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スペインの無敵艦隊を破ったイギリスの艦船は、スペインから買った鉄で装備していた。

読書会ノート

ブローデル『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀 日常性の構造』第5章 技術の伝播ー鉄ー貧乏な親類

まず、歴史家は大量生産・大規模通商を前面に据える習慣がある、という点を肝に銘じよう。香辛料ではなく砂糖あるいは小麦、普段使っていないにも関わらず日常生活において基礎をなしていたのは(希少な金属ではなく)鉄であった・・・こうみる傾向があるのだ。

(本書が刊行された)1970年代、ヨーロッパの鋼鉄生産量は7億2千万トンであるが、1840年、第一次産業革命が進行していた時代において、280万トン(ほぼ半分が英国)でしかなかった。1800年前半といえば鉄の蒸気機関車の時代の幕開けであるが、その当時、実は鉄の位置はつつましいものであったのだ。

実際、1800年代初頭の経済文明は鉄の支配ではなく、はるかに織物の支配下にあった。

それにも拘わらず、ポーランドの経済学者ステファン・クロヴスキーは「経済生活の脈搏のすべては冶金工業という特に恵まれた場合をつうじて把握でき、それがすべてを要約し、すべてを告知する」(1963年)とまで主張した。

さて鉄の歴史でみるべきは、中国がかなり早い時期、13世紀までに製鉄術を圧倒的に発展させたが、その後にどういう理由か停滞。他方、ヨーロッパで大きな前進が見られたのは18世紀以降である。

ヨーロッパの冶金術はまず鉄鉱石の採れる森林地帯でうまれ、11-12世紀以降、川辺の製鉄所が誕生していく。水流を利用して、巨大なふいご(送風機)、鉱石を砕く杵(きね)、鉄を打つハンマーが動かされた。

14世紀、銑鉄が「発見」される。高炉で溶融が可能になったのである。

その後、鉄工所は高炉から分離し、下流へ移動していく。製鉄と加工を一緒に行うには、多量の燃料が必要で同一箇所で行うのは厳しくなっていったのである。

鉄の適用範囲は次のようなものだった。鎧兜、剣、槍、銃、大砲、砲丸といった戦争で使われるもの。ただし一時的需要であったので、台所用品、鍋、鉄柵、薪置台、暖炉の背板が恒常的な利用範囲となっていた。

関連する作業員の数としては15世紀末のブレシアのデータがある。武器製造の作業場が200、それぞれに3-4人。加えて、炉、鉄工所、水車、鉱石をとる土工・鉱夫、輸送の車夫などをあわせて6万人あたりであったと想像される。

いずれにせよ、ヨーロッパ各地に鉄関連の生産が分散していたが、それなりに集中していた産地が、ライン川(スイス、ドイツ、オランダで北海)、バルト海、ムーズ河(フランス北東からベルギー経由オランダで北海)、ガスコーニュ湾(スペイン西部)、ウラル地方であった。すなわち、河川水路あるいは海上航路の便の良いところだ。

スペインのビスケー湾周辺に山岳・森・鉱脈豊富に存在していたために、大規模な冶金業が発達し、18世紀中ごろまでイギリスに鉄を売っていた。即ち、16世紀末、イギリスはスペイン艦隊と戦うにあたり、艦船にスペインの鉄で装備していたのである。

冒頭の写真は、15世紀の旅籠の様子。食卓につく人たちは自分の武具を背後の壁にかけておいた。イタリアのアオスタにあるイソーニュ城の壁画。

<わかったこと>

歴史家に限らず、我々は大量に動くもの、消費されるものの発端を知ることに情熱を燃やしやすい。「今、こんなに使っているもののもとを辿ると、こういう事実がある」とトレースすることに価値を見いだし、その流れを拡大しておさえることに固執する。

鉄の場合、マイナーな素材であったが、それを大きく喧伝する人たちが確かにいた。そのエピソードを拾うことは重要だが、マテリアル全体として「鉄ではなく木材の時代」との視点を忘れてはいけない。また、ニッチが長く続いたネタも必ず視野に入れておくことだ。


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