わたしはきっと。

高校時代のはなし。
入学当初、いちばん最初のお昼の時間になかなかまわりに声をかけられずにいたわたしに「一緒に食べよう」と声をかけて輪の中に入れてくれた女の子がいた。
すごくうれしかったのを今でも鮮明に覚えている。

わたしのクラスは俗に言う進学コースで、部活への入部は任意だった。
それでもバレーボールがしたくて仮入部すると、お昼に声をかけてくれたあの子も仮入部していて、話を聞くとすでに入部を決めていた。
その影響も少なからずあって、わたしはバレーボール部に入部した。

クラスも一緒、部活も一緒で気づけば一緒にいる時間が家族よりも多いかけがえのない友人になった。
話も合うし、笑いのツボも合う最高の友人だ。

ところで、この頃、わたしには悩みがあった。
それは性に関することで周りはもちろん、家族にも言えてないことだったが、それは

"わたしは女性だけど女性的なことを強制されるのが嫌だし、女性はこういうものだと決めつけられるのは我慢ならないから女性として生きていくことが果たしていいことなのだろうか" 

ということ。
つまり、女性であることを理解はしているが納得はしていない状態だったのだ。

この悩みを友人に話すかどうか悩んだこともあった。
でも、なんでもないことで笑い合える友人を失うかもしれないと思うと話せなかった。
それでも、この悩み以外のことはなんでも話せたし、友人もなんでも話してくれていたと思うからそれはそれで満たされていた。

そんなある日、友人に彼氏ができた。
同じクラスの男の子で運動のできる活発な子だった。
わたしもその子とは仲が良かったし数人のグループで一緒に遊ぶこともあったから、素直にうれしかった。

クラスで一緒にいる時、部活で一緒にいる時、帰り道、休日の部活動、たまの休みに遊ぶとき。
わたしが友人と一緒にいる時間は他の誰より長かったはずなのに、彼氏という存在がいることに、今思えば嫉妬していた。
だけど、彼氏とのことをうれしそうに話す友人は幸せそうだったしそれならそれでいいと思えた。

年月が経って、今、改めてこのときのことを思い出したとき、わたしは感じたことがある。

"わたしはきっと、あの時あの友人のことが好きだったのだ"

ということ。

世間にLGBTQという言葉が浸透しはじめてわたし自身も自分の性について見つめ直してみた。
LGBTQについて調べたり、インターネットでいろんな人のいろんな経験談を読んだり。
そうして、わたしは端的に言って「好きになった人が好き」というパンセクシャルに当てはまると思うようになった。
相手の性別も性自認も性的指向もすべて取っ払ってその人自体を見ている。

そして、その人を好きになる。

自分でこう気づいてからあの時のことを思い出して、
「あの時、あの子のこと好きだったんだなあ」
と思うようになった。

このことに気づいたからどうというわけではないが、あの時、自分は恋をしていたんだなあと思うとホクホクした気持ちになる。
残念ながら、あんなに仲が良かった友人とは今は連絡を取っていないが、もしまた会う機会があったらあの時みたいにくだらないことで笑い合えるといいな、と思う。

#LGBTQ  #セクシャルマイノリティー #恋 #思い出

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