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悪魔の手毬唄考

見立てキタ! オレ歓喜!

 以下、横溝正史『悪魔の手毬唄』の感想文のような何かである。
 ※多少のネタバレ注意。作品の内容の感想ではあまりないですが。


登場人物が多すぎる

 勘弁してくれ。
 登場人物が20人を超える作品はぜひとも、巻頭に家系図や主要登場人物一覧をつけてほしい。僕は混乱する。
 ひとは登場人物が多すぎる作品を読むと、登場人物が多すぎる! となる。興奮する。

 例えば、島崎藤村の『家』

 例えば、トルストイの『アンナ・カレーニナ』

 あまりにも長大な作品とか、シリーズ物とかなら登場人物が増えてもしかたないとは思う。連載漫画で、〇〇編が終わって次の✕✕編が始まるとかなら登場人物は当然増える。でもそういう形式じゃなくて、単体の物語なのに登場人物が多すぎるのはやはり疲れるのである。
 もちろん、現実にはその一族の親きょうだい等を並べればそれなりの人数になることはわかる。でもフィクションだぜ。この村の中で起こった事件で、ほぼ全員関係者かもしれないけれど、全員描く必要はない。たとえば、誰それの家の次男が主人公で、長男はほとんど出てこないなら次男という設定は必要なのか? と思う。次作は長男が主人公ですとかならわかる。でも一瞬しか出てこないなら固有名詞を与える必要があるのか疑問に思う。次男というポジションが物語的に重要なら長男が存在してもいいけど、話の本筋に関わらないなら描写する必要はないように思う。
 ひとクラス40人のうち、物語に関わるのは5人ぐらいなのに、同じクラスにいるからと全員の名前を作中に登場させているような感覚だ。主人公的には同じクラスで顔なじみかもしれない。でもそれだけ。実写化しても画面の端に一瞬だけうつるエキストラ。キャラクタの設定を考えてもいいけれど、物語に登場させる必要はあるのだろうか。

 この作品では、岡山県と兵庫県の境にある鬼首村という村で起こった事件を取り扱っている。
 2大勢力の由良家と仁礼家だけでも、誰が誰の娘で、兄で、嫁でと混乱する。どっちの家の人だっけ? という思いに度々陥る。
 もちろんそれだけでなく、亀の湯の人々、別所家の人々、その他も出てくる。しかも、この作品では家の屋号が出てきて整理しないと大変なことになる。由良(枡屋)、仁礼(秤屋)、別所(錠前屋)と。そして庄屋の多々羅家、亀の湯を経営している青池家、隣町の旅館は井筒。多々羅一義(放庵)の5番目の妻、栗林りんが働いているのは町田という神戸の料理屋。列挙するとなんのこっちゃわからない。放庵の妹の子である吉田順吉、その弟良吉、その長男譲治。とかもいる。そんなに本筋とは関わらないとはいえ、150ページぶりぐらいに吉田と出てきても誰だっけ? となる。

 なのでルーズリーフに登場人物をまとめながら読む。エピローグにも新しい固有名詞が出てきて、全部で50人ぐらいはいる。

数字は初登場ページ
ネタバレに配慮しています。

 作者は全員把握しているのだろうか。名前考えるだけでも大変だと思う。

横溝正史が好きすぎる

 正直、本格ミステリとかいう種類の物語のファンではない。たいして読んでいないのにファンとか言うとガチ勢に刺される。あれもこれも読んでて当然みたいな風潮が怖い。僕はアガサ・クリスティもエラリー・クイーンも読んだことない。ジョン・ディクスン・カーにしか興味ない。それに密室殺人とか、物理トリックとか叙述トリックとか、面白いとは思うけどそんなに興奮はしない。

