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暇と退屈の考察 ー「暇と退屈の倫理学」を読み終えてー

退屈とは変化度のフィードバックである

國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」を読み終えて、自分なりに新しい「暇と退屈」の考察に取り組みました。その結果、退屈とは人間が時間の経過と環境の変化を認識し、それらの差から導き出される変化度が自己にフィードバックされる現象であるという仮説を導きました。

新しい仮説なのか、箸にも棒にも触れぬ暴論なのかとか、そんなことは僕に深い検証をする能力はないので何卒ご勘弁を!

「暇と退屈の論理学」の素晴らしさと違和感

人はなぜ退屈するのか、そして退屈を解消せずにはいられないのか、それらの原因と対処方法について考察を展開していく本書は、確かな根拠と分かりやすい解説、議論の深さが感じられ、まさに終始退屈させられることのない一冊で、読み終わった後にもじんわりとした手応えが残るのでした。

ただ、実は途中からは違和感を感じながら読んでいたのでした。それは、僕が知りたいのは「退屈との上手な付き合い方」ではないということ。倫理学とは恐らく本来はそういう物なのだろうが、退屈という要素に絞り込んでそれを攻略しようとするような姿勢に感じられて、「それを攻略して、どうするんだっけ」という虚しさも感じていた。

僕の退屈

僕には明らかな退屈に対する課題意識があった。それは、つい数ヶ月前仕事中に起こったとある退屈の話。

仕事は多忙期を迎え、常に体はどこかを目指しており、手にはマウスかカバンかハンドルが取っ替え引っ替え握られている。頭はさらにその先の行動について考えている。「暇」などという言葉とは一切関係を持たないそんな時間の中、車で目的の場所に到着して、いそいそと駐車し、エンジンを切り、助手席のシートに置いている鞄に手を掛けていたその時にその感情がポツリと湧く。

「退屈だな」

これが僕にとっての乗り越えなければいけない退屈だった。実は初めてのことではなく、今までも何度か経験していた。だから、本書を読む前から「暇」と「退屈」は違うものだということは身をもって体感していたのです。

退屈の倫理学は誰のため

本書で書かれている退屈の攻略方法は確かに退屈を撃退する方法かもしれません。でも、僕が求めているのはこれではなかった。

僕の中に潜む退屈はすでにどこかに根を張り、それは包んでも隠してもいつかまた姿を表す。それはこの倫理学では取り切れるとは到底思えなかった。

退屈の在り方を理解して、それに土を被せるような処世術は、その退屈がまだ存在感を持たず、見て見ぬ振りをしても後ろ髪をひかれぬ場合に必要な方法なのではないでしょうか。

本書をハイデッガーの3つの退屈を持ち出した時に、僕は希望を感じていたのですが、第三形態の退屈 ー最も厄介な退屈ー に対して、ハイデッガーは提唱した対策は「決断」であるという説を深掘りしてほしいと思っていたところを著者に一刀両断された時にその気持ちは消えてしまいました。

思考の観察から読み取る退屈

ここから僕の考える退屈について、記録していきたいのですが、まず僕の感じた退屈について少し思考の解像度を高めて見てみたいと思います。

僕がこの退屈を感じる理由は考えていることと感情からはもう少し説明できます。今この仕事を終えた時に僕は何か成長を果たし、より価値のある人間になっているのだろうか。僕のやった仕事は一体どれくらいの人に喜ばれて、誰の役に立っているのだろうか。逆に誰の迷惑になるだろうか。このまま行くと、きっと明日も来月も来年も同じことを繰り返しているのだろう。来年の僕、10年後の僕、死ぬ前の僕、今このままの自分をどう思うだろうか。別の道を見出す必要などなかったと思うだろうか。いや、思わない。どこかはわからないが、どこか別のところにいかなければならない気がする。そうしないと、いつか全てを飲み込むような後悔のような絶望のような虚無のようなものに覆い尽くされる。人生がグラフで表せるとして、過去の自分と今の自分を直線で結んで未来に向かって線を伸ばした先には薄暗い感情が渦巻いている。

簡単にいうと、仕事を中心として今の生き方を改めないと絶対後悔するよなと思っていました。

退屈と自分と時間

僕の退屈が起こったのは、ふと自分の未来に目をやった瞬間です。ここに重要な要素がありました「自分」と「未来」です。

要するに退屈を感じる前提条件としてまず意識が自分に向いている必要があります。意識が他のものや自分のやっていることに向いている時は退屈を感じません「熱中」しているような状態です。退屈を感じる時にはここにポツンといる自分に気付いてしまっているのです。

そして、そのポツンといる自分が刻々と経過する時間の中にいることが認識されていることも重要な要素のようです。人間にとって時間とは記憶であり、五感に感じているものであり、未来の想像です。それらから過去、今、未来を思い起こす時に時間という概念を体感するのではないでしょうか。

3つの退屈と過去・現在・未来

「暇と退屈の倫理学」では、仮説を形成する叩き台としてハイデッガーの提唱する3つの退屈の概念を用います。僕はこの退屈が3つに分類されることと時間における3つの概念が一致するのではないかと考えました。

僕が体験していた退屈はまさに第三形態の退屈の説明と非常に一致しており、「何もかもが退屈しのぎをさせてくれない」、「決断が必要」、「ただ退屈だと感じる」などまさにこの状態を示すように思われる。これは、自分が自分の未来を想像した時に感じる退屈のようだ。

第二形態は、ハイデッガーが例にあげるように、パーティから帰ってきて明日の仕事のことを考えた後、先ほどのパーティを思い出し時に退屈を感じていることからも、自分の過去を思い出している時に感じられる。

