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"KISSING THE PINK"の事。

何か、メジャー・レーベルへの苦言ばっか書いてる気がしますが、インディ・レーベルに潰されたバンドだって無数に存在したんですねえ。インディ・レーベルの場合、ヒットがサッパリ無かったり、資金調達が難しかったりで運営が上手くいかずレコードを出すお金が無かったり、大物プロデューサーを雇ったもののレコーディングが終了してからお金が払えないのが判明して訴えられたり、果ては倒産というのも少なくない。会社を大きくして儲けようというところは少なくて(と思いたい)、音楽への良心だったり、良い音楽を鳴らすバンドを世に送り出したいという信念は変わらなくて。そういったレーベルは、バンドのサウンドを変えなくても、いつか突如としてブレイクするアーティストが出てくることもあるし、パトロンが登場して資金難から救ってくれて復活したりする。でも、中にはメジャーばりに大きな会社にしたいという野望を持って、レーベルの意向に沿った仕事をしてくれるプロデューサーを連れてきてバンドのサウンドを自分たちの思う方に変えて、パブリック・イメージを作り出して売り出し、売れなければ切ってなんてのも。そんなレーベルは、いずれ消滅したりメジャーに買収されて跡形もなくなるんでしょう。Magnet Recordsと言えば、1970年代から存在する成功したインディ・レーベルだった。所属アーティストの Alvin Stardust, Matchbox, Bad Manners,レーベルの顔であるChris Reaなどを弄る事は少なかったんだろうけど、小さなインディから引き上げたバンド、例えばThe Bodines, The Men They Couldn't Hangなんかは、結構サウンドを弄られて、ロクなプロモーションもされずに、パッとしないでレーベルを切られた。その前後の方が活躍した気がする。Magnetは、結局は1988年にメジャーのWarner Bros.に買収されている。そのMagnet Recordsに在籍して、一番割りを食ったと思われるバンドがいた。その名は、Kissing The Pinkと言いました。

[Don't Hide In The Shadows] (1981)

Kissing The Pinkは、英国イングランドはロンドンのサウス・ケンジントンにある名門、ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージック=王立音楽大学の学生によって結成されたバンドです。メンバーは、ヴォーカル/ギターのNick Whitecros, 二人のキーボーディストのJohn HallとGeorges Stewart, サックスのJosephine Wells, ヴァイオリンの Pete Barnett, ヴォーカルのSylvia Griffin, ドラマーの Steve Cusakからなるバンドで、1980年に結成されました。同じ学校に通っていた学生が徐々に集まり、貧乏学生が多かったために、みんなが同じ家に住んでいたというコミューンみたいな生活に自然に音楽制作を取り込みながら、校内や小さなライヴ・ハウスでライヴを行い、実際にレコーディングを行い、1981年にデビュー・シングル"Don't Hide In The Shadows"をインディ・レーベル The Martyrwell Music Co.からリリースしています。この曲は、Martin Hannettのプロデュースの元、10 c.c.やJoy Division、The Smithsなどで知られるStrawberry Studioでレコーディングされています。いきなりそんな大物と?と思いますが、The Martyrwell Music Co.はVirgin Recordsのディストリビューションを受けていたという事と、当時のマネージャーが優秀だったから、とメンバーが語っています。チープながら、音数が多くてユニークな編成のエキセントリックでメロディアスな生音+シンセのポップ・サウンドは、非常に優れたものでした。個性的な集団らしく、個々の楽器の自己主張が強く、アンサンブルとしては未完成でしたが、各々がスポット的に配列され、風変りで実験的なサウンドになっています。このシングルは、ラジオでエアプレイされて注目されました。

[Mr Blunt] (1982)

