アメカジ野郎のサンクチュアリ「古着屋」の歪み


あるアメカジ野郎の休日にフォーカスしましょう。
いつも通りの予定のない休日、ゆっくりと目覚めたアメカジ野郎は布団の中ですでに、これから襲ってくる休日という果てしなく大きな時間の塊を持て余してしまっていることに寝ぼけ頭で気づいてしまいます。

何もせずに時間を投棄してしまえば負けが確定し、何かをして過ごすにはなんの準備もしていない休日の始まり(アメカジ野郎の人生の縮図かもしれません)に、アメカジ野郎はひたすら憂鬱になります。そんな時、彼らは何をするでしょうか。

そう、「古着屋」へ出かけます。

「なぜ?」と思った方、正常です。「それはいいね」と思った方、他の選択肢をちゃんと検討しましたか?休日に古着屋に行くことは本当にベターな選択肢ですか?どんなことでもできそうな一日のはじまりです。本当に古着屋に行って帰って良いのでしょうか。もちろん、長い人生の中で古着屋に行って構いません。アメカジを漁って構いません。しかし、できればその度に「ほかの人生もあったかも」と思いを馳せてほしいのです。
(ここから話題にする「古着屋」とは、ラグタグ等のモード系古着屋や、セカスト等のリサイクルショップ系古着屋ではなく、ヴィンテージも扱うアメカジ系古着屋を想定しています。)

今回は、休日に古着屋に行くことに迷いが無かったアメカジ野郎についてのみ書きます。アメカジ野郎は、古着屋に行くためにタンスから以前購入した古着を引っ張り出し、渾身のアメカジコーディネートに身を包んで出発します(この時、「今日はいっぱい歩いてジーンズを育てるぞ」とワクワクしているアメカジ野郎もいることでしょう)。

アゲハチョウの仲間は、蝶道と言って決まったルートを巡回飛翔していることが有名ですが、アメカジ野郎も点在する古着屋を巡回する決まったルートを進む習性が見られます。そうした巡回ルートを持つアメカジ野郎は、休日に古着屋に行くと決めた時点で瞬時に神経がその日一日の行動ルートを決め、あとはその命令に従って行動することが多いようです。

「馴染み」の古着屋を繋いだ巡回ルートを進み、気に入ったアメカジを見つけて喜んだり、買えなくてしょんぼりしたり、新しくできた古着屋を見つければ冷やかしたり、無くなった古着屋を懐かしんだりしながら、アメカジ野郎は休日を過ごします。同じような巡回ルートを持つ別個体のアメカジ野郎と店ごとに何度も出くわしたり、顔を覚えた店員を見てほっとしたり、古着屋の巡回は我々の思うより忙しいものなのです。

さて、アメカジ野郎はこの休日で古着を購入したでしょうか。恐らくは、彼は気に入った古着を購入できてもできなくても、どちらでも良かったのではないでしょうか。

アメカジ野郎が休日の古着屋巡りで本当に欲しかったモノは、古着ではないのではないでしょうか?本来は、自分も休日に何かしたかった、誰かと過ごしたかった、心を動かしたかった、のではないでしょうか。貴重な休日の一日を古着屋を歩き倒して過ごし、何も買えなかったアメカジ野郎が決して不満そうでないことが多いのは、古着を通して「誰か」を見たからではないでしょうか。アメカジという檻に互いを閉じ込め、決して生身で抱き合うことができない一方で、アメカジというクッションを通してお互いをぼんやりと認知することで傷つくこともない人間関係の真似事で、自分の中にあるどうしようもない孤独感にヴェールをかけてしまえるからではないでしょうか。アメカジを着て古着屋に行き、一人じゃないって思いたいのではないですか。

なぜ古着屋がアメカジ野郎にそう思わせる力を持っているのかというと、古着屋は商売の特性上仕入れが偶然の要素に左右されることが挙げられます。アメカジ野郎は訪問するまで何が買えるか把握できず、つまり「何を買うか決めていないのにとりあえず行く」ことになり、それに慣れすぎると「欲しいものがないのに行く」ことが当たり前になってしまうのです。

だったら何も買わなくていいではないかとも思うのですが、こうした歪んだ行動を繰り返しているうちに、ちょっと良いなと思うものに古着屋で出会うと、「何も欲しくなかった自分に欲しいものを提示してくれた古着屋は凄い」という常軌を逸した結論にすぐ陥るようになります。また、古着屋で扱う商品には一点物が多く、それ故に価格が高ければレア、安ければお買い得という錯覚を非常に起こしやすいのです。

判断力のある人なら「あったら良いなは無くても平気」という選択肢も持っているかと思います。アメカジ野郎は、たったいま古着屋で着ている彼なりの渾身のアメカジがあるのだから、それを信頼して安心して暮らしていいのです。「もう古着屋になんか行かなくても平気だよ」と誰かに言ってほしいのかも知れません。ですが、アメカジ野郎はきっと行きます。そう言ってくれる人がいないのですから、心の穴は埋められないです。また、もし古着屋で気に入った服に出会ってしまいそれを買ってしまったアメカジ野郎はどうするのか、というと、その服を着てまた古着屋に行くのです。アメカジ野郎は誰もが何度でもそんなことを繰り返しているのです。

私は、そんな寂しいアメカジ野郎を救ってあげたいと常に思っています。古着が足りないから自分はつまらない人生を送っているんだ、ともし思っているアメカジ野郎がいたら、古着なんか一枚もなくてもあなたは素晴らしいんだよと言ってあげたいです。だから、古着屋に行くのは「本当に欲しいものが決まっているとき」だけにしたら?と提案したり、用もないのに古着屋に出かけようとしている独りぼっちのアメカジ野郎がいたら、一緒にコーヒーでも淹れて過ごさないかと誘ったりしたいのです。立派なことなんかしなくて良いです。彼らに必要なことは、たった一日で良いからアメカジのことなんか考えずに過ごせる休日、そしてそんなアメカジの話題をしなくても済む仲間なのです。

そして、もちろん、古着屋という商売はとても素晴らしいものです。人類全員が飽きた服は捨てて新しい服を作らせて買っていたらあっという間に地球は終わります。まさに今そうなりかけているのです。まだ着られる古い服を、お金を介して交換し合う場として、また、今後もファッションが人々を楽しませる文化であり続けるため、過去のヘリテージを伝えていく場としても、古着屋は無くてはならない職業です。世の中からそんな素晴らしい古着屋が無くならず、発展していって欲しいと私も願っています。一つ古着屋さんにお願いしたいことは、資源の循環という本来の目的に立ち返って、煽情的でない古着の消費サイクルへ舵取りができないものかということです。


話をアメカジ野郎に戻します。以前、「育てたジーンズを履いていたら店員にジロジロ見られた。」なんて笑っていたアメカジ野郎がいました。そんなことを妄想しなくても、素直に「僕を見てください。」と言ってみたっていいと思います、私は。他人は思ったより優しいですよ。本当は誰だって一人で生きることはできず、寂しいものです、誰だって。

今回もお読みいただきありがとうございました。


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