ということは、分類に当てはめるなら日常で最もよく感じる第一形態の退屈ー見たいものも無いのに、ついついスマホをポケットから出してしまうような瞬間の退屈ーは、現在の自分を注視した時に発生するようだ。

退屈:V=0

退屈が自分と時間の関係の中に現れているとして、僕の退屈の場合、未来の自分の何を見て退屈だと感じたのでしょうか。

言い換えると、未来の自分を見たときに何を有意義と感じ、何を退屈だと感じるのでしょうか。有意義に感じるのはそこから何かを得る時です。それはつまり、私に変化がもたらされることが感じられることなのではないでしょうか。

変化というものがどのようにして感じられるかというと、どこかの時点を起点として、別の時点の状態と見比べた時に、それが変化しているかを初めて認識することができます。先ほどの「私に変化がもたらされること」を感じるのは「今の自分」と「未来の自分」を比較する時に何かしらの変化を認識できるということです。

では、退屈が有意義と反対の概念なのであれば、退屈とは「今の自分」と「未来の自分」を比較する時に何も変化を認識できないことなのではないでしょうか。

ここでもう一つ。退屈や有意義という感性は、変化の有無のゼロイチではなく、その度合いによって感じ方は大きく変わります。つまり「変化」ではなく「変化度」として表現できるのではないでしょうか。

なんとなく、これを数式にしてみますと。
現在T1における私の状態をV1とし、未来T2における私の状態をV2とすると私の変化量は(V2-V1)/(T2-T1)と表されます。

変化が全くない時に最も純粋な退屈を感じるのであれば、V=0の時が純粋な退屈であり、0に近いほど退屈を感じると言えるのではないでしょうか。

変化量のプラスとマイナス

ところで、変化量を計算すると当然プラスになる時とマイナスになる時がありますが、それをどのように考えるかですが、確かにプラスは幸せ、マイナスは不幸せと捉えることもできますが、退屈したくない我々は実は今日と明日を区別してくれるのであればその良し悪しは関係なく何か起こってくれればいいのです。ここは「暇と退屈の倫理学」の序盤にも「退屈の反対は快楽ではなく、興奮である」と引用されているラッセルの言葉の通りだと思うので、割愛します。

相殺される変化

改めて、3つの退屈について、変化度を用いて説明をしたい。

まず第一形態、これは「現在の自分」に注目している状態です。つまり、現在の私の純粋な変化度がゼロに近づいた時に退屈だと感じることです。

次に、第二形態は「過去の自分」に注目している状態です。「パーティから帰ってきた時」に退屈だと思った「私」は何を変化度の計算対象にしていたかというと「昨晩の私」なのだと思います。「パーティは確かに楽しかったでも、それは一時的なもので昨日の私と今の私を1ミリも変えてくれなかった」と思い退屈を感じているのです。そう、途中に起こった全てのことは「自宅からパーティに行きプラスの変化が起こった私」と「パーティから自宅に帰ってきてマイナスに変化した私」の変化の量が相殺され、消えてしまったのです。

最後に、第三形態ですが「未来の自分」に注目している状態です。今私がどんなにあくせく働こうともその先の未来に何も変わっていない私を発見してしまうとその瞬間退屈になってしまうのです。

なぜ決断が必要なのか

ハイデッガーが第三形態の退屈は「決断」することで回避できると行っていることもこの変化度で理解できます。つまり、私が今晩どんな美酒を浴びようが、どんな美人を抱こうが、結局今の仕事や習慣を続けている限りは同じ自分に戻ってくるので、変化度の増大は期待できないのす。その解決策は、今の自分の軸となっているものをズラすしかないのです。それこそが「決断」という行為なのです。

退屈の個別条件1

この変化度がゼロに近いほど退屈であるという考えは、実は絶対的なものではなく個別条件によって異なります。

実は、変化度がゼロに近くても退屈しない人、変化度が結構大きいのに退屈する人が世の中には存在することは容易く想像できてしまいます。究極的なことを言うと変化度はゼロでも退屈しない人はしない!ということ。つまり、変化度と退屈の感じ方は人それぞれであるということです。

これは個人がどれくらいの変化度を期待しているかによって物差しの目盛の大きさが変わり、変化度の退屈への影響力が全然異なってくるからです。

退屈の個別条件2

これは簡単なことですが、変化を確認するポイントは人それぞれです。スポーツの上達を見る人もいれば、給料かもしれないし、人間性や精神の成長を見る人がいます。

僕の例でいうと、ポイントは一つではなく、給料や人としての価値、社会貢献、生活レベルなど色々な要素の総合です。

僕は何故退屈するのか

結局は、これから僕が決断しようと決断しまいと、今後の人生から退屈が消え去ってくれるわけではありません。でも、全自動化された「退屈システム」は僕に教えてくれます。「お前が望んでいる変化度に全然達してないぞ!おい!」と。つまり、勝手に自分が望んでいる変化度を維持できているか検証し、退屈という感情を通して私にフィードバックを行っているのです。

本の中でも、人は元々は移住する動物で、定住生活には本来不慣れなものだと語られているが、この「退屈システム」は本能的に移住を後押しするための衝動の一種なのかもしれません。

終わり

今日はここまでにします。言いたいことだけ言って、検証や周辺の環境との整合性のチェックもろくにしていませんが、平日の2日くらいで考えて書き留めたものなので、僕にはこれくらいが限界です!笑 でも、自分なりには、楽しく考えを深められるいい時間になりました。有難うございます國分さん。

昨日の私とは明らかに知恵のついた私に変化したので、今日のことを振り返って退屈だとは絶対思わないでしょうね!

では。

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