見出し画像

溶解する、上下の関係。


-上下関係は、幻だった。


(強い口調で、自分に言い聞かした記事ですw偉そうに話しますが、威張っているわけじゃないですw)


◆そこにある、上下関係

力や能力、年齢や立場が違うと、自然とお互いの関係には「どちらが上か」が考慮されることになる。

このときにいわゆる、上下関係が発生する。
どっちが偉いかということ。

でも、それは全て幻である。

◆不本意な上下関係

上下関係は、本来、お互いの関係をより良くするために存在する。
教える者と教えられる者、人を管理する人される人。
お互いがどんな関係か、イチイチ合意を得る必要なく決められる。これは便利である。

上下関係は、お互いの役割をスムーズに決めるためのツールなのであって、決して主従や支配を構築するためのものではない。

だが、現実には、大なり小なり、主従と支配を形作っている。
これはなんだかオカシイ。
ストレスを解放するためのものが、逆にストレスを発生させるような結果を生んでいる。

◆上下関係の要素

「上下関係」と言うこと自体が勘違いを起こす発端なので、この中に「主従と支配」と「役割」が含まれていることを認識し、はっきり分けなければならない。

私たちが上下関係を必要とする最大の理由は「役割」である。

役を割り振るからこそ、互いの振る舞いに悩むことなく関係を作り、一人一人では得られない結果を得ることができる。

◆上下はある。でも、それだけのこと。

主従と支配を生まないためにはしっかり理解しておかなければならないことがある。

互いに組織構造の位置付けや、単純な能力の差は当然あるが、でも、ただそれだけのことだと。
そこに「他方より優れた人であるか」の判断は介入しない。

「上下」というのは、本来、ただの能力や権限の比較である。
その上下が、無いと言ってるわけではない。
ただの上下で、人としての優劣を決めていいという間違った認識が、結果として、積極的に主従・支配関係が生成される社会の歯車を回すのである。

◆上下と支配の関係

そうは言っても、その能力や権限の差が、主従や支配を形成するのは、必然的であり、合理的な面もあるのでは?

違う。それは数百年レベルの時代錯誤である。


確かに、我々が野生を生きていた頃はそうだったかもしれない。
野生に生きるものは全て、目的は生き残ることである。その目的を果たすためには他者との競争があり、その競争は強さで決まる。
その場合では、生物として目的を果たすことができる強いものが優れているとされるのは納得できる。
そして、強いものが率いる集団に属することは弱いものにとってもステータスと言えよう。

◆現代人の価値判断

さて、現代の人はどうだろうか。

そもそも、生き残ることだけを目的として生きている人などいない。
強いて言えば、人の文化がより成熟すること。それが社会からの要請かもしれない。

とにかく、人は幸か不幸か、目的を分散させ、生きる上の大いなる目的を共有しなくなった。

目的も違えば、それ達成する手段や必要なものはそれぞれ違う。
私の求めている「強さ」とあなたの「強さ」は違うのである。

どの価値観も絶対などはない、何をもって優秀かを決める基準もない。

そうして人は、誰が優れているかなどは判断できなくなったのだ。
昨日までの敗者が、今日の勝者になる可能性など埋もれるほどある。

唯一、人の価値を判断できる方法は、自分の目的や価値観を相手に押し付けることだ。これは実践的には、通常は不可能なことなので、実際には、ただの妄想なのである。


もし、人が社会や文化を捨てて、再びサバイバルすることになったら、ハッキリとした上下関係を目の当たりにすることでしょう。
でも、そんな時代はもう来ません。
私たちは社会と文化を形成した時点でもう決して野生には引き返せない道をすすんだのです。


文化の人である私たちは、もう何の優劣も決定することができない。道に転がる石ころでさえ、自分との優劣を判断することができない。


◆能力の差の発生源

一応、個人の能力の差についても触れておく。

自分が誰かより能力が高かったら、自分は偉いのか?

自分の強い意思と努力の積み重ねと才能が、誰かとの差をつくったのだから、当然偉いだろうと思うのは間違い。

もちろん、能力や経験を誇るのは大いに結構。
努力の賜物である。

でも、そのうちのほとんどが、自分だけでは成り立たないことを肝に命じたい。

私ナンかは、環境から独立した自分の意思などというものはミリも存在しないと考えているので、自分は環境の創作物でしかないと考える。
つまり、生まれ育った環境と人間関係と今までの出来事が私を作る全ての要因であり、そのなかに私が決断したことなどないと思っている。
だから、自分を誇ったり、自慢することはあっても、それは、壁に飾られた絵画を讃えるように、どこか他人事である。

生まれた日や場所、親や友人、興味関心、得手不得手、その何もかもが、私たちの手の及ばないところでポンっときまる。
自由意思は信じない。自由選択はあるかも知れないが、選択を決めるのは今までの経験である。そうすると、結局は逆上れば誕生の瞬間に収斂し、私たちの意思というは実態のない幻だと理解するのです。

もし私があなたに生まれていたら、あたなと全く同じ人生を歩むでしょう。あなたは別の人生を歩む私です。
私が社会に捨てられても仕方がないような人だったとしても、あなたをもう見捨てることができません。

だって、私はあなたなのだから。

◆最後に

もう一度言う。

誰かの上に立てるなどと思うな。そうしたければ、野性に帰れ。


はっきり言う。

偶然、決まったものを、見せびらかして偉そうにするな。恥ずかしい。
役割を果たせ。さもなくば、去れ。


告ぐ。

いい加減に幻から醒めろ。
溶けろよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?