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ぼく自身の歴史を話します。


2008/6/9

「2008 ミラノサローネ」を2ヵ月半かけて書いてきました。その後、熱心に読んでくださった方たちのために引き続き何を書くのが良いのか考えてきました。ぼくが書いてきたのは、如何に視点を動かすことが難しいか、ということです。しかし、その視点を動かさない限り、欧州の人たちに自然に受け入れてもらうモノを作るのは困難なのです。そこで、最後に欧州文化とは何かとぼくなりの意見を述べました。

先週、たまたま、ビトッシのセラミック製品が欧州と日本の市場で評価の仕方が違うことを、東京にいるスタッフと話し合いました。欧州では「味がある」と見られることが、日本では「品質での問題」として受けられることがありますが、そのギャップを如何に解決していくかがテーマです。とくに初めて話し合ったのではなく、何度も何度も繰り返されてきた内容です。

だが、先週はこういうことを電話で話しながら、ふっと「ああ、こういうことをブログに書いていったらどうか」と思いはじめました。つまり、僕自身がどういう経過をもって欧州文化の見方を獲得してきたか、その経験談を書いていくと、「2008 ミラノサローネ」に対する理解の仕方が違ってくるのではないか、それが、ビトッシの製品に「味を感じる」プロセスを知ることに繋がるのではないか。そう考えたのです。

僕がイタリアで生活をはじめたのは1990年3月。今年で18年目です。長いといえば長いし、短いといえば短い。ただ自分のヒストリーをお話しするネタもないわけではありません。そこで、若干時間を前へ行ったり後ろに行ったりしながらも、ぼくが「2008 ミラノサローネの見方」で書いた内容を考えるに至った経緯を書いていくことにします。何回のシリーズになるか、それは僕自身も分かりません。それでも最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。

それでは、まずイタリアに来ることを決めた1988年に時間を戻します。

2008/6/10

1980年代後半、日本は経済活況期でした。それが後になって過去を形容する言葉として、「バブルの時代」と呼ばれるようになったのですが、その頃、ぼくは日本の自動車メーカーでサラリーマンをやっていました。欧州の自動車メーカーにエンジンやギアボックスなどのコンポーネントを供給する仕事でした。その一つに英国のスポーツカーメーカーとのプロジェクトがあったのですが、英国人の頑固さと柔軟性に接しながら、ぼくは一つのことを思いました。「何か新しいコンセプトを作っていくには、米国ではなく、欧州のほうが相応しいのではないか」ということです。もちろん、米国でも新しいコンセプトは生まれますが、過去の遺産と常に見比べながら将来を考える欧州の方に分があるのではないか。そう思ったのです。

一方、ぼくは、できるだけ全体を包括的に掴んで生きたいという願望を、高校生の頃よりもっていました。大学はフランス文学科を卒業したのですが、この学科を選んだのは、フランスでは文化の捉え方が非常に広範囲であることが魅力でした。分野を細かく分割せずに、文学、政治、美術、社会などを横断的にカバーできる、あるいはカバーしないと話しにならない。そういう考え方が気に入ったのです。そういう性向からすると、サラリーマンとして自動車だけやっていることも、だんだんと不満になってきました。自動車という商品はビジネスとして面白いですが、それだけに関わっていることに焦りを感じました。

いくつか転職先を探してみました。しかし、どうにも惹きつけられるものがありませんでした。ビジネスをやり、文化を語り、社会貢献にも参加する。そして、それらが個々に独立しているのではなく、全てがお互いに相乗作用しあう。そういう世界があるのではないか、いや、それをやっていく道を探るべきではないか。そういう思いを抱えていたぼくにとって、東京であたってみた会社はどれもつまらなく思えてしまったのです。そんな胸のうちを、それまでにも相談にのっていただいていた勤めていた会社の役員に話しました。そうしたら「君のやりたいことをやっている人が、ここにいるよ」と一冊の本を差し出してくれました。それが『われら地球家族』という名の本でした。

1988年11月のことでした。

2008/6/11

『われら地球家族』を借りた日、その晩のうちにこの本を読み終えました。著者の宮川秀之氏は1960年、オートバイで友人と日本から世界一周の旅に出ました。トリノのモーターショーのスタンドで知り合ったイタリア人女性と結婚。そして、ランチアの重役の娘であった彼女の家族を通じ、当時ギアにいた若きカーデザイナーであるジュージャロと出会ったのです。こうして、いすゞの117クーペなどの名車が生まれる環境ができていきました。ぼくが心を動かされたのは、彼が躍動感溢れるビジネスの世界と、家族や社会とのかかわりの両方を一気にカバーしていたことです。

ビジネスではイタルデザインでカーデザインのトップカンパニーに育て上げるだけでなく、スズキのバイクやヒュンダイの車をイタリアでビジネス化。実の子供を4人もち、韓国、インド、イタリアの子供たちを養子にとり、アフリカの子供たちの足長おじさんにもなり、文字通りの「国際家族」を築き上げていったのです。ドラッグ追放運動にもかかわり、ドラッグで駄目になった親をもつ子供たちにも救いの手を差しのべ、トスカーナで有機農園も経営するというように人の何倍もの人生を生きている人です。ぼくは、この人のもとで働きたいと、その晩、強く思いました。

まだネットが普及していない時代、イタリアにいる宮川氏のコンタクト先を知るのは至難の業でしたが、あるチャンスを生かし、イタルデザインの電話番号を知ることができました。彼に「あなたのもとで働きたい」と手書きの手紙を送ったのは、本を読んでから一ヶ月後くらいだったと思います。確かクリスマスも過ぎ、大晦日の前、そのあたりの日に夢を託して手紙を投函したのでした。しかし、そう簡単に返事をもらえるはずもありませんでした。

2008/6/12

1989年1月末になっても、宮川氏からは何の返事もきません。半ば予想していたこととはいえ、やはり気落ちします。彼の本のなかにあった、あるエピソードを思い出します。オートバイの世界一周を企画している頃、朝日新聞ロンドン特派員がトヨタの車でロンドンから東京まで走りきりました。それが新聞で連載され、大きな話題になっていたのですが、宮川氏はこの記者にアドバイスを求めようとしました。しかし、やはり手紙にすぐ返事がきません。が、三度目の手紙に「自宅においでください」とのお誘いがきたのです。ぼくも、三度は覚悟しないといけないと思っていました。

そうはいっても、何とか一度は会ってみたいと思う気持ちは日々大きくなるばかりで、2月のある日、思い切ってトリノのイタルデザインに直接電話しました。そうしたら「夜、自宅に電話するといい」と言われ、やはり自宅の電話番号も入手していたぼくは、日本時間の夜中遅くに彼の自宅に電話しました。いつも本人はおらず、毎日違った子供が電話に出ました。宮川氏本人と電話で話せたのは3-4度目でした。「はい、手紙は読んでますよ。一度、会いましょう。今度、東京に行ったときに、いろいろと話しましょう」という言葉を聞いた晩、興奮して眠れるはずもないベッドでのなかで一晩中、これからのことを考えました。