何を思ったかデビュー時のマネージャーと決別したバンドは、1970年代から運営されている有名なインディ・レーベルMagnet Recordsと契約しています。バンドとしては、敬愛するBrian Enoや前作のMartin Hannettを望んでいた様ですが、レーベルの判断でDuran Duran, Bow Wow Wow, Talk Talkなどを手掛けたColin Thurstonをプロデューサーに立て、デビュー・アルバムのためのレコーディングを、The Rolling Stones, The Police, Ultravox, Paul McCartney, Duran Duranなどなどが使ったロンドンの超有名な「AIRスタジオ」で行っています。アルバムのリリース前に、収録曲の"Mr Blunt”をシングルとしてリリース。この曲は、ギター、ヴァイオリン、サックスといった生音が中心で、アフロ風のビートやコーラスを取り入れた興味深いものでしたが、チャート・アクションは奮いませんでした。同じ年にもう1枚シングル"Watching Their Eyes"をリリースするも大きな成果は得られませんでした。レコーディング中にメインの女性ヴォーカルだったSylvia Griffinが脱退してしまい、以降は男性のNick Whitecrosがメイン・ヴォーカルとなります。

[Naked] (1983)

1983年になって、デビュー・アルバム”Naked”がリリースされました。先のシングルの様な実験的で個性的なサウンドは残っていますが、約半数の曲はオーバー・プロデュースによって、キャッチーでダンサブルでエレクトリックに塗りたくられた凡庸なシンセ・ポップになっていますが、約半数の曲では、実験的に使用される様々なエレクトロニクスと、奇妙なノイズとなったサックスやギターのミックスが印象的です。つまり、トータル・アルバムとしては、あんまり...だけどキラリと光る曲を含むという何とも不安定なアルバムになっています。結局は好きなんですけども。TELDECでマスタリングされたのは、彼らのこだわりが許可された数少ないものではないかと思います。先の2枚のシングルのプロモーション・ビデオも制作されて売り出されましたが、セールスはパッとしませんでした。しかし、その後シングル・カットされたアルバム収録の"The Last Film"は、浮遊感のある独特な空気のエレ・ポップの名曲で、1980年代らしいゴージャスで安っぽいプロモーション・ビデオが制作され、全英チャートで最高19位のヒットとなりました。同じ年に"Love Lasts Forever"をシングル・カットして全英85位に、次のシングル"Maybe This Day"は全英83位に終わりましたが、初めて全米チャートにランク・インしています。アルバムの方は、最終的に全英チャートで54位ランクされ、まずまずの成果に終わりました。

[What Noise] (1984)

1984年には、2作目のアルバム”What Noise”をリリースしました。今作から、ギター/ヴォーカルのSimon Aldridgeが加入しています。この作品のプロト・タイプは、電子楽器への傾倒が顕著で、アナログ・シンセ、カシオのキーボード、ポリシックス、電子ドラムキット、スペースエコー、デジタルディレイ、イベンタイド・ハーモナイザー、ボコーダーを使用し、ギターや古いハモンド・オルガンの生音をミックスした実験的な意欲作だったみたいですが、ダンス・フロアで受けるようなサウンドに作り替えられました。しかし、フロア・ヒットせず、全英チャートにもランクインしませんでした。そのフラストレーションを吐き出すかのように、自由に行うことが出来るライヴに関しては、エレクトリック楽器と、様々な生演奏とのコラボレーション実験が為されたスリリングなものだった様です。思えば、もっとメンバー個々の音を尊重した自覚的なサウンド・メイキングを続けていれば、実験的な良い作品になっていたのでは無いかと思いますが、Magnetはそうはしなかった。メンバーは、Martin Hannettと作業したデビュー・シングルの頃のエキサイティングさを懐かしむ発言をしています。今作を最後にJosephine WellsとPeter Barnettの生楽器隊、鍵盤のGeorge Stewartが脱退し、バンドは大きな危機を迎えます。脱退後にサポート・ミュージシャンとなったJosephine Wellsは、Tears For FearsやCommunardsのツアー同行時に、テムズ川で遊覧船が衝突して沈没して多くの死者を出した1989年の惨事、「マルキオネスの悲劇」時にボートに乗っていて、命は助かったものの、その後は不幸な人生を送ったようです。

