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受け入れる態度を変えるということ

 朝晩のひんやりとした空気が日に日に強まり、目に映る景色の中に秋の色がちらほら増え始めましたね。これから自然界は実りの季節を迎えます。大好物のプルーンも旬を迎え、ドライブで紅葉の景色を見に行くのもまた楽しみです。

 この春からたくさんの変化がこの世界に訪れ、私たちの生活も、考え方も大きく変わりました。かんたんに旅行することもできなくなってしまったし、音楽や演劇などのイベントがなくなってしまったり、規模が縮小されてしまったり。

 コロナによるこれらの変化に限らず、私たちは何か楽しみにしていたことがなくなってしまうとガッカリしてしまうものです。子供の頃、遠足の前の日におやつを買いに行って、リュックサックを広げて準備して、お弁当の中身を聞いてワクワクしていたのに、当日の朝の雨音で目を覚まし、泣きそうな気分になることだってありましたよね。

 でも、大人になるにつれ、望んだ通りにならないことや、期待していた結果にならないことのあまりの多さに、私たちは「仕方ない」、「世の中こんなものだ」という諦めのような感情や、そういった出来事への耐性を身に付けることで健やかさを持ったものの見方ができるようになり、安全に社会生活を営むことや、摩擦の少ない人間関係を上手に構築していきます。

 「行いに専念して結果は手放しましょう。」、「結果を期待することから執着が生まれます。だから結果を手放しましょう。」ヨーガの学びの中でよくこんなことを聞きます。そして私自身もこんなふうに言ったことがあるかもしれません。

 ヴェーダーンタの教えの中で師は「行いの結果に期待するな」とは言いません。むしろ、私たちがこの学びを理解することを期待しているからこそヴェーダーンタを伝えてくれているのです。「結果の見方」に少し理解が深まれば、その受け取り方が変わってくると教えてくれます。

 自分がしたことの結果に期待することは何も悪いことではないし、結果を期待しないで何かを成し遂げるのは容易なことではありません。必要なのは、結果をどのような心で受け入れるか。

 インドのお寺に参拝に行くと帰りに「プラサーダ」というものを授かります。お米やナッツだったり、混ぜご飯だったり、甘いお菓子だったりしますが、これらは全て神様への供物です。配られたプラサーダは神様からのお返しなのです。

 そしてインドやヴェーダの文化ではお菓子やナッツに限らず、返ってきたもの、与えられたものは全て神様、イーシュワラからのプラサーダだという考えがあります。(イーシュワラについてはこちらもご覧ください。)

 望んでいなかった結果が返ってきたときに私たちがとる態度は様々です。悔しかったり、悲しみに打ちひしがれて、傷付き、人を信じられなくなったり、「こんなはずじゃなかった」と怒りに震えたり、落胆したり。

 私たちは自分の行い自体を選ぶことは出来ますが、その行いの結果を選ぶことはできません。その結果がどんなものであれ、「これは私のために必要で起こったことなのだ」、「これはイーシュワラからのプラサーダなのだ」と受け取ることができたなら、結果に対して余計な付加価値をつけず、いつでも安心してどっしりと構えていられると思いませんか。

 行いの結果に期待すること、こうなったらいいなという願望を持つことは何も悪いことではありません。いつでもこの「プラサーダ」という言葉を思い出し、行いや願望にイーシュワラとの繋がりを見ることが出来れば、自ずとその行いの質も願望の質も変わってくるということがこのことばに込められているのです。

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