宮川氏と有楽町の帝国ホテルのレストランで朝食を一緒にとった時、「階段をひとつひとつ上るように、ひとつの会社のなかで出世していく人生を悪いとは言わないが、自分で考えながら山や谷をこえて切り開いていく人生の魅力には勝てないよ」「イタリアは先進国の顔をしたジャングルだね。一度、イタリアのサイズというのが、どういうものなのか、実際に知ってみるといいと思う」と言われ、その場でぼくはすぐ、「今度のGWにトリノに伺います」と答えました。これは行くしかない、と。

2008/6/13

1989年4月末、ストックホルム経由でミラノに飛び、そこからトリノに電車で出かけました。連休直前に決めた旅で、そういう手段を使うしか方法がありませんでした。トリノのホテルに着いた翌日、宮川氏の長男が、設立して2-3年目の会社に案内してくれました。フェリーニの映画「インテルビスタ」や黒澤明「影武者」で助監督をつとめた彼は、その頃、ビデオ製作をしていたのです。F1のパイロットがアルプスで行うスキー大会の様子を見せてくれ、「プロストやピケたちと友達になったよ」と話してくれました。24-5歳だったと思います。

2日目は自宅での昼食に招かれました。国王が生まれた建物の向かいにある天井にフレスコ画が描かれた家に、その「地球家族」が住んでいました。日本、韓国、インド、イタリア、それらのハーフ、さまざまな顔の子供たちがあの日も5-6人いました。 宮川氏は「昨日みた会社、いいでしょう。僕もね、子供が学校を終えたら親の教育は終わりだと思っていたんだ。でもある人に言われた。子供がちゃんとした職業人、家庭人になるまで親は教えるべきだと。手取り足取り教えるのではなく、僕達夫婦の背中をみて育って欲しいという目的であの会社を作ったんだよ」と説明してくれました。

まだ独身の身にとってはあまりピンと来ない話でした。この趣旨が如何に大切なものかを知るには、その後の自分自身の体験が必 要でした。とにかく10人近くでテーブルを囲んだ食事は、「国際的」などという言葉が簡単に吹き飛んでしまうような強烈なインパクトがありました。夫妻が言う「開かれた家族」の活動の場がまさしくここにあり、外部の人間を実にスマートに内に入れてくれる空気があります。

前日みた会社は会社と呼ぶにはあまりにエレガントな空気があり、その感想を伝えると、宮川氏いわく、「あそこは仕事をするというよりモノを考える場所ですね、とお客さんに言われるよ」と笑って答えてくれたのです。

2008/6/16

トリノでぼくは「自動車と都市計画の両方を視野に入れたビジネスを作っていきたい」と話しました。「考え方としては面白いが、ビジネスは別個に考えた方が いい。石畳とアスファルトの道ではサスペンションを変えないといけないし、コミュニティのあり方との関係で新しいコンセプトの車もスタディしている。が、 ビジネスにはまだ早い」というのが宮川氏の意見でした。 そこで二つのプロジェクトの可能性を示してくれたのです。一つはスーパーカーの限定生産。もう一つはトスカーナに約12万坪の丘にある狩の館を購入したので文化センター設立。

その頃、自動車会社にいたぼくは、スーパーカープロジェクトに何らかの貢献ができるかもしれないと考えました。 しかし、それらがどういう意図でどういう人たちの間でどのように進められているかという詳細は何も教えてくれない。この日に分かったことが一つあります。頭を下げてお願いしますと言えば働けるものではなく、ぼくが何らかのことを具体的に示す必要がある、ということでした。これが宮川氏流の仕事のやり方だと、ぼくは理解したのです。

東京に戻っても、彼が言った「このままいくと、日本では試行錯誤という言葉が死語になってしまうかもしれない」という台詞が頭から離れません。 ぼくの結論はこうでした。日本からビジネスのお土産をイタリアに持って飛んでいくしかない。会社の仕事との二足のわらじの生活がこうしたスタートしたのです。

2008/6/17

89年はまだバブル経済で狂っていた時代です。だから車を作りたいという会社も自動車会社以外に少なくありませんでした。5月からプロジェクトを企画し猛進した。 一時は光明が見えたかにも思えたのですが、半年後の10月、関係者の動きからみてこれは座礁すると判断し、宮川氏に白旗をあげざるをえませんでした。

そうしたら11月はじめの帝国ホテルで「2年間、トリノで面倒をみよう。最初はヨチヨチ歩きだろう。自分で歩けるまで2年間は必要だろう。その後、独立すればいい」「今までは企画書をちゃんと書いて仕事をする世界にいたわけだが、これからは野武士になって欲しい」と言われたのです。狂喜の一瞬でした。

実際には90年3月から3年半、トリノのあの会社らしからぬ空間の事務所にいました。それまでの会社をやめたのが90年2月28日、イタリアに向けて成田を発ったのは3月1日。 宮川氏にどうすれば評価してもらえるか・・・毎日のように考え実行に移した89年でした。

学生時代からの付き合いで、卒業後もしょっちゅう翌朝まで酒を飲んでは「明日を生きる」ことを語り合っていた先輩は色々と相談にのってくれ、励ましてもしてくれました。 あの3月1日の夜、いまは多くの若い人たちから「夜回り先生」と呼ばれる彼が成田で言った「いつも去る人間より去られる人間の方が寂しいんだよ」という台詞は今も忘れません。彼には深く感謝しています。

2008/6/18

1990年3月にトリノに来たぼくは、何をしていてもいい言われ、毎日ブラブラしていました。昼間からカフェでビールを飲んで、明るい日差しのもとでボンヤリとバロック建築の街並みや人を眺めていたり。その年の秋頃でしょうか、突如、何かをやりたくて仕方がなくなったのは。トスカーナの文化センターとなる狩の館の改修工事が進んでいたので、文化事業に首を突っ込んでみたいと思うようになったのです。欧州における日本研究の現在を知ろうと、英国の大学をスコットランドからロンドンまで専門の教授7-8人と会う旅もしました。

都市計画関係のネットワーク作りをスタートさせたのもこの時期。文化センターの構想を話し合う会議には、色々な人間が集まりました。心理カウンセラー、医者、美術史研究家、建築家、実業家・・・と多様です。テーマは「文化の違いを知り、それを受け入れるにはどうすれば良いのか?」。