[Certain Things Are Likely] (1985)

1985年に入って、残されたメンバーはバンド続行を決意し、バンド名をKTPに短縮しています。元々、バンド名が性的な意味を連想させると不評でしたが、バンド側にその意図は無かったようです。TVのビリヤード番組のスヌーカーのゲーム時に使用された、キューにボールを軽く当てる時に使われる言葉から来ているみたいですが、その勘違いされている状況をメンバーが楽しんでしまっていた様で、問題ありですね。バンドは、まだMagnetとの契約が残っていて、ここで売れなければ後が無かった。Matt Aitken (Stock Aitken Waterman)を含む多数の参加ミュージシャンを迎え、プロデューサーによって、元々レーベルの意向だったであろうフロア向けなダンサブルでライトなサウンドに作り変えられたシングル"One Step", "Never Too Late to Love You",  "Certain Things Are Likely"の3枚をリリースし、1枚目は全英チャートの79位、2枚目は87位でしたが、アメリカのダンス・チャートやイタリアで大ヒットしました。3枚目は、全英チャートではランクインを逃しましたが、アメリカのダンス・チャートでは1位を記録しました。これらのシングルを含むアルバム"Certain Things Are Likely”を1986年にリリースします。ヘヴィなHuman League?とか、熱情的なDepeche Mode?という感じの個性的なエレ・ポップ的な楽曲を含み、決して悪いアルバムでは無く、逆に中々に聴きごたえのある作品です。が、Magnetの意には介さなかったのか、これを最後に契約を解除されています。このアルバムは、Mercuryからアメリカ向けにもリリースされていますが、成功は得られませんでした。

[Sugarland] (1993)

1988年、バンドは再び名前をKissing The Pinkに戻しています。新たにメジャー・レーベルであるWEAからオファーがありましたが、シングル1枚の単発契約でした。同年にシングル”Stand Up”をリリースしています。よりダンサブルな方向性を打ち出し、豪華なゴスペル・コーラスを配した勝負作でしたが、ヨーロッパ全土に向けたリリースだったにも関わらず、チャート・インは果たせませんでした。このシングルのみで契約を失ったバンドは、活動休止期間に入ります。Simon Aldridgeはこの頃に脱退し、ZTTレーベルのA&Rになった様です。残ったメンバーは、この期間に数々のダンス作品に携わり、MikeのTwangling (Three Fingers in a Box)や、X-Press 2などをプロデュースしています。5年を経過した1993年には久々となるアルバム”Sugarland”をドイツのみでSPVからリリースしています。この作品は、バンド自身のプロデュースによりアメリカでレコーディングされたもので、当時のメンバーがハマっていたレイヴ・サウンドがコアですが、サイケデリック・ロックやダブへの接近もしていて、ジャケットはダサいですが、内容は興味深いものでした。その後は断続的に活動し、2015年には2枚のアルバムを自身のレーベルからリリース、現在も活動中です。

プロデューサーという職業が、バンドの運命を左右してしまう程の重要な役割となってからどれくらい経つのでしょう。そりゃ、メンバーが単にファンだからって理由で望んだ人選を100%飲むのはどうかと思いますが、明らかに方向性の異なったプロデューサーを当てがった場合、素材は良いのに出来上がりが悪いというのはあるんでしょう。レコード会社はバンドに投資している訳だから売れなきゃダメというのは理解出来る。でも、自分のたちの意図にはめ込みすぎるのはどうでしょう。アーティストは自由に創作をしたいというのも理解できる。でも、売れなきゃ食えない。難しいですね。バンドと相思相愛だったMartin Hannettと引き続き仕事が出来たら、どんな作品が生まれてきたんだろうなあ、と思ってしまったりもします。今回は、バンド自身が思うままに創作して、尊敬すべきプロデューサーと作り上げた、最初のシングル曲であるこの名曲を。

"Don't Hide In The Shadows" / Kissing The Pink

#忘れられちゃったっぽい名曲

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