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ムーン・パレスを読んだ。

 Moon Palace(1989) Paul Auster

 僕もこんな人生送りたい。

 ポール・オースターはもっと幻想的というか幻術使いみたいな感じだと思っていた。現実を生きているんだけど、説明の出来ない不思議なことが起こる。しかし登場人物たちはすんなりそれを現実と受け止めている。マジック・リアリズムとかいうやつだ、たぶん。違うか。現代文学はムツカシイ。何ていうか知らないけど、そういう小説を書く人を好んで読んでいる気がする。安部公房の『』を読んだときにそう思った。

 なのに、今作はそういう魔法はなくて、どっちかというとリアリズム小説だった。しかし物語的すぎるからリアリティはない。いわば『ノルウェイの森』のような作品だった。『ノルウェイの森』は初心者には勧めにくいけど、この『ムーン・パレス』は非常に勧めやすい。はっきりいってめちゃくちゃおもしろい。

 主人公はどこに向かっていくんだろう、とひたすら気がかりで、読み進めてしまう。唯一の肉親だった伯父が死んで、俺はあとは野垂れ死ぬのみだと彷徨を続ける。そしてそれからどうする、それからどうなるって、彼の生き様をどんどん見たくなる。

 そしてやがて、自らの秘密あるいは謎に出くわすことになる。それは偶然だとか物語を展開させるためのご都合主義だとか、そんなことは気にならない。どんどん読む。アメリカという大地を移動しながら、自らの矮小さを感じる。人類は月に行ったのだ。月から見たらグレートソルトレイク砂漠はちっぽけで、ニューヨークだってわずかな点にもすぎない。その中で人々の感情があって出会いがあって別れがあって諍いがあって、愛がある。そんな小さい空間なのに一人の人間を見つけられなくて、思いが通じなくて、途方に暮れる。でもその一人は偶然すれ違った誰かかもしれなくて、運命に翻弄されているようで苦しみも感じる。月に行ったのに、ちっぽけな世界と知ってなお、そんな営みを人類は続ける。

 たしかにこの物語には悲しみとか孤独とか絆とかそういったものは見い出せるだろう。けど、僕は電車の中から流れ去る外の景色をずっと観ている感覚だった。共感とか投影とかそういう感覚がまったくないわけではなく、自分と重ね合わせる部分があることに気づきながらも、あくまで観測者で、物語を観ている立場で、望遠鏡で月の宮殿を観ている。大きいようで、地球から観たらかなり小さい宮殿は主人公の精神のメタファーで、宮殿に閉じこもって出る方法を模索しようにもその方法がわからなくて、そのくせにいきなり外に放り出されたら困ってしまう。どうすればいいかわからなくてもどうにかしなければならない。
 訳者あとがきにも書いてあったけど、そういう月がどうとかそういう考察は必要ない。ムーン・パレスもただの中華料理屋。景色を眺めている僕はそれを純粋に楽しめている。月の宮殿で起こっていることは、僕の心のなかではないので、僕が傷ついたり感傷にふける必要はない。愛の言葉が届かなくても。彼女の心は宮殿にはないのだ。そうやってまた、タイトルに言葉を引っ張られて感想を書いているのは作者の思うツボなのかも知れない。ポール・オースターに限った話じゃなくて、あらゆる作者という概念に対してそう思う。全く何も考えないというのは難しくて、意識していなくてもどこかでそういった何らかのモチーフが思考に影響を及ぼしているはずだと、僕は信じたい。信じた瞬間、僕はもう操られているのだろうが。もちろんそれでかまわない。それが小説の魅力でもあるのだから。だからまた小説を読むのである。

 いつかニューヨークにもユタ州にも行きたいと思った。ポール・オースターと出会わなければそういうことも思わなかった。そんな世界があって思いを巡らすこともなかった。どうもありがとう。そして柴田元幸氏の素晴らしい日本語訳。また、違う作品でお会いしましょう。素晴らしい時間でした。

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