そういう会議に出席しながら、ぼくは何となく分かった気になりましたが、でも眠気も感じたのも正直な感想です。その時、宮川氏に言われました。「君にはまだ難しい話だろうな。あと10年くらいしないと分からないと思うよ」。「えっ、そんな!」と反発もしましたが、本当、その通りでした。文化の違いをディテールとコンテクストの両方から身をもって知るには、まだまだ時間と経験が必要だったのです。

2008/6/19

文化センターに首を突っ込みはじめた次の年、つまり91年のいつ頃かスーパーカーのプロジェクトにも足を踏み入れることになりました。ジュージャロのデザインした車です。ダブルキャノピーのこの車を1億円という価格に設定したのはバブル経済の賜物でした。F1パイロットの中島悟が乗った宣伝などで記憶にある人も多いと思いますが、とにかくヨチヨチ歩きのぼくも、この車の仕上がりをチェックすることになりました。

宮川氏から車をみてくれと言われたとき、ちょっと逃げ腰になりました。いくら欧州メーカーのスポーツカープロジェクトに関わったことがあっても、ぼくはビジネス畑です。それも、組織のなかの一パーツです。「それは品質検査あるいは実験・評価の人たちプロの仕事だろう」と瞬時に思いました。そんなぼくが見ても・・・と正直迷いました。自動車メーカーにいたからなお更そう反応したのでしょう。

もちろん、この車を作っているカロッツェリアの品質管理の人間も見るし、ちゃんとテストドライバーも走ります。しかし、ユーザーの目で見ることも大事なんだ、と。ぼくは1億円の車なぞ買えるユーザーではないですが、「君の目と触覚で判断することも大切なんだ。自分自身の目で見る、それがいいんだ」と言われたのです。

1億円の価値がどこにあるかを考えながら、一台一台出来上がった車をみました。誰の目でもない、まさしくこのぼく自身の目で直接みる意義あるいは大切さを知ったのは、こういう経緯を契機としていたのではと今にして思います。それまでのぼくは「職務分担された自分」ではなかったか・・・と考えるのです。

2008/6/20

トリノの会社らしからぬ事務所は、F1やサッカーなどのスポーツビジネスをスタートしはじめた頃でした。スポーツは好きですが、スポーツビジネスはぼくの目指す世界ではないことは、自分でよく分かっていました。そういう世界がどういうものなのか、知っていることが大切ですが、そのなかに生きるのはぼくではない。そして、スポーツ関連にリンクする場合のコネと勘があればよいだろうと思っていたのです。宮川氏には「本当に好きなことをやれ」と言われていました。好きなことというのは、何かのために実際に体を動かし、そのプロセスのなかで分かってくるものだ、ということにおぼろげながら気づき始めていました。頭のなかで「これが好きだ」と決めつけるものでもなかろうということです。

ぼくは都市計画に興味がありました。が、その世界の人間を知ったからと言って、そこで何らかの仕事ができるはずもありません。それには小さな規模のビジネスも成立可能な建材やインテリア商品の輸出入で、現実を知っていくことからはじめるのが良いのではないかと思いはじめました。しかし、実行に移すのは遅く、そのまま「卒業」の時期がきてしまいました。卒業までのビジネスプランナー修行は2年の予定でしたが、結局は3年半でした。多くの人と知り合いました。その間、いくつかの企画を試みはしたものの、自分でゼロから生み出したビジネスはありませんでした。実施に至ったのは、他人の発案にのったものが大半でした。やはり、ヨチヨチ歩きから野武士になるには時間が必要だったのです。

結局、尻に火がついて、現実がより見えてきます。それまでは自分が見えていたと思った現実は、すべて宮川氏に守られた世界でした。イエローページでトリノの建築事務所の住所を片っ端から調べ、およそ100通の手紙をダイレクトメールとして送ったのは、1993年の後半だったと思います。手紙は、「建築分野で日本とイタリアが協力しあえることは何か知りたいからリサーチに協力して欲しい。そのために一度伺いたい」という内容です。イタリア人の親友にイタリア語の文章を直してもらい、どのようにアプローチすれば心がつかめるかを教授してもらいました。。

手紙が届いたタイミングを見計らって、それらすべてに電話をかけていきました。「手紙をお送りしたのですが、読んでいただけましたか?一度、お会いしていろいろと話し合いをさせていただきたいのです」と。「そんな手紙、もらっていない」「忙しくて会えない」という冷たい返事が多いなか、20軒程度の事務所とのアポイントが取れました。他の人が知らない、ぼくしか知らない世界を作っていくには、こういう方法をとるしかない。それがぼくの宝になっていくのだ。そう考えたのです。これで一歩踏み出したという実感をもちはじめました。

1988年に宮川氏に最初の手紙を送ってから5年の年月を経ていました。

2008/6/23

20軒ほどの建築事務所との面談で、いくつかの小さなプロジェクトが生まれました。ほんとうに小さな小さなプロジェクトです。でもとにかく、何かを一緒にやる経験がどうしても必要でした。イタリア人の建築家が日本に何を求めているのかがだんだんと分かってくるにつれ、一方で日本の建築家がイタリアから何を得たいかも分かってきます。当然ながら、それはなかなか交差しません。ボッカという唇の形をイメージしたソファをデザインしたストゥディオ65のメンバーも、この20軒のひとつでした。また、建築家を介して現代音楽の女性研究者とも知り合いました。音大のピアノ科を卒業した家内は、この研究者が書いたクラシック音楽のコンサート批評を毎月日本語に訳し、日本の雑誌に6-7年にわたって掲載しました。欧州の音楽事情や考え方を知るに、脇で見ていたぼくもずいぶんと良い勉強になりました。

既にその時に25年近くイタリアで建築家として活躍してきた渡辺泰男氏と出会ったのも、1993年でした。槙文彦氏の事務所の後、ミラノの都市設計家であるジャンカルロ・デ・カルロのもとで、ウルビーノ大学の寮の設計を担当し、その後、ペザロで3人のイタリア人パートナーと建築事務所を経営していました。他のイタリア人は構造や営業担当で、渡辺氏が設計の責任者です。今では40人以上の所員がいる事務所となっています。

数多くの公共建築、殊に学校建築の設計を多数行い、ペザロの1万人収容のスポーツセンターを設計し施工が進んでいる時期でした。日本とイタリアの両方の都市計画と建築をリアルに知っている方です。渡辺氏に「アドバイスを今後お願いします」と申し上げると、「いいですよ」と快諾してくれました。「イタリアにいる日本人で、あなたのようなビジネスプロデューサー的な人は少なかったから、面白いでしょう」「よくギブ・アンド・テイクというけど、ぼくはギブ・アンド・ギブという考え方もいいと思う」という言葉を伺ったとき、どうして皆さんこんなに心が広いのだろう、と心から感じ入りました。

1993年といえば米国でサッカーのW杯が開催される前年、日本では2002年の開催誘致活動を繰り広げ、全国に10以上のサッカースタジアムを用意しないといけない。そこで、日本の多くの建築関係者が、1990年のイタリア90で使われたスタジアムの視察に来ていた。そういう時代です。

