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ロンドンに飽きるとは、人生に飽きるということだ。

読書会ノート

ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造』第8章 都市 大都市

15世紀以前、大都市は中東と極東にしかなかった。中央主権的な政治的集合体の規模に対応しており、その後もイスタンブールは16世紀に70万人、北京は1793年は300万人を抱えていた(ロンドンの面積にはるかに及ばないが、その人口はロンドンの2-3倍だった)。ムガル帝国のデリーにおける君主が1663年、カシミールに出かけた際の随行者の数が30-40万人であった記録からも、公的都市の「人数」のサイズが窺える。

一方、16世紀以降の200年間で西ヨーロッパにも大都市が誕生した。特に首都である。歩道、街灯、上水道、建物の番地制などが導入された。

それではどこの都市か?ロンドン、パリ(16世紀後半に人口18万)が音頭をとり、ナポリ(16世紀後半に人口30万)が加わり、マドリッド、アムステルダム、ウィーン、ミュンヘン、コペンハーゲンが続く。これらの「莫大な支出をする都市」が近代国家をつくりあげた。

というのも、1700年ロンドンでは、商取引の利益で生計の成り立った者はせいぜい10万人である(18世紀末に人口86万人)。一方、あるイタリア人は1798年「パリでは全産業が奢侈品に向けられている」と書いている。同じ時期、聖ペテルスブルグは軍人・召使・青年の街であったが、その特徴は「新奇・変化・肩書・安楽・贅沢・支出への好尚」が認められた。

ロンドンがヨーロッパの大都市の発展史を語るには一番相応しく、サミュエル・ジョンソンは「ロンドンには、人生が差し出しうる限りのすべてが包蔵されている」と1777年に記している(タイトルに続くフレーズにあたる)。

首都は何人かの選ばれた人たち、大勢の召使、極貧層の寄せ集めであり、人口密集地にあって不潔と悪臭が漂う場所で、何人もこれを逃れられることができなかった。中世の農村や都市の方が住みやすく清潔だったはずだ。

こうしてサバイバルにも厳しい場所であるが、ロンドンへの人の流入は激しく(1744年にボヘミアから、1772年ポーランドからユダヤ人が追い立てられ、食糧に不足したアイルランドからは農民が継続的にきた)、その理由は「落穂拾い」がなんらかのかたちで可能だったからであり、社会・経済・政治の各面から、それが許され、あるいは強制された結果である。

そして資本と余剰が使い道のないままに都市に蓄積された。

しかしながら、次に到来する産業革命に際して、諸国の首都は見物人であった。ロンドンではなく、マンチェスター、バーミンガム、リーズ、グラスゴーが新しい冒険に突入した。パリではなく、北部の石炭、アルザスの河川の水力、ロレーヌの鉄が新産業だったのだ。しかも投入された資本は18世紀の貴族たちの蓄積した資本でもなかったのだ。

新しい産業は首都をかすめ通ったのである。

<わかったこと>

「公的機能」と称するものが、近世においてどのような位置にあったのがおよそ透けてみえてくる。一定数の人間らしさのない生活を基盤としているのは、古代ギリシャも同じであるが、より暴力的な匂いが漂う。それが、この時代の大都市だった(現代においても、その性格はある)。

しかし、産業革命がこの大都市を素通りした事実が示唆する点は大きい。

都市と一言で表現するが、土地のサイズと人口、周辺の農村との関係、文化的蓄積など種々の指標で都市のあり方はさまざまであるのが自ずと浮き上がってくる。大都市の一極集中に依存する社会とは幻想を追っているに過ぎない。同時に、グローバリゼーションなるものの非現実性にも思いをはせることになる。



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