参考→『マルちゃんはなぜメキシコの国民食になったのか?』)。その意味でも、本書はとても相性の良さを感じる。

注目したいのが次のような内容の記述だ。

人々の不平等な世界がでこぼこをつくり、それが結果的に世界の活性化と優れた構造の発展を促した、との指摘である。

これを第一に、ラグジュアリーの新しい方向を探っている身としては、ラグジュアリーが文化創造に貢献する言葉として受け取る。

しかし、その後に続く「資本主義だけが相対的に変動する自由を有していた」で、この本が1960-70年代、つまり冷戦時代に描写されたものであるのを思い出す。自由を制限し平均的な社会をつくるのを優先した社会主義経済に対する批判として、この視点が強調されていたのであろう。2点目はこのぼくの解釈が妥当かどうか、である。それによってぼくの読み方が変わる(変える)のか?との疑問がでる。

そして3点目。格差が問題視される2021年においても、上記は物議をかもすだろう。よほど表現に注意しないといけない。貿易や経済のダイナミズムに積極的な意味があろうと(彼の言わんとするのは、上下と範囲の広さの両方を指しているに違いない)、不平等な社会がよき構造を作り出す時間と、現在苦しんでいる人がサバイバルできる時間にはかなりの差がある。

結果、富は広くさまざまなレイヤーにも行きわたるとのトリクルダウンの非現実性に人は気づいている。富をもつ人の精神性や倫理観に期待できるのか?が問われている。これは人間のもつ前述にもある「惰性」が、どう作用するかに関わっているのではないか。

「ブローデルのみていた世界は、今ほどに複雑で流動性が高くなかった。だから、あの記述は楽観的に過ぎる」との見方も可能かと一瞬思う。しかしながら、それはあくまでも「一瞬」である。この何千年もの歴史をみてきた人を前にそう思うのは、自らの愚かさを告白するようなものだ。

いったい、大家は常に視野が広いはずと思うのは過大評価ではないか?と自問する場合もある。だが、ブローデルのこの分厚い本を読み、ありとあらゆることに好奇心を働かした人の迫力と「方向的正当性」に納得しているぼくは、ブローデル教にはまっているかもしれない 笑。


写真©Ken Anzai

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