2008/6/24

じょじょに建築分野に足を踏み入れ始め、そこで分かったのは「このままトリノにいてはいけない」ということでした。車業界のビジネスにはよくても、建築関係となるとミラノでした。トリノの建材や家具などのメーカーは、イタリアでは優秀でも海外市場に進出していくには力不足の感が否めなかったのです。突出している会社がないわけではないのですが、平均を狙った時に難しいということは、ビジネス上のリスクが高いことを意味します。

ミラノからコモ近くには有名な家具メーカーが多いですが、かといってミラノの周囲なら良いとも言い切れません。ただ、ミラノから東、ボローニャやヴェローナなどの都市周辺に良いメーカーが多く、交通の便も良いのです。トリノから出かけると一泊しなくてはいけないところも、ミラノからは日帰りでいけます。ミラノに名の知れたデザイン事務所が多いことは、引越しのあまり積極的な理由になりませんでした。 デザインでは平均点はあまり意味がなく、抜群であり、かつ個人的な絆が強いことが重要であることを、宮川氏とジュージャロの関係をみながら学んでいました。逆にいえば、100通のダイレクトメールを送り会った建築家20人のなかに、これに賭けようと思う才能を見出せなかったとも言えます。また他方、なんでもまずリサーチありき、というぼくの行動自身が、野武士になりきれていなかった部分でもあったとも反省しました。こうして1994年の春、ミラノに拠点を移しました。

思いおこしてみれば1980年代の中ごろ、小学館『カーデザインの巨人ージウジアーロ』を買って読んでいたのです。この本の巻末には、特別寄稿で宮川氏の「ジョルジェットの涙」というかなり長い文章があり、二人の長い歴史や映画の黒澤明監督やソニー元会長大賀氏との交友などが記されています。しかし、そのときぼくはこの宮川氏の文章に全然反応していなかったのだ、ということを後になって気付きました。出会いが人を作りますが、機の熟さぬ出会いはチャンスを作りえない。そういうことでした。さて、ミラノで待っていたことは何だったのか。「ミラノでのスタート」として、次回から書きます。

2008/6/25

日本の建材メーカーや建設会社のコンサルタントをしながら関わったプロジェクトが、2002年サッカーW杯に向けてのサッカースタジアム設計でした。欧州で生まれたサッカーに相応しいスタジアム、それは選手がやる気になり観衆が興奮する空間が求められるわけですが、このエッセンスを日本側は探しあぐねていたのでした。ぼくは日本からユベントスに研修にきていたJリーグのコーチの意見に耳を傾けたりしながら、ぼくが何をできるかを考え始めました。ここで、サッカービジネスを横目で見ていた経験が活きました。

渡辺氏が大規模スポーツセンターを設計したときに知り合った構造設計家マイヨヴェスキは、ローマ、トリノ、モントリオールなどのスタジアム設計に関わっていた人でした。テンション構造や膜構造の第一人者です。構造そのものを美しく見せる人で、旧ミラノフィエラの中央広場にも、彼の設計した大テントが張ってありました。ミラノ中央駅前のあのスマートなピレッリビルを1950年代に設計したのはジオ・ポンティですが、構造設計はネルヴィです。どうしてラテン系の構造は、こうもデザインに冴えるのだろうと興味をもちはじたのです。いわゆるミラノデザインの世界とは距離をおいていたぼくにとって、これは貴重な才能だと思いました。

日本の技術を駆使した建材や設備が、メーカーが胸を張って思うようにはイタリアで歓迎されない という経験を積むなかで、イタリアから日本に紹介していく商材を考えるほうが現実的なのではないかとも考えていました。文化的な影響がやや入りにくいハイテク製品とは違い、住環境に関わる製品は文化の壁を越えるのに時間が必要だと認識していたので、サッカースタジアムのように欧州の基準が優先されるソフトの輸出に関わっていくことを試してみたいと思ったのです。

渡辺氏が設計、マイヨヴェスキが構造設計を担当。この営業にぼくも走り回りました。1994年米国でのW杯ほど腹がきりきりする思いで見た試合はありません。イタリアが勝ち進めば進むほど、「あの強豪のイタリアが使うスタジアムを設計した人間の登用を考えてみませんか」という文句が言いやすいだろうとわけもなく思い込み、イタリアの試合に一喜一憂したのでした。ブラジルとの決勝でPK戦となり、バッジョのシュートがゴールを外れたときの脱力感はたまりませんでした。

2008/6/26

膜構造やテンション構造が求められる柱の不要な空間とは何だろうかと考え、農業用ビニールハウス設計の可能性を探ったのも、この時期でした。日本の農家、それも先進的農法や農業の観光化に関心の強い農家を直接訪ねもしました。ビニールハウスのデザインそのものに独自性をもたせることで、地域のシンボル化が図れないかとも考えました。話としてはとても面白いと色々な人が言ってくれました。しかし、農業の利潤性の悪さは、こうした試みをそう簡単には受け入れてくれません。

そういうことと並行して、日本の化粧品メーカーの什器をイタリアで開発・生産し輸出するプロジェクトにかかわりました。正直に言うと、イタリアにおいてはやや地味な印象を受けるデザインながら、日本では「イタリアらしい」とされました。イタリアでセンス抜群とされるデザインは、日本では浮いてしまうのです。それこそ、イタリア人が「イタリアらしい」とも気づかないところに、日本の人は「この厚みやカラーがイタリアらしいですね」と評します。イタリアに目が慣れていたぼくには、少々不満ですが、これがビジネスの交差点なのだと理解しました。

また、工業製品のデザインも日本から求められるようになります。日本では新しい機能をデザインとみなす傾向が強いので、なるべくアート系より技術系出身のデザイナーとの付き合いを増やしていきました。およそミラノのデザイン事務所は技術製品の開発より家具や雑貨などのデザインを得意とすることが多く、こういう領域とは相変わらず距離をもっていました。

日本からの要求で多いのは最初のアイデアです。最初のひらめきをアイデアスケッチで求められることも多く、レンダリングを提示すると、あとは日本が引き継ぐというパターンです。これはこちらでは「盗人」的に受け取られ、そこの調整に難儀することが少なくありません。どうして「ひらめき」が要望されるかは推測がつきます。インハウスデザイナーは同じことの繰り返しに慣れ、技術的な壁も即想像がついてしまうこともありますが、社会的な規範が生む発想の幅の狭さにメーカー自身が気づいていることもあります。しかし、そうは分かっても、どうにもこちらにイライラ感が募ります。

