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『話の終わり』の終わり

話の終わり THE END OF THE STORY
リディア・デイヴィス/岸本佐知子 訳 (白水Uブックス)

 終わらない話の終わりの話。リディア・デイヴィス神も岸本佐知子さんも、歳下の恋人がいる(いた)んだろうなと思った。そうだったら素敵だ。

 リディア・デイヴィスという生ける神は、超短編で有名(?)なので本作が唯一の長編である。『暗夜行路』が唯一の長編であとはほぼ短編ばかり書いていた志賀直哉みたいだ。リディア・デイヴィスの場合は短すぎて1行で終わって、はたしてこれは小説なのかという作品もあるので方向性は違うが……。どちらにも言えることだけれど、短編を書くというのは、それは言葉を削ぎ落とした結果なのではないか? 不要なものは排除して書くべき言葉だけが書かれている世界。
 でも今回は、終わらない話。永久に話が終わらなくてかまわないので、さまよい続けていたいと思ってしまう。それだけ忘れられない存在だったのだろう。終わった話だと思う反面、終わってほしくないと人は思うもので、筆を置いて終わってしまったらすべてがフィクションになってしまう気がしてしまう。もう会えないとわかっていてももう一度あの人に会いたい。
 だから、主人公は過去を思い出して小説を書いている。その小説の中の話なのか、思い出しているけれど細部がぼやけた記憶なのか区別することが出来ない。実際にどうだったかなんてもはや誰にもわからない。だからここで話を終わりにすべきなのかもわからない。読者の中でこうやってこの小説に対する思いが巡る以上、『話の終わり』の終わりはないのかもしれない。

 正直に言って、この小説がどんな小説だったかを説明することは個人的には難しい。話の内容が頭に入っていない。大きなストーリーというものは存在しない。個々のエピソードはあるのでそれを断片的に思い出すことはできるけれど、それだけ。僕がそう思うのは、きっと、「彼」のことをひたすら「彼」と書いているからだろう。三人称の代名詞だから、固有名詞の具体的な人物を想像できずにいる。「彼」が小説の中の人物なのか、実際の過去のシーンなのか、主人公が思い出している回想の過去のシーンなのか、区別がつかない。そんな曖昧さを描くためにわざと「彼」と書き続けていたのかもしれない。読者にそう思わせるために。そして同時に、作者自身がそう思いたいから。作中で書いている小説に言及しているシーンにその答えに近い記述がある。

あることについては一人称で書いたが、もっとも辛い、あるいはもっとも恥ずかしいこと(なのだろう、たぶん)については三人称で書いた。そのうちに、あまりに長く「私」の代わりに「彼女」を使いつづけたせいで、三人称ですら生々しすぎる感じがして、もっと遠い人称がほしいと思うようになった。だが四人称などというものはなかった。

p.247

 自分を客観視するために「彼女」を使ったけれど、これは「彼」を使っていることに照らし合わせて考えることができる。他人行儀だった「彼」の存在はいつの間にか大きくなっている。
 そののち、「彼女」は「無味無臭で無害なものになった」ようだが、それは「彼」に対する願望ではないか。「あの人」である「彼」を「どこかの誰か」にしてしまいたい思いがそうさせるのではないか。
 そうして特定の「彼」でしかありえない「彼」が紡がれていくのに、「彼」はやはり代名詞だからその人物の具体的な顔を僕はイメージできない。そして今この文章を書いていて気づいた。表紙の顔を隠した絵に。そういう意味だったのかと勝手に納得したけれど、それは牽強付会の極みかもしれぬ。わかっている。それでいいんだ。所詮、感想文なんてそんなものだ。一個の読者がその本から得たイメージを言語化しているに過ぎない。明確に言語化できる事もあれば、できないこともあって、言葉をこねくり回して自分の見た風景をなんとか描こうとしている。本当は、「永久にこの話読んでいたい」とかそんなシンプルな言葉のほうが人には刺さるのだろう。

 ところで、僕はそういう小説が、存外、好きだ。物語なんていらない。近所の公園を散歩するだけの話でいい。その間に考えたことを、思索の中をひたすら描き出すだけ。道端で見た何気ないものに思いを巡らすだけ。そんな小説でしか描けないものが。
 そんな僕の思いを見透かすかのように、筋のない話についての言及が27ページに書いてある。そんな描写の箇所に付箋を貼っているのは僕だけかもしれない。筋のない話を意識的に書いているかはともかく、筋のない話に言及しているということは、作者の頭の中にも同じ概念が存在しているということで、僕はそれが嬉しかったのかもしれない。そんな概念の存在を意識したことのない人だって大勢いるはずなのだから。

 ていうか『話の終わり』なのだ。話は終わったのだ。
 また来年の夏、は来年の夏で、今年の夏は今年しかない。年が明けて来年が今年になっても、今年の夏だったものは去年の夏になって、次の夏とは同じ夏ではないだろう。
 同じことだ。
 話の終わりの「話」は「あの話」であって「何らかの話」や「概念としての(あらゆる)話」ではない。原題も「THE END OF THE STORY」と、THEと書いてある。aでもeveryでもない。
 全ての、普遍的な、概念としての「話」の終わりを描く壮大な小説ではないけれど、全ての話の終わりも同じように訪れるのではないか。あるいは同じようになかなか訪れないのではないか。ひとつの恋が終わったことを本書では指しているけれど、恋でなくても仕事でも受験でも創作している物語でも、そう簡単には終わらない。終わりを見極めるのはムズカシイし、どのように終わらせればいいか考える。自分の仕事が終わっても、その後に影響や結果がやってくる。受験が終わっても頭に入れた知識はどこかで活きる。終わりを決められる人もいれば、終わらない人もいる。
 読書中に、読後にそうやって考え続ける。感想文という名の謎の文章を書き続ける。やがて夜が深くなる。
 読書の終わりはどこだろう。

 もうこんな時間だ。

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