トッツィー観た。

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 Toosie 1982

 主演のダスティン・ホフマンの演技がすごくて納得のアカデミー主演男優賞だ、と思ったけど受賞してないじゃん。
 もし仮に受賞したとして、それは主演男優賞なのか主演女優賞なのかもはやよくわからないし、そんなことはどうでもいいのだ。
 主人公は売れない役者で、女装して昼ドラのオーディションに行ったら受かってしまって人気ものになってしまう。
 女装の演技が素晴らしく、その時点でダスティン・ホフマンすげぇって感動してしまう。
 そして素晴らしいのは、映画の展開と描き方である。
 主人公は女装に目覚めるとか、なんとか問題の性自認の話にはならない。共演者からはレズビアンだと思われてしまうし、友人(恋人?)にはゲイだと思われてしまうし、男性二人に言い寄られるし、そういうセンシティブな話題を扱っているのに、あくまでコメディ映画で、シリアスな映画ではない。そこがよい。それでよい。本当は、そういう問題を大きく掲げる必要なんかないのだ。しかし昨今はそういう声が強い。その人の生き様なんだから好きに生きたらええやんと思ってしまうし、他人の生き様に他人が口をだすなよと思ってしまう。しかし、他人に口を出さずにはいられないノータリンがいてそれで傷つき虐げられている人たちがいるのも事実なのだ。だから声を挙げるのはわかる。だからそんな声を挙げなくても誰もがなにげなしに生活できる世の中であるべきなのだ。21世紀にもなってそんな事もできない人類の哀れ。
 それと同時に、そういう問題に声を挙げることが逆に苦しい人もいる。声を挙げることで、自分は特別なんだと自ら主張しているようで、そうじゃなくて平穏に暮らしたいだけなのに苦しむ。他人が声を挙げたために自分が苦しむこともある。そっとしておいてくれという人もいる。それまで何も思わなかったのに、自分がそういうふうに(他人に勝手に)分類されてしまうことが怖いだろう。当事者じゃない人が声を挙げるのもまた複雑な感情を生む。あいつらは俺をかわいそうなやつだとみなしている。そんな目で俺を見るな。と思う人に対して、そうじゃないよ多様性を認めるべきだし誰もが生きやすい世の中に云々。本当にそうだろうか。しかも当事者や関心がある人の感情の話ではなく、社会制度として変えようという機運の話で盛り上がる場合もある。
 世の中は不平等で理不尽に出来ているからみんなの願いは同時にはかなわない。残念ながら多数派の社会では多数派が勝つ。是か非かではない。

 その点この映画は、さわやかで全編コメディタッチで仲直りして終わる。
 フィクションじゃなくてこれが現実ならいい。

 センシティブな話題を重たく扱わないということは軽く見られていることの裏返しでもある。80年代の映画だからとか、そういう問題もある。
 あるがままに生きているあなたに救われた、みたいなセリフがあって、女装して偽っている主人公はあるがままになど生きていないので一人で苦しんでいる。自己主張する女性かっこいい素晴らしいみたいなのがこの映画のテーマではあるのだろう。そういう古臭さのなかに、僕はさわやかさを見ていい映画だと思った。

 男優賞か女優賞かわからないと書いたけど、いまだに男だとか女だとかで区別しているのだ。アカデミー賞は永久にそういった古い価値観でやっていてください。21世紀にもなって。ダサい。
 俺の知ったことではないけど。

 終

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