2008/6/27

イタリア人は自然の素材を好みます。シャツは化繊ではなく綿を着る。床材は大理石やタイルあるいはフローリング。ですから日本のメーカーが作った「本物にとてつもなく近づけた」工業製品に対して、その技術力は褒めても、「これはイタリア人の感性にあう製品ではない」と軽く遠ざけることが少なくありません。逆に日本ではクレームになりやすい皮革製品にある成長傷は当然とうけいれます。レンガが零下で白っぽくなるのは当たり前、湿気で伸縮が生じるのは木材の特徴。こういうかつて、常識だったことが日本ではだんだんと忘れさられ、工業製品の品質安定性を選択するようになってきたなかで、イタリアはあくまでもその常識を忘れません。常識を忘れない強い感性があるともいえます。冷凍食品の普及率が日本だけでなく英国と比べても低いという現象にも、この説明は有効です。

こういう違いを身にしてみて分かってきたのが、イタリアにきて5-6年目でした。「身にしみて」と書きましたが、これは文字通りで、下着や靴下の類も日本製を避けるようになったのです。ゴムがきっちりときいた靴下をはくと窮屈だと感じるようになり、イタリアの無理のない強さが心地よく思えてきました。 日本で受けるタイルとイタリアで売れるタイルでは、サイズに違いがあります。日本のほうが小さい。それは空間の大きさの違いが反映されているのですが、ぼくはそれだけでなく、日本人には小さなサイズを何でも好む、別の動機があるように思えてしかたがありませんでした。そしてイタリアでは、パスタはある一定の量を食べないと味が分からないはずであるというロジックと同じことが、色々な製品に当てはまるだろうと考えたのです。

ある体験をしたという実感をするための絶対的な量の違いは、言葉でも同じです。何かを褒めるための台詞が日本人であれば十数秒で終わってしまうのが、イタリア人は2-3分。色々な形容詞や表現を次々に繰り出してくる。日本人であればうんざりするくらいの言葉のシャワーを浴びせる。実際、多くの日本人はうんざりします。しかし逆の場合、イタリア人は日本人の言葉の少なさにがっかりします。十数秒で終わるくらいの価値しかないのかと肩を落とすわけです。

このようにイタリアと日本の違いについて、自分の実感をもって自分の言葉で少し語れるようにはなりましたが、イタリアにきた当初に文化セミナーのミーティングで話題になったような、「それでは文化の違いをどう受け入れるのか?」という問いには、まだ言葉が詰まったのではなかったかと思います。多分、この頃、1995年だったと思います。メトロクスの社長である下坪氏からFAXをもらったのは。

2008/6/30

そのころ下坪氏は札幌で店を立ち上げて2-3年。米国からイームズなどの椅子を入れ、ビジネス的にも軌道にのりつつある時期でした。そこで欧州から直接仕入れることを考えていたのです。店内の写真と一冊の本を送ってきてくれました。”L’Utopie du Tout Plastique 1960-1973″ です。ここに掲載されている商品を今後輸入していきたいとのことでした。特にジョエ・コロンボのデザインが大好きだと書いてきました。自然素材の本物志向に傾いていたぼくは、「えっ」と驚きました。ネットリ感のある昔のプラスティック製品に興味をもったことがないぼくは、こうした世界に無知でした。

数年後、ベルギーのブラッセルにこの本の著者に会いに行くのですが、その時はどういうスタンスをとれば良いのか迷いました。アンティークはぼくの畑ではないので、正規にメーカーから仕入れる商売であれば協力しましょうと、その旨を伝えました。ジョエ・コロンボの商材探しは、こうしてスタートしました。まずジョエ・コロンボが何をデザインしたのか、それが全て分からなければ話になりません。著作権者を見つけ出すのが先決です。ネットで探すという時代にはもう数年必要でした。ミラノのデザインに強い書店めぐりを行い、ジョエ・コロンボの展覧会のカタログを入手。そしてジョエ・コロンボとの思い出を書いている、親友と思われる家具メーカーのオーナーの電話番号を番号案内で見つけます。

「あなたはジョエ・コロンボと懇意だったと書いておられるのでお伺いしますが、彼の著作権はどなたがお持ちなのですか?」と聞くと、ジョエ・コロンボの右腕だったイグナチア・ファヴァタ女史の電話番号を教えてくれました。即、ファヴァタ女史に電話すると、「お会いしましょう」という言葉がかえってきたのです。 このあたりの動きは身についていました。宮川氏への場合と同じで、「この人がキーだ」と思ったら、なんとしてでも直接コンタクトすることが大事です。そこからしかはじまりません。ファヴァタ女史に会い、どの商材なら扱えるかの全貌がみえてきました。照明メーカーのオールーチェも、ファヴァタ女史の紹介だったと思います。

2008/7/1

下坪氏の選択眼にはぶれがありませんでした。自分の目にかなうデザインをたくさんの書籍から選び、ひとつひとつ輸入可能か打診されました。デザインの本に書いてあるメーカー情報は最新でないことが多いし、だいたい連絡先など書いてありません。会社年鑑やその他の資料を手繰りながらメーカーを探していきます。同じ名前の会社もありますから、全く関係のない会社にコンタクトしてしまったこともあります。この作業をしていくうちに、1950年代から70年代のデザインの歴史がモノを通じて見えてきました。しかし、既に生産停止になっている商材も多いのでした。

メーカーを訪ねると、金型が倉庫にはいったきりだが、市場トレンドから復刻も検討したいという情報がじょじょに入ってきます。デザイナー本人にメーカーをプッシュしてもらうという技も使いました。デザイナーのアーカイブに眠っているスケッチや図面との出会いも楽しいものです。多くのスケッチのなかから、どうしてこのヒットデザインが生き残ったかが見えてくることもあります。自然と時間に耐えるデザインがもつ価値に惹かれるようになっていきました。

一方で、全く別の分野のプロジェクトも仕組んでいきましたが、それはアジアのハイテク製品を欧州市場に紹介していくことです。建築やデザインなど文化性が強いビジネスの反対側にあるのがハイテク製品ではなかろうかと考えました。便宜性や性能が勝負の世界には別の面白さがあるのではないかと。ただ、このブログの趣旨とは少々離れるので簡単に書いておきます。結論だけ言うと、ハイテク製品といえど文化性に無縁であるはずがないということです。どういった機能をどれだけ求めるかは、全てライフスタイルやユーザーの思考傾向と密接に結びついており、例えば、日本の技術者がいくら特許内容を誇っても、その技術を採用するかどうかは、極めて文化的判断に基づくことが多い。したがってアプリケーションまで含め、どこまでストーリーを作るか。欧州文化文脈を把握する必要性に、ここでも迫られていきます。

