03.先生による生徒イジメ・猫になった妹の話
(写真は実家の保護猫「麻呂(♂2歳)」で記事とは関係ありません)
予定は未定ということで、先に書きあがったものからupすることにした。(記事の続きを書いていたら「02.前編」が雑すぎて色々補足せなあかんことに気付いて面倒になった…とかいうわけではなく)
タイトル通り、人によっては気分を害する可能性がある内容を含むので、ご注意めされたし。
2つ歳の離れた妹がいる。引きこもり歴は10年以上に及び、地元の画廊で開く予定だった個展が数年延び延びになっている一応「画家(?)」であるが履歴書なんかでは「無職」あるいは「家事手伝い」と表記されるような身分であり、朝や昼間や夕方には寝ていることが多く、人間よりも猫との意思疎通が得意。
——という、けっこう小説の登場人物に向いてそうなキャラじゃなかろうか、と思うような妹である。
ちなみに記事冒頭の写真は彼女がLINEで送ってくる「今日の猫たち」シリーズからの抜粋である(ピンボケの中から綺麗なのを探すのに苦労する)。
彼女が実家の2階のアトリエに引きこもるに至った経緯も、筆者の経歴に多少関わってくるかもしれない、ということで、記事にすることにした。「先生による先生イジメ」は、いま色々と話題になってるけど、まあそれについても今後どこかで書く予定。
こう、身内の不幸を書くことに対しては「賢しらに僅かな不運を見せびらかすな!」という声も飛んでくるかもしれない(エボシ様かっこいいよね)のだが、1人の人間が引きこもりと化した背景にはこんな出来事もあったのだ、と知ってもらうことには何かしらの意義もあるんじゃないか、という気もするので書く。
妹が小学校の3年生に進級した時のことである。
新しいクラスは1組、担任になったのは20代半ば・バスケ部顧問で「明るく楽しい、○○小の太陽のようなクラスを目指します!」と屈託のない笑顔で豪語するような男・Sであった。
一方、妹は現在の基準でいえば「場面緘黙(かんもく)」に分類されるかもしれないレベルで喋らない、実におとなしい、見方によってはかなり根暗な子供であった(幼稚園への初登園時、キティちゃんのぬいぐるみを決して手離さず、送迎バスの先生の説得にも応じず無言でしくしくと泣いていた光景を覚えている。一方、年長組に通う姉はお遊戯や読み聞かせの時間そっちのけで廊下越しによく会いに行き、「お姉ちゃんは来なくていいから」と年少組の先生によく言われていた気がする)。
前述の担任・Sは「挨拶が元気にできない子供」を心底嫌っており、新学期早々、「全身全霊の大声で挨拶する練習」を自クラスの生徒に課したらしい。
多くの生徒は指導に応えて彼の定める基準に合格したが、妹はついに合格できなかった。
そこから、そのクラスでは「担任による生徒イジメ」が始まった。
もちろん「それって『指導』を子供がそう捉えただけなんじゃ?」という反論もあるかもしれない。1つの例を示す。
ある日の算数の授業中、妹は「おそらく習っていなかったと思われる問題」について答えるよう指名された。
戸惑いながら「わかりません」と答えると、Sは出席簿で教卓をバシンと叩き「お前はこっちに来い」と、妹の腕を引っ張って教室の外に連れ出した。
3年1組の隣は多目的室(いわゆる空き教室)になっていた。Sはその中に妹を押し込めると、
「お前が出来なさすぎて、このままじゃ授業が遅れてしまう。みんなが迷惑するからここで自習しておけ」
と言い、妹を手ぶらで立たせたまま扉を閉め、チャイムが鳴るまで30分放置した。
もしも彼女が本当にアホウで、過去に習った問題を綺麗さっぱり忘れていたのだとしても——これが「指導」であったのなら、教科書ノートと筆記用具くらいは持たせるべきであったし、チャイムが鳴った後には何かしらのフォローをすべきであったはずだ。しかしそれらしきものは一切なく、彼女は1人でとぼとぼと教室に戻ったという。
フォローなき厳しい仕打ちは「指導」ではなかろう。
とまあ、具体的に聞いたことがあるのは上記の件くらいだったが、他にも色々あったという話だ。(夏休み前の終業式の日にキレて、妹ほか数人のプラスチックケース:机の中に入れて引き出しとして使うやつ、を粉々に砕いたという話もあったが、これは妹曰く「後で弁償してたし、全然マシ」レベルだったそうな。)
もちろん、母親は学校に電話したり手紙を書いたり、他の保護者と手を組んでみたり、あれこれ手を尽くして訴えていたようだが、学校側は「子供の言うことだから…」といった感じの対応だったらしい。……まあ何せ、平成一ケタ代の頃ですからね。
(ちなみに、こういう時代の学校対応に対する恨みが今の「モンペ」を育てたんじゃないか? とも思う。
つまり老害世代の先輩たちの行いによる結果を、今の現役世代教員が被っている、そういう構図になってるんじゃないか???って。我ながら言葉にすると胸糞過ぎる。)
不幸中の幸いだったのは、妹には同じ「受難組」に属す友人がいたことだった。「アイちゃん」と呼ばれていたその子はすらりと背の高い美人で、よく家にも遊びに来ていたようだし、母親も大変気に入って可愛がっていた。
やはり「仲間とともに耐える」というのは強いんだろうな(…と打って、「これってブラック職員室にも言えることなんじゃね?」という気がひしひしとしてくる)。
