【考察】なぜアメカジ野郎は社会に適合できないのか?

詳細は省きますが、アメカジにハマる人間のほとんどは社会に適合できていません。

その理由を自分なりに考察してみました。

まず、社会不適合者であるアメカジ野郎の考察の前に、「社会に適合している」状態について考えてみたいと思います。

社会への適合とは、つまり相互扶助の歯車の中に組み込まれることです。もっと簡単に言えば、身近な人々と助け合って生きることです。

この時点で答えが出ていそうですが続けます。

アメカジ野郎がもっとも有り難がるものは、単なる「衣類」です。しかも、他国産まれの、現在の生活とはかけ離れた過去の遺物です。

アメカジ野郎は基本的に価値観がおかしくなっていて、人間の持つ魅力の本質である優しさや勤勉さを評価することができません。他人が何を持っているか?何を着ているか?そこから「センス」が分かり、その「センス」からその人の人間的な魅力を推し量れると本気で盲信しているのです。また、自分自身に対しても「センス」のいいジーンズや蘊蓄溢れるスニーカーを選び続けていればそれを選ぶ自分自身の人間性が鍛えられ、誰かが評価してくれると信じているのです。虚しいにもほどがあります。

アメカジ野郎は、服装からしか他人を観ることができない(ダサい服の奴は行動もダサいという思い込みがある)ため、自然と服装に重きを置かない人間との関係が希薄になります。そして、アメカジ野郎の周りにはアメカジ野郎の好む「センス」に溢れたフェイク人間しか集まらなくなり、本当に他者を慮ったり行動したりできる魅力ある人間と出会うことができません。そして、人間そのものへの期待の天井が低くなり、やがて社会へ積極的に参加する意欲すら失われ、延々とスマホを眺めてジーンズやスニーカー情報を集めるだけの「センス」溢れるゾンビになります。

本当に可哀想なのはアメカジ野郎で、彼らは人生や世の中が素晴らしいことに気付くことなく年を取っていきます。彼らが認めない服装を身に着けた人々が、どれだけ他者と繫がり一人ではできないことを成し遂げても、アメカジ野郎はアメカジを着ていない人間の行動そのものを感知することすらできない状態にあるのです。

ただ真面目に働き、周囲の人間と心の繋がったコミニュケーションを行い、遊び、創作し、家族を幸せにし、予想もできない未来を作っていく幸せを「ダサい」と切り捨て、いつまでもいつまでも過去のジーンズやスニーカーの蘊蓄を擦り続けるアメカジ野郎の人生は本当に「センス」に溢れていますか?

私は、ヴィンテージジーンズを履いている人より、プレミアムスニーカーを履いている人より、挨拶ができる人や、「ありがとう」「ごめんなさい」が言える人の方が格好いいと思います。

アメカジという構造が、他国の見知らぬ文化(らしきもの)に価値を見出す虚しさを抱えている以上、アメカジ野郎がどれだけ周囲に助けられ生かされていてもそうして彼らが得たリソースがジーンズメーカーやスニーカーメーカーに吸い取られ、本当に彼らの身近な人々に還元するチャンスを逃してしまい、さらに孤立を深めてしまうことも事実です。判断力のない時代に、ヒトよりもモノを優先する価値観を植え付けられてしまったことは可哀想ですが、年を取っても間違いに気付かず成長できなかったことは彼らの責任でしょう。

それにしても、彼らは本当に自分を生かしてくれている身近な社会とともに生きていくことの良さ、辛さ、避けようもない人生の課題も知らずに、買うだけ、知るだけの無責任で楽なアメカジの道を選んでいるにも関わらず、自分自身こそ本質を知る玄人のような認識で生きています。しかし、彼らのやっていることは自立ではなく孤立です。

こうして、簡単に考えただけでもアメカジという思考停止に陥った人間は社会とともに生きていくことは難しいのです。彼らの目の前には常にジーンズやスニーカーがあり、彼らが本当に自分自身の手の届く範囲に関わろうとするとそれを「ダサくない?」と必死で止めてしまうのです。彼らは一度も、本当の人間の世の中の本質に触れることも出来ずに、アメカジ以外の無限の可能性を知ることもなく人生を終えていくのでしょうか。

彼らが、本当に自分自身の人生について考え、正しい価値観を取り戻し、裸のままの自分で人生を歩み始めることを祈っています。

今回もお読みいただきありがとうございます。

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