2008/7/2

時計の針を早回しします。宮川氏がイタリア人の女性と結婚し、大きな地球家族を築いたことを以前に書きました。奥さんのマリーザさんとは常に行動を共にしていました。クライアントとのミーティングも同席。ぼくが1989年に宮川氏と帝国ホテルで初めて会った時も、隣にはマリーザさんがいました。そのマリーザさんが2003年のクリスマスに突如この世を去ったのです。数日後、ぼくは雪の積もるトリノの教会に駆けつけました。

葬儀で神父 は「マリーザは若い人たちの世話など細かいことを日々丁寧にこなしながら、いつもその先に大きな目標を設定し実現に向かい、小さな日々のことどもを将来的に統合することに生きた」という意味のことを語ります。その瞬間、この「統合」(英語でいうintegration) という言葉が身体中を駆け巡り、「統合」とはどういうことを意味するのかが体で理解できたのです。ここにぼくのひとつの転機があります。

職業経験を車業界からはじめ、濃淡の差はありますが、それまで文化、建築、建材、工業デザイン、家具、雑貨、ハイテクといった分野をみてきました。そして2003年は、カーナビなどの電子製品のインターフェース、それも欧州市場向けのローカライゼーションのプロジェクトにも足を踏み入れつつあったのです。これはぼく向きの仕事であると瞬時に思いました。今まで関わったすべての経験が活用できるのです。あえて言えば、「知識が分断された人間」には分かりにくい世界だろうと感じました。1990年代初め、一台1億円のスーパーカーの品質を見るようにと宮川氏から言われたことが、「職務分担された自分」への訣別の契機になりましたが(実は、その時からルネサンス的工房やバウハウスのコンセプトが気になりはじめました)、この2003年末のマリーザさんの葬儀をきっかけに、自分の「人間力」そのもので勝負する心構えができてきたのです。

大学でフランス文学科を選択したのは、全体性の把握への関心でした。日本の自動車会社をやめてイタリアに来たのも、より幅広い分野にコミットするためでした。そしてそれらをひとつの方向にまとめきるタイミングがきたのではないか、「統合」という言葉を伴ってそういう思いを強くもったのです。「人生において無駄な経験なぞ何もない」ということは頭では分かっていました。「すべては人間力勝負だ」とも、それまでも思うことは多々ありました。が、それがぼくの人生で具体的にどう全体的な姿として色を添えて表現されてくるのか、それが見えなかったのです。そこに光明がやっと見えてきました。40代半ばにさしかかっていました。

2008/7/3

今から振り返れば、下坪氏とデザイナーインタビューをはじめたのも、「統合」の契機を作るものだったのかもしれないと思います。2003年のはじめ、MH-WAYの蓮池氏に半生記を伺ったのが最初のインタビューです。

この次に会ったのがジャンカルロ・ピレッティです。

趣旨はヒット作をもちながら、あまりメディアに取り上げれられていないデザイナーに、デザイナーになった動機から作品を作った当時 の想いまでを語ってもらおうということでした。「あなたは、ヒット作でお金が十分に稼げましたか?」「はじめて弁護士を雇って著作権をまもったのはいつですか?」というやや聞きにくい話題にもチャレンジしました。上記の二人のインタビューを聞いていると、その時代のスカンジナビアデザインの位置づけが、リアルに同じ目線で見えてきます。歴史が古い紙の匂いではなく、肉声で時代に生きた想いで理解できてくるのです。

こうやって会った人たちは、上記以外に、ピエール・ポラン、(オルセー美術館を設計した)ガエ・アウレンティ、イグナチア・ファヴァタ(ジョエ・コロンボ事務所)などがいます。またカルテルの創立者やイタリアデザイン史の研究者など様々な人から過去を知りました。リチャード・サッパーとはインタビューではありませんでしたが、なかなか面白いミーティングを何度かもっています。

かといって歴史のなかだけに生きるのではなく、今の社会のトレンドも追う。これが自分にとっても必要なスタンスであるということが分かったということです。

2008/7/4

電子機器のインターフェースをみていると、如何に市場の文化的素養が必要かを痛感します。外国らしいデザインがブランド性を高めることがありますが、ユーザーインターフェースは、痒いところにも手が届く発想が必要です。グラフィックや適切な言葉だけでなく、ユーザーの考え方あるいは考える道筋などについての適合性が求められます。デザイン、人間工学、認知心理学、文化人類学、これらの素養を援用しながら最適化を図っていくわけです。こういう分野に接していると、家具デザインのターゲットの絞り方や表現が実に気になります。

人は止まっているときより、何らかの行為をしているほうが性格の特徴が出やすいですが、電子機器インターフェースも、持ち歩き動きながら使う機器は、より直感で把握できるインターフェースでないといけません。家具のデザインをするのに、このインターフェースと同じような気配りは余計かもしれません。しかしながら、「2008 ミラノサローネ」で紹介したように、日本人のコンテンポラリーアーティストが作品を欧州人のロジックに分かるような見せ方を行い、適切な文字情報を解説として提供したら、批評家やコレクターの反応が全く違った。この例にみるように、その先のもうひとつの頭と気の遣い方次第で、結果が全く違ってくるのです。これはユーザーインターフェースの開発で使う頭と近いところを使っています。

このあたりのくだりからも、「2008 ミラノサローネ」でかなり手厳しく日本のメーカーの展示方法を批評した背景が分かるのではないかと思います。たぶん、「欧州の人に何かを表現する場合、ユーザーインターフェースと同じような頭を使うべきではないか」とのっけから言われたら、みなさんは分かったような分からないような気持ちになるのではないでしょうか。が、コンテンポラリーアートの例は、もう少しダイレクトに分かってもらえる材料になるのではないかとも考えました。いずれにせよ、色々なアングルから語らなければいけない。そう思っています。

2008/7/7

電子機器のユーザーインターフェースに関わるにつれ、欧州文化が工業製品の開発において未開拓地のような場所になっていることに気づきました。日用品のマーケティングや自動車デザインなどは、かなり以前から欧州文化の理解に努めてきましたが、比較的新しい領域であるユーザーインターフェースの世界では違うのだと分かったのです。しかし、一度そういう観点で色々な分野を見始めると、既によく分かっているだろうと思っていた分野でも、欧州文化への理解が不足していることが目につきはじめます。しかも、欧州文化を専門とするアカデミズムにおいてさえ、今のリアリティのある欧州を把握しているとは言い切れないと思ったのです。大学時代にフランス文学科にいた人間としては、かなりショックでした。

かつて文化事業を手がけた宮川氏が「文化を事業にしようとしてお金を取ろうとすると人は来ない。かといって無料にすると、人が来すぎて対応しきれない」と語ってくれたことがあります。宮川氏のトスカーナの文化センターはおよそ10年くらいで閉めたのです。 文化がビジネスとして如何に成立しにくいかを傍で見ていたぼくは、独立してからは文化にはあまり近づかないようにしてきました。魅力あればあるほど、足元を固めておかないといけません。いわば文化マターはぼくの内に封印してありました。しかし、「文化理解」というテーマがビジネスとして成立するのであれば、封印を解くべきだと考えました。