その後、Sが他校へ異動したこともあり(数年後、彼らしき人物が何か問題を起こして懲戒免職になったらしい、という風のうわさを聞いたような聞かなかったような…そうだったら良いのだが)、アイちゃんがいたこともあり、妹も小学校時代は無事に登校できていたようだが、もともと「自衛隊さん」(=転勤族)の多い土地柄だったので(我が家も同様。ゆえによくフィクションに登場する「幼馴染」というものが今ひとつピンとこない)転校は日常茶飯事、アイちゃん一家が遠方に引っ越すことになり、2人のつながりは年賀状のやりとり程度のものとなっていった。
妹の小学校卒業と同時に、我が家は両親の実家のある町にマイホームを建てた。そして入学した中学校は、両親が通っていたころから制服も校舎もほとんど変わらない、実にど田舎感丸出しの——歩くたびギーギー鳴る木造の廊下を蛍光オレンジ色の巨大ムカデが横切ったり、校舎裏の山にしばしば猿が遊びに来たりする——学校であった。
ここの教員はみな良心的だったが、農村育ちの生徒たちはとにかく閉鎖的で同調圧力が強く、小学校の例の出来事以降「アイちゃん」以外とはろくに喋れなくなっていた妹は、1年の夏から保健室登校者になった。
(一方、3年次から転入した姉も、始業式後のテストで学年1位だったこと、「ダサい制服着たくない」と言い張って紺色セーラー・黒の学ランの中で1人だけ白ベースのセーラー服を着続けていたこと、等により学年のガキ大将に目をつけられよく教室でゴミを投げつけられて、すぐにフレックスタイムな隔日登校者となった。推薦で高校が決まったら完全に消えた。)
保健室ではよくエサをもらいに来る野良猫と仲良くなったり、絵を描いて過ごしたりしていたらしい。この辺から人生の方向性は決まっていたようで、卒業後はデザイン科のある高校に進学したが、担任の美術科教諭と絵の趣味が合わなかったこと、すっかり対人恐怖症になっていてクラスメイトと喋れなかったこと、等々が災いし、1年で通信制に転校した。
通信制は割と楽しかったらしく、国語の「山月記」のレポート提出時に「李徴の気持ちが少しわかるような気がしました」と感想を書き添えたら、添削の先生が非常に丁寧なコメントを返してくれたのが嬉しかった、などと以前語っていた。
しかし高卒資格は得ても就職できるはずもなく、美大受験なども考えはしたようだがいろいろとハードルが高くて(この時期、親の実家も含めた親族間のトラブルが重なったこともあり)諦めたという。
20代の間は本人も一応「このままではいけない」といくつかアルバイトをしたり、メンタル系クリニックに通ったり、この時通い始めて現在まで続いている画塾に来ていた人々と一緒に出かけたり、酒は好きだから飲み会に参加してみたり(実家2階のアトリエの床には空の一升瓶がよく転がっている)、といった努力はしたらしいが、最終的にうまくいかず社会復帰を諦めるに至り、それからは「寝て、猫の世話をして、絵を進めて、寝る」生活を送っている。週1ペースで絵の師匠が開いている画塾には通うが、ドタキャンすることも多い。
起きている時間より寝ている時間のほうが多い。人間よりも猫の気持ちを汲み取るほうが得意。まさに猫である。
幼稚園の年少さん時代、「将来の夢は?」と訊かれると「……ねこ」と答えていたらしいが、まさにその時の夢を叶えてしまったわけだ。
(一方その頃、姉のほうは「かんごふさんになる」と言い張っていたが、親切な大人から「血を見るのが嫌いな子はなれないよ?」と衝撃の事実を告げられギャン泣きした記憶がある)
——自分だって、昔は「普通」だったのに。あの出来事以来、全てがねじ曲がってしまった気がする。学校に人生を壊された。
こんな妹のつぶやきが、「たとえどんなに根暗な子がいても、わたしだけは絶対に見捨てない、もし採用試験に受かったらそんな教員になってやらあ」と姉に思わせたかどうかは、まあ定かではないが、何かしら影響はしたと思われる。
次回、04.職員室ってブラック企業だったんですか? 〜とある転職活動の例・後編〜(予定)。
以下余談:手前味噌だが、実際いた。初担任したクラスに、場面緘黙で絵が大好きな子が1人。
1年7月の三者面談で、保護者は「クラスでも全然喋らないでしょう?」と心配そうに尋ねてきたが、「色々な子がいてくれていいと思っています」と答えると、ほっとした表情を見せていたような気がする(実際それどころじゃないようなのが他にうじゃうじゃいた)。
その子は、確かに返事以外なかなか喋らなかったが、黙ってよく掃除をし、クラスで「自学ノート」なる取り組み(1人1冊ずつちょっと高級感のあるノートを買い与え、宿題以外に「自学」をして提出すれば1ページにつきシール1枚、後ろの黒板に貼ったシールラリー用紙に貼らせていき、学期毎の上位者には担任からご褒美を渡す。講師時代に副担だったクラスで行われていたのを真似した)をした際には、コツコツとシールを貯めていってくれた。
そして、これは2年生に持ち上がってのある日のことだったが、クラスで女子の人間関係トラブルが勃発した直後の古典の授業で大半がやる気をなくしていた中、こちらが全体に投げかけた発問に対して、この子が1人、はっきりと皆に聞こえる声で文句なしの正解を言ってくれたのを覚えている。
先日、去年まで勤めたこの学校の卒業式を見に行った際(休校措置の影響で短縮バージョンだったが、かえって生徒が集中力保てて良い式だったんじゃね?)、上記の保護者にもこの話を伝えたところだったので思い出した。1年の頃から希望していた専門学校に進むことになったそうだが、幸せになってくれと心底願う数少ない元生徒のうちの1人である。
読んでくださり、ありがとうございます。 実家の保護猫用リスト https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/25SP0BSNG5UMP?ref_=wl_share