生まれてきた意味
つい先日のこと、義理の母が亡くなり、お別れをしてきました。
25歳で結婚し、20年間お世話になった義母。最期の時には間に合いませんでしたが、「今までありがとう」の気持ちを伝えてきました。
私は義母に孫の顔を見せてあげられなかったことを申し訳なく思っていたのに、それを直接伝えることは叶わなかった。どうしようもないと分かってはいても、少し悔いています。
義母が最期に望んだことがあったとしたら、それは何だったのか。心残りだったことはあったのか。それとも、全てを受け入れることが出来たのか。
お別れが終わって少し時間が経ってからそんなことを考えていました。
・こうしてあげられなかった
・こうしてもらえなかった
・こうしてしまった
・こうされてしまった
という満たされなかった思いから、人はこの世界にまた戻ってくるのだと
ヴェーダーンタの師は仰っていました。
「私は一体、なぜ生まれてきたのか」
私は幼い頃からそんなことを考えることがよくありました。
ヨガをはじめてアーユルヴェーダ を知り、その奥深さに惹かれ、実践していくうちに、幸せとは、外から得るものではなく、自分自身の中にすである安心・安全に気付き、それを広げていくものなんだと思えるようになりました。
そして、生まれてきた意味を知るためにヴェーダーンタに出会ったのだと思っています。
「私は一体、なぜ生まれてきたのか」
私が私自身を知らない限り、決して満たされることはありません。
そしてそれを知るための価値観が整い、考えが準備された時に起こる識別のことを、nitya anitya vastu viveka (ニッテャ・アニッテャ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ)と言います。
「私自身を知ること」はこれから先ずっと続く学びです。暮らしの中で、この学びを生かして行けますように。
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