経営学やマーケティングの観点から「異文化理解」「異文化コミュニケーション」というテーマが、特に米国の多国籍企業のなかで第二次世界大戦後に注目されてきました。つまり国際人事面だけではなく、商品の市場適合性という面でも参照されていたわけです。スウェーデンのイケアに関する本を読むと、イケアは米国市場へ参入した際、それまで世界均一で生産してきたベッドやテーブルではサイズが小さすぎ、また欧州で売れる洋服ダンスは小部屋をそのままクローゼット替わりに使う米国では不人気だったとあります。大量に均一製品を作るからこそコストを抑えられるという条件あるいはポリシーとローカライズの狭間で苦しんだようです。結果、基本は世界均一でありながらも、少数のアイテムはその国独自の製品を開発し、米国向けの大きなふわふわしたソファを、逆に欧州にももっていったらヒットしたというエピソードも紹介されています。

どこまでユニバーサルが通用し、どこからローカライズが求められるか、この判断をするための文化の見方がどの領域でも求められているとの一例です。

2008/7/8

どこまでがユニバーサルで、どこからローカライズすべきか、その判断が大事だと書きました。厳密に言えば、これは国だけではなく、社会階層や世代にもよります。またサブカルチャーやインターネットの浸透は、共通基盤の拡大に貢献しています。ですから、何となく同じになってきたのではないかと思うところに落とし穴があります。表面的に同じように見えるからこそ、その根底にある違いに足元をすくわれてしまいます。「2008 ミラノサローネ」で指摘したのは、この点です。いずれにせよ欧州文化も変容するのですが、その変容のスピードが日本と比較すると遅い。常に新しいインプットを咀嚼するのにより時間をかけるのです。

随分と遠回りした説明になってしまいましたが、ぼくが色々なビジネス経験をしてきた結果、その経験を統合して相手にすべきは、欧州文化そのものになったということです。今までやってきたビジネスを現場で継続しながら、欧州文化への見方を自覚的に、普遍的な評価ができるものに発展させていく。大げさな言葉を使えば、これがぼく自身の使命ではないかと考えはじめたのです。2005年あたりからでしょうか。欧州に住み始めて15年経過した頃です。大学時代からふくめれば、欧州文化になんらかの形で継続的に接してきて25年以上経っています。

欧州文化の研究者は江戸の時代からカウントすれば、それこそ星の数ほどいらっしゃる。多くの成果を積み上げてきました。だからぼくが欧州文化を真っ向から相手にするなんて恐れ多いとも思います。何かを何処かで言えば、地雷のごとく、「いや、あなたはそのあたりの事情を正確にご存知ない」と言われる可能性がとても高い分野なのです。「それはギリシャ哲学の、こういう思想に基づいているのです」「キリスト教の教会発展史を知らないと分からないでしょうね」と言われるかもしれません。

しかし、それを恐れていては、日本の製品はいつまでたっても欧州市場でまともに扱われない一方、日本では気位ばかり高くなっていく。そのようなサイクルをどうにかして正常な向きに変えていくには、欧州文化の見方を多くの方に語りかけていくしかない。そのプロセスで、ぼくの見方に独りよがりの部分があれば、それを随時正していく。こういう活動を続けていくことが、文化を孤立したものではなく、経済活動と不可分なものとして位置づけることを促進し、その結果、経済活動自身がより長期的な視点で安定したストラクチャーを獲得する。そういう考えのもとで、ぼくは「2008 ミラノサローネ」を2ヵ月半に渡って書いたのでした。

2008/7/9

1990年周辺に東欧の大きな変革があり、そこで今まで隠れていた宗教や文化が前面に押し出されてきたという流れがあります。東の共産主義と西の資本主義の冷戦時代には、それらの要素が意図的になるべく目に付かないようにされていたのですが、ベルリンの壁が崩れることで、一斉に宗教や文化が後ろから押し出されてきたのです。これが文化を経済問題として考えなくてはいけない背景の一つになっています。そして一方、工業製品の次元についていうなら、これまでは製品の外観に機能が記され、例えばTVであれば、ON/OFFとチャンネルが分かれば事足りました。しかし、PCは違います。画面の中に入っていかないと、どういう機能があるのか分かりません。ケータイもそうです。つまり、製品の「抽象性」が高まっています。すると、そこの市場の人たちの頭の動きや常識をよく知らないと製品が機能しません。したがって、文化理解が必要になってきます。

とても大きな時代潮流においても、より小さな消費者が直接使用する製品においても、そのどちらでも文化の重要性が高まっています。だからこそ、そういうトレンドのなかで、家具やデザイン商品への見方がどう変わっていくかに気配りすることが大切です。と、ここまできたところで、この「僕自身の歴史を話します」を書こうと思いたった動機にやっと戻ります。

「たまたま、ビトッシのセラミック製品が欧州と日本の市場で評価の仕方が違うことを、東京にいるスタッフと話し合いました。欧州では「味がある」と見られる ことが、日本では「品質での問題」として受けられることがありますが、そのギャップを如何に解決していくかがテーマです」

実際にモノを見てみましょう。01は若干の割れ目が見える。02は表面に粘土が出ている。03は釉薬のついている部分とついていない部分が一定ではない。検品の段階で、こういう指摘が東京から出ました。これをどう判断すれば良いか。それについて話し合いました。

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2008/7/10

一般的な話しからすると、このビトッシの皿でいう品質は利用品質でも機能品質でもありません。オブジェとして飾るか、その皿の上に果物を置くかです。そういった目的の製品で語られる品質は、機能製品の場合より難しい判断を迫られます。メトロクス東京の片岡氏は、こう語ります。「もし、イタリアに出かけ、その土地の景色や文化に感動し、その場でこの皿をみつけて買ったとします。そうした場合であれば、皿の裏がどうであろうと、あまり気にしないと思います。イタリアでは、製品の機能に問題ないのであれば、裏は関知せずという文化そのものを受け入れて買ったのだと思います。ストーリーがそこで完成しているんです」 「しかし、東京のデザインショップできれいに並べてあった場合、裏も気になるのですね。そこは、日本の文化が優先されるのです。例えば、我々が個人輸入で直接買い付けて、その入手までのストーリーを語って売るというのなら、きれいなディスプレイの上にあってもいいでしょう」

もうひとつの例は、トリです。トリを支える棒を入れる穴をあけるのに、その穴の部分の粘土が穴の内側にひっかからず、そのまま下に落ちたものがありました。それがかけらとして音がします。カラカラと。片岡氏は「これはまったくの飾りなので、飾っている限り、その欠片は何の問題もありません。しかし、わざわざ振る人もいないのですが、置くときに瞬間的にその音がすることが、何か品質的に問題なのではないかという不安感を呼ぶのはまずいのです」と語ります。「これらの製品が工業製品だと思って買う人はいません。手作りだとは知っています。それでも、デザインショップで売る場合は、そのあたりの気配りが求められるのですね」とも説明します。

