一年の始まりに
読んだ。今年も読んだ。
今年はボリス・ヴィアン、『心臓抜き』
過去を持たず、空虚な存在として生まれた精神科医、ジャックモール。
彼はクレマンチーヌの出産を助ける。自らが産んだ三つ子を異常なまでに愛するクレマンチーヌ。でもこの世界には善も悪もないように見える。子供たちはそんな母親を嫌いも憎みもしない。空を飛ぶだけ。善意や悪意はあるかもしれないけど、去った夫アンジェルも、川に捨てられたものを歯で拾い上げ、引き換えに金と恥を手に入れるラ・グロイールも、どこか超然とした存在で、奇妙だ。村の老人市で老人が売られても、ジャックモールは不快感を覚えるが、村の人達はそれが普通で、空虚なジャックモールの感じ方と、どっちが普通だろうか。
そしてこの話は、夫がアンジェルで、子供たちが空を飛んで、幻想的な世界あるいは天国の話のように思えるが、人の心の話だったり、感受性の話だったりするのかもしれない。子供たちを心配しすぎるあまり狂気の行動に出る母親も、空を飛べると信じる子供たちも、空虚だからそれを受け入れるジャックモールも。そんな精神世界を描いているのかもしれない。そんなことはわからない。じゅうしち月やろくはち月がどういう意味なのか判然としないし、フランス語の原文ではどうなっていてどういう理由でそう訳しているのかわかればもっとよくわかるのかもしれない。あるいはもっとわからなくなるのかもしれない。そうやって心の隙間に入り込んで考えさせるのが文学の役目で、我々の読書はジャックモールにとっての精神分析なのだろうか。
こうしてハヤカワepi文庫を私達は手に取るのです。
らしいので、一年の始まりはハヤカワepi文庫を読むのだ。そうやって新年は始まる。僕の場合は。
去年は、オルハン・パムク『私の名は赤』だった。
オルハン・パムクというのはトルコ人初のノーベル賞受賞者(もちろん文学賞)らしい。トルコ文学ってなんだよってなるけどそういう出会いもepi文庫。オスマントルコの話。
オスマントルコのことなんてなんにも知らない我々はこの世界に引き込まれていく。どこまでが史実に基づいているのか、あるいは全部フィクションなのか、地名すらほとんど知らない僕には判断がつかない。史実に基づいているなら、丁寧に調べられて書かれているし、フィクションなら、想像力の凄さに圧倒され緻密に世界観が作り上げられていると驚嘆しかない。しかも、細密画師の話。細密画師というのが実在したのかわからない。そんな感覚で読み進めていく。そこで起きた殺人事件の犯人を捜すミステリ的な側面がストーリーにあり、そういう楽しみもある。そしてこの小説の最大の特徴は、各章ごとに語り手が違うのだけど、それが、人間じゃなく木や金貨だったり、死や赤といった概念だったりして、不思議で面白い。この時代のこの世界なら、私の名は赤と、赤という概念が語りだしても不思議に思えない。そう語りかけてくるように感じることもあるだろう。しかもトルコだ。東西の文化の交差点。それが物語の主題になっていくんだけど、絶えず新しいものが入ってくるだろう土地なら、いろんな考え、価値観、人間が存在しているのだ。島国に暮らす日本人にはない感覚を持っていることだろう。日本の場合は南蛮人が来たりペリーが来たりして急によその文明に触れるけど、シルクロードでは絶えずやってきてもおかしくないのだ。そう思った。遠近法が入ってきて、遠くにいるからと小さく描くのは神に対する冒涜だという考え方は斬新で、そんなことを考えたことはなくて、この本を読まなければ今後も考えることはなかったのだろう。
そうやって新たな感覚に触れることを忘れずにいたい。
『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』
もちろん自殺した五人姉妹の話なんだけど、語り手は覗いているぼくら。グレート・ギャツビースタイル。
彼女たちは少女のままで死んでしまって、永遠に少女のままなんだ。大人になったぼくらが回想しているけど、そこから先の彼女たちはいないのだ。ノルウェイの森みたいに。主人公は過去を回想しているけれど、過去の人は過去のままなのだ。僕だってそうだろう? あいつだって、あの人だって、小学校の先生だって、あのままなのだ。美しいままで留めておきたいのだと人々は思うのだろうけど、自ら留めてしまった彼女たち。そういう願望は誰にでもあると思うけど、こうして今ここにいる僕たちはそれを果たせなかった側の人間なのだ。彼女たちはきっと僕たちを笑っているのだ。反面、彼女たちを抑圧した両親から救えなかった無力感に苛まれる。10代の自分を救ってやりたくても誰も救えなかったし、誰かを救うこともできない。『いまを生きる』という映画を観たときと同じことを思ったよね。15の夏は一回しかないというのにどうして大人たちはわかってくれなかったんだろう。そんな大人になりたくはないよね。
『君のためなら千回でも』
カーレド・ホッセイニのデビュー作。聞き慣れない名前だけど、彼はアフガニスタン出身。アフガニスタンのことをいくつ知っているだろうか。アメリカが空爆したところで、米ソ代理戦争の舞台で、ランボーが暴れていたところ。首都はカブールで、タリバンによるバーミヤン大仏の爆破は人類の行いでもトップ10にはいるそれはあかんやつだと思う。その程度だ。アフガニスタンに対して知っていることは。結構知ってるな、と思う反面、その程度なのだと思い知らされる。
アフガニスタンの小説を読むと、アフガニスタンの人々はどんな生活をしていて、どんな文化を持っていて、どんな時代背景だったかがわかる。主人公は貴族の子供で、召使いとの絆を描く話だ。アフガニスタンからアメリカに亡命した作者だから描ける世界で、召使いに対する裏切りは祖国を捨てる行為と重ね合わされて、平穏に暮らしている僕たちにはわからない感情だと思う。けれど、国も文化も違えど、人間が持つ感情は人間の感情で、共感できてしまう。悲しいと感じることは違う国でも悲しいと感じることができる。価値観は違って偶像崇拝はだめだとしても、仏教は仏像がいっぱいあって時々キモいと感じるけど、長い歴史を刻んできたものをなくすのは悲しいことだと思うよ。過去があるから今があるのであって、取り返しのつかないことをしてしまったと嘆いても後の祭りで、生き返らないあの人のためにどうしたら償えるだろうと毎日を生きても、もう手遅れなのである。僕は祈ることしかできない。それで救われた気になっているのは自分の心だとしても。
正直な話、上巻は少し退屈で、アフガニスタンが未知の国だから興味深いけど、未知の国だからのめり込みにくいというのもあるのかもしれない。でも、下巻は一気に読める。気になって仕方ない。祈りながら読む。原題の『THE KITE RUNNNER』もいいけど、邦題の『君のためなら千回でも』も個人的には嫌いじゃない。たぶん日本人にはこういうタイトルのほうがウケる。でもタイトルから受ける印象は違うよね。難しいよね。出版社も金にならないと話にならないし。ともかく、全然知らない国のことが書かれている小説は興味深いですよ。
年のはじめに読んだのはこのあたりで、まだ4年じゃんと気づいた。これからも続いていくであろうけれど。他にも時計じかけのオレンジや1984年といった有名な作品もepi文庫から出ているのでやはり愛すべき文庫であることは間違いないのだから。時計じかけのオレンジは数年前に読んだけど改めてまた読もうかな。1984年は2回目めっちゃわかったもの。来年は犬のやつ読もうかな。
こうして一年が始まるのです。一年の始まりはハヤカワepi文庫。
ありがとう。今年もよろしく。
もっと本が読みたい。