見出し画像

「マルコの福音書」恩師神父の想い出

私は無宗教ですが、カトリック系の高校でキリスト教への親近感を覚えました。その高校時代「宗教」の授業ご担当のK神父は、最も敬愛する先生です。ほほからあごまで髭を蓄えた中東地域のベドウィンを彷彿とさせる独特の風貌。それだけで、田舎町から市内の進学校に出てきたばかりの私の好奇心を掻き立てます。めずらしい「宗教」の講義といっても説教臭さは全くなく、朴訥な地方暮らしの若造には、奇抜で進取に富んだものでした。

1年生は聖書の中から「マルコの福音書」を読み、2年生はさまざまな社会問題から哲学的な論点まで語り合う「ディスカッション」、3年生は、更に自由な題材となり、ドキュメンタリー映画、洋楽ロック、野田秀樹の演劇など、芸術を交えて視野を広げて寛いだ時間。クラスと担任は学年ごとに代わりましたが、K先生からは3年間に亘ってたくさん「インスピレーション」を与えてもらい、今更ながら感謝に堪えません。

新約聖書の「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ」と4つの福音書の中で、何故「マルコの福音書」を教材にしたかは、最も古く素朴に書かれているからとおっしゃっていました。授業は、聖書の解説よりはむしろ、ご自身の多彩な感性を織り交ぜた談義が中心で楽しいものです。東京山谷地区での福祉活動の苦心、好きな英語のことわざ、フランス ルルドの泉を訪れた巡礼の体感。さらには、ご自身の甘い初恋・恋愛感まで、赤裸々になさる神父さんはそういないことでしょう。

2年生のディスカッションで、普段うだつのあがらない自分が、思い切って問い掛けたことがあります。クラスに心臓病を患い欠席日数がかさんで留年していた生徒がいました。度々休んだりしつつも、医者を目指して必死に通学していたのですが、ある日努力もむなしく亡くなってしまったのです。
私は「どうして彼のように人一倍志をもって頑張って生きているのに、神様は試練の結末を与えるのですか」と不条理の真理を知りたかったのです。
このときばかりはK先生も私たちの望むような答えはせず、静かに佇み、「神に召された」何か深遠な意味があるとしか表せないようでした。

聖書の奇跡やたとえ話は、浅はかに忘却しつつも、世界史の興味は膨らみ、遠藤周作の「キリスト教の誕生」「イエスの生涯」「沈黙」「深い河」等を読みました。イエス・キリストの出現には、当時のユダヤ教とローマ帝国の政治情勢や時代背景が色濃く影響していると感じます。しかし、なぜこれほどまでに世界の人々に広まったのか(イエスの復活)は、はかり知れない神通力としか思えません。その後、イスラエルを旅してエルサレム・シオンの丘にある最後の晩餐の部屋や、パレスチナ自治区への検問所を抜けてイエス生誕の地ベツレヘムを訪れたのは、大いなる謎に魅かれたからです。

時を経て妻と出会いますが、彼女は東京のカトリック女子高時代に、なんとK神父が来校したことがあり、とても面白い講話を聞けたと言いました。話術に長けた人気の神父さんですから、各地のカトリック校を訪れてたのは不思議ではないが、奇遇な共鳴です。先生はその後渡米されカルフォルニア州にて弱者支援に力を注がれていたそうですが、近年逝去されたことを知り、深く哀悼の意を捧げます。

エルサレム 聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)の壁画より(1997年撮影)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?