「また、そういうイタリアのゆるやかな文化を話しながら 、目の前のお客様に買っていただく場合は安心なのですが、オンラインで顔を合わせないでお客様に売る場合、特に神経を使います。不具合品と勘違いされるお客様がいないとも限りませんから」と聞いたとき、ぼくは二つのポイントがありそうだと思いました。ひとつは、商品の成り立ちから売る場所までを含めたストーリーを如何に作っておくか。もうひとつは、ビトッシ側で日本の市場の要求にマッチするように、「商品の仕分け」を更に徹底してもらうこと。つまり、ビトッシは、このトリのかけらの音を「幸運を呼ぶ音」として売ればよいだろうと冗談交じりで語ったのですが、日本でこれをジョークとして受け入れる土壌があるかどうか、その判断に片岡氏は迷うのでした。

2008/7/11

ビトッシでは同じ製品を世界中の国に出荷しています。これまで紹介したような品質内容に関して、「どうにかできないか」と相談してくるのは日本だけだと言います。だからビトッシは全てを日本市場の声に合わせるわけにもいきませんが、かといって全く無視するわけにもいきません。少なくても、日本からの声を「品質改善要望」とは受け取らず、ビトッシはこれをいわば「ローカライゼーション要望」として受け止めるのです。彼らは彼らの文化に沿って作り、そして大半の市場はそれをそのまま受けてくれるわけですから、そのようなロジックは当然でしょう。すると、どこでローカライゼーションの線引きをするかが焦点になります。

一方、商品を売るというのは、そのモノだけを売るのではなく、それを取り囲む文化全体を知ってもらい楽しんでもらうことだ、という考え方の妥当性を聞いてきます。 もちろん、そのことはメトロクス東京の片岡氏もよく分かっており、だからこそストーリーの作り方に頭を捻るのです。例えば、デザインショップの棚に商品が陳列してあるのではなく、イタリアンレストランの中においてあり、それをそのまま売るのであれば、異文化の文脈を違いとして受け入れるでしょうか。仮にそれで問題が解決されるなら、どうしてデザインショップでもオンラインでも、その文化をもっと伝えないのかという反省がでてきます。

輸入品というのは、運送費やその他もろもろのコストが積み上がり、どうしても生産国市場での売価より高くなります。生産国での価格帯より高い価格帯となり、そこで品質への期待も上昇する運命にあります。ですから生産国における文化を伝えるといっても、売るシーンが違ってくることも考慮に入れないといけません。しかし、それでもコアの部分は同じです。楕円も円も同じ円とみるか、それは形状が違うほかのものとみるか、そういうのがコアです。イタリア文化の傾向からすれば、前者を採用する人も少なくないと言えるでしょう。これをどうやって具体的に伝えていけばよいのか、それはそれでまた頭痛の種です。大切なのは、どれを取るか、その立場あるいは考え方をはっきりさせていくことだと思います。そこを曖昧にし続けると、全てのメッセージが伝わりにくい。そうぼくは個人的に考えています。

そのうえで、この文化の違いを伝えていくことを諦めてはいけないと思っています。「仕方がない」「面倒だ」と諦めるのは、退歩にしかなりません。色々な価値観や視点が存在することが、社会的な豊かさに繋がっていきます。そして、新たな変化への契機を作るでしょう。

2008/7/14

ぼく自身の歴史を話すといいながら、品質のことまで言及してしまいました。でも陶器の皿の品質ひとつとって、その判断には色々な視点や目線が要求されます。日本での視点とイタリアの視点、価格が規定する目線、これらを取り囲む文化的トレンドを把握する視点などです。前述したように、これらのポイントを固定的あるいは静的に捉えてはいけません。いつも動的に考えないといけません。ぼくは、今まで話してきたように、複数の文化が関わる、さまざまな分野でさまざまなプロジェクトに関わってきました。あるものは上手くいき、あるものは失敗する。それらの経験からいえることは、陶器皿の品質の問題を表層的にみるべきではなく、そこにある多数の「象徴」をみないといけないということです。一台一億円のスーパーカーの品質をみるのが難しいのと同様、一皿数千円の陶器の品質を判断するのも簡単ではありません。

1990年の後半以降から、ぼく自身の歴史の説明に少々具体的情報が欠けています。本当は、もう少し詳しくお話もしたいのですが、やはり10年以上経過していないプロジェクトは「時効」になっていないと感じるので、 やや観念的な文章が多くなってしまいました。それでもぼくの活動が、歴史とトレンド最前線、ハイテクとローテク、欧州文化、これらがキーワードになっていることはお分かりいただけたのではないかと思います。全体性の把握という学生時代からの目標に沿っているのは確かです。しかし、これは「何ができたから完成」ということではありません。常にあくまでも行動目標です。「新しいコンセプトを作ることに貢献する」がぼくの実質的な目標です。そのために生きる土地として欧州を選択したのでした。

が、もし宮川氏が日本にいたらどうだったのだろうかとも思います。手紙を書いて、彼にところに押しかけていただろうか。 やはり、そうはならなかったと思います。たぶん、宮川氏によって(あるいは通して)表現されている、イタリアという土地とその人間関係も含めてすべてが、ぼくが惹かれた要因だったのだろうと考えるからです。つまり、宮川氏によって、イタリア文化のポジティブな面を最初に見せてもらったことが、ぼくが17年間、さほどバランスを崩さすにやってこられた理由ではないかと思います。また、日本で7年間サラリーマンをやっていたため、イタリアのネガティブな面を比較的客観的に見れたこともあります。

ひとつ言える確かなことは、「どこの国や場所に住んだからといって、全ての人生の問題が解決するということはあり得ない」ということです。生きるというのは、全てを丸ごと飲み込むこむわけですから、その飲み込むこと自身に価値を見出さないといけません。そこで、この「僕自身の歴史を語ります」シリーズの最後は次のように締めくくります。英国の作家モームの『人間の絆』という長編小説のなかで、詩人のクロンショーがパリのカフェで語るこんな台詞があります。

「わしは自分の詩を過大評価などしていないのでね。人生とはそれを生きるのが大切で、それについて書くものではない。人生が提供するさまざまな経験を探し求め、その一瞬一瞬から得られる感情をつかみとるーそれがわしの目標だ。創作とは人生から喜びを吸収することではなく、人生に喜びを与えるための優雅がたしなみくらいに考えているのだ。自分の作品が後世に残るかどうかなど何の関心もないのだ」(岩波文庫 行方昭夫訳)




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