 でも見立てには興奮する。

 ミステリのジャンル(?)で一番好きなのは見立てである。あとは推理をああだこうだ議論するロジックパズル。そして安楽椅子探偵。でも何より見立てである。
 もちろん見立てに意味があってほしい。見立てたのにはこういった理由があって、と犯人なりの筋の通った説明があれば納得できる。でも、いや面白いかなと思って、という動機の方が狂っていてリアルだとも思う。
 現場に留まるというリスクを犯してまで見立てる必要なんかないのに、わざわざ死体(等)を装飾してインパクトのある現場を作る。特定の誰かに対するメッセージならかなり効力があると思う。
 横溝作品では、度々見立てが用いられる。『獄門島』とか『犬神家の一族』とか。
 僕が横溝正史、そして見立てを好きなのは、清涼院流水や舞城王太郎育ちだからだろう。彼らが横溝正史に影響を受けている(たぶん)ため、そのミステリの精神的な師匠である横溝正史を、僕は読まないわけにはいかなかった。
 横溝正史の魅力は、見立てだけはない。ミステリとしての内容も見立てを度々扱うことも魅力の一つだけれど、おそらくあの時代の雰囲気が僕は好きなのだろう。昭和初期から60年代ぐらいまでの。70年代が舞台の作品もあるみたいだけど。

 横溝作品で美女が出てくるとだいたい死体か犯人なんだろうなと思うけれど、今回もそうだった。予想できてしまう。いったいなんの恨みがあるのだ横溝センセ。今作も被害者になりそうな人たち、そしてその動機になりそうな人間関係も予想できてしまうしその通りだった(そういうメタ的な推理はよせ)。そんな事ありそうだよねという田舎の雰囲気、時代の雰囲気がやはりよい。そしていつものことながら金田一耕助が登場しても事件は止まらない。べつに事件を止めるために探偵が存在しているわけじゃないけれど。ていうか静養したいと岡山を訪れて磯川警部にいいところないかと紹介してもらって行くという導入なのに、いきなり昔の事件の話を聞かされる。捜査に来たんじゃないけど、昔の話聞くだけならいいかとわりとノリノリの金田一耕助。静養しに来たんじゃないのか。導入から笑っちゃうよ。だめだこいつ。関わるなよ事件に。そして金田一耕助が到着してから事件は起こる。やっぱり巻き込まれたよ。静養しに来たんじゃないのか。たまには金田一耕助がのんびり過ごすだけの物語もあっていいんじゃないか。

漢字の文庫を探し回る

 ここからが本題? なんだけれど、僕は角川文庫の横溝正史作品を、漢字の表紙の文庫で集めている。タイトルの一文字ないし二文字を、白ないし黒の背景に書いている。最初に手に取った『八つ墓村』が「墓」と書いてある文庫だった。だから全部、漢字のバージョンで集めたい。
 それなのに、角川文庫さんは、復刻デザインで昔のあの独特のイラストの表紙で文庫を発売する。わかる。その方が良いという意見もわかる。でも僕は漢字の方で集め始めてしまったのだ。すべての作品が、イラストになっているなら諦めもつくが、すべてではない。主要ないくつかの作品がそのイラストの形態で再刊行されている。
 僕が『悪魔の手毬唄』を買おうと思って書店に行ったらすでにイラストの方が刊行されていて、漢字の方は店頭には並んでいなかった。まじかよ。そっちで集めているのに……。なので何件も書店を巡る。でも置いていない。古い売れ残りがあればいいと思っても人気作家だからすぐに売れて売れ残りはないのかもしれない。あるいは角川側が書店から回収して新しい方を並べるように仕向けているのかもしれない。僕はどこに行っても漢字の方を探しまわった。静岡の書店も。高山の書店も。仙台の書店も。横浜の書店も。結局仙台のブックオフで見つけた。ブックオフに行っても人気作家だから(かどうかは知らんけど)そもそもあまり横溝は置いていない。やっと読めた。
 角川文庫さんにはぜひとも両方書店に並べるようにしてほしいですね。あるいは、復刻カバーはでかい帯で漢字の表紙に被せるようにするなどしてくれると助かります。

こういうやつ

まとめ

 やっぱり見立てだよな。

 完

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