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祈る人

はじめて伊勢神宮に行った時のこと。関西に住む友人と合流する前にひとり外宮の近くの宿に泊まり、翌朝歩いて参拝に行きました。

人影まばらな早朝の境内でしたが、地元の方らしき数人の方とすれ違いました。その足取りから、たぶん毎朝こうしてここに訪れているんだろうなという感じがしました。

奥の方へ歩き進めると、しんと静まり返った別宮のあたりの小道で森に向かって手を合わせる人がいました。私はその時見た光景が今でも忘れられません。


社もなにもないところで、森の奥の方に視線を向け立ったまま、その人は祈っていました。祈る人というのはなんて美しい佇まいをしているんだろうとその時思ったのです。

あの人は何に対して祈っていたのか、それはわかりませんが、名前のついた神への祈りと言うよりは何かことばにすることのできない自然や、大きな存在に対しての祈りのように思いました。

ヨガやアーユルヴェーダの背景にあるヴェーダという膨大な知識のそのまた奥にあるヴェーダーンタ。

ヴェーダの中の最後の部分であるヴェーダンタは最も価値がある重要なことが書かれたパートでウパニシャッドともいわれます。日本語では奥義書などと訳されているためちょっと怪しい感じがするかもしれませんが、”価値が見える人にのみ明かされる”ためこう呼ばれ、”その価値が見えるまでは誰も本当の意味が分からない、まるで秘密のように見える”と教えられました。聖典が聖典を守るためにこのような形で大切に師から弟子へと受け継がれ現在まで残ってきたヴェーダーンタ。

そして私は今、その教えの中に身を置かせていただき学んでいます。どこか非日常の場所に行って学ぶのではなく、毎朝起きて夜寝るまでの日常の行いにその学びを生かしていけるようにと、そのような学びを可能にしてくれている環境に感謝をしながらゆっくりゆっくり学んでいるところです。

伊勢で見たあの人が何に祈っていたのか。それは憶測でしかありませんが、私の中の理解ではことばにすることのできないものへの祈りに感じました。ヴェーダーンタを含むヴェーダの文化の中では、それを「イーシュワラ」という名であらわすことができます。

正しく伝えようとするなら、「イーシュワラ」は「イーシュワラ」として理解する必要があるので、日本語に置き換えることはヴェーダの教えにおいてはあまり勧められることではないと思います。なのでどうしても例え話のような伝え方になってしまうのですが、どこの国にも昔から伝えられてきた神話や信仰があって、その中で自然の中に大いなるものや宇宙観や神を見るということが起こってきました。

そして日本人は特にこの宇宙観を捉えやすく、馴染みやすいのではないかと思います。

日本ではいにしえの頃より森羅万象の中に神を見るという八百万の神の概念があります。これは「イーシュワラ」の理解にとても近いものだとヴェーダーンタを学ぶ中でいつも感じています。

自然界の全てのもの、そして私たちの毎日の全ての出来事を計り知れない力でその秩序を整え、調和を保ってくれているのがイーシュワラ。この世界を緻密に、寸分の狂いなく作り上げてくれているのがイーシュワラ。このイーシュワラの理解があってこそ、私たちの何気ない日常は輝きを増すのです。

森に向かって手を合わせていたあの人の佇まいに美しさを感じたのは、その人にイーシュワラの美しさが溢れていたからなのかなと思います。

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