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母親に力を与えるもの【書評】

この記事で紹介するのは,枕になりそうな分厚い二分冊の書籍『マザー・ネイチャー』です*1.実を言うと,この本は購入後しばらく私の本棚のなかで眠っていました.それをある日,母子関係の進化について講演をする必要から読みはじめたところ,じつにおもしろくて,いろいろな部分にシャッシャッと線を引きながら,一気に読み終わってしまったのでした.

ヒトの母子関係を進化と生物学の観点から解き明かしていく本書は,これまで考えたこともなかった新たな視点を私に提供し,ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだときに匹敵する知的興奮をもたらしました.それ以来,人類学関連でおすすめの本を聞かれたとき,私はダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』をさしおいて,この本を勧めることとなりました.

執筆者はサラ・ハーディー博士.霊長類学・人類学において,子殺しや共同育児の進化についていくつか有名な研究をされた方です*2.


合理的な母親

本書を通じたハーディー博士の主張は,以下に要約されるかもしれません.それは,美談で語られるような「母性本能」というものは必ずしも存在せず,母親というのは,生涯にわたる自身の繁殖成功を見積もり,ときに子供に対しても「冷酷に」対処するものである,というものです.

たとえば産まれたばかりの子供を捨ててしまう母親や,児童虐待の問題など,現代の倫理観からすると「あり得ない残酷さ」とされることも多いのですが,進化生物学の観点から見ると,こうした行動も合理的な側面を持つことが明らかにされます.

ヒトは進化的に,母親がたったひとりで子育てをするようにはできておらず,他者からのサポートを大きく必要とします.また母親は,現在の子供の生存と繁殖成功を保証するとともに,自身のより良い生活や将来の子供の繁殖成功も考えなければなりません.夫をはじめとする他者からのサポートを見込めず,あるいは,学歴主義社会のティーン・エイジャーのように,子供を産んで育てることによって自身の生涯の利益が低下する恐れが大きいのであれば,その子供を育てるのはあきらめて,将来の妊娠・出産・子育てにエネルギーや時間を割いたほうが良いということになります.


たくさんの読みどころ

生物学だけでなく,心理学や歴史学も横断して,多面的に母子関係の進化に迫る本書には,読みどころがいくつもあります.ボウルビーの愛着理論とその激しい波紋,中世から近世ヨーロッパの孤児院と乳母をめぐる悪夢のような過去,女性と男性の力関係,母親と新生児のあいだにおこる駆け引き,などなど.

ここでそうした情熱を語り始めるとキリがなくなってしまいますので,もしなにか興味を惹かれるキーワードがありましたら,ぜひ本書を読んでみてください.読むのにかかった時間を補ってお釣りがくるくらいの収穫があることは,私が保証します*3.


知ることは力になる

本書のなかにはひとつ印象的なエピソードが出てきます.なんとか育児と両立させながら,研究に邁進して立派な業績をあげるハーディー博士を揶揄して,男性の先輩研究者が,「サラ (ハーディー博士のこと) は,娘の性格をゆがませないためにも,研究に割く時間を娘の世話にあてるほうが良い」といったことを言うのです.

ハーディー博士は,育児にかかる労力を女性にばかり負わせてきた男性本位の社会のありかたが,そうした言説の背後にあることを看破しています.また,生物学的に,母親が100%の献身を注がなくたって子供はまっすぐに育つ,ということを頭では理解しています.しかしそれにもかかわらず,「もしその言説が正しかったらどうしよう」という不安はどうしても拭い去れず,坐骨神経痛よりもタチ悪く神経にさわったと述べています.

ひるがえって現代の日本社会を考えてみると,母親が「仕事のために赤ちゃんを放っておいてかわいそう」などと言われたり,「自分は母親として失格なのではないか」と自責の念にとらわれたりする機会が,残念なことに,まだまだ多いのではないかと思います.生物学や心理学の知識に通じ,母子関係をごく科学的に捉える視点をもったハーディー博士ですら,そうした言説に不安を感じて心を痛めるのですから,特にそうした教育を受けていない多くの母親の心の痛みはいかほどでしょう.

本書は,そのような,現実と理想のあいだの齟齬や,他者の思惑と自身の希望のあいだで板挟みになる母親に,知識という力を与えるものです.進化人類学的な知識は,現実の生活に起こっている葛藤をすぐさま解消するものではありませんが,その葛藤が生じるメカニズムを,大きな視点から俯瞰することを可能にしてくれます.本書に提示される進化や生物学の視点を得ることで,子育てにかかわる葛藤を解消するための選択を,より納得のいくものにできるのではないかと思います.

もちろん,母親や女性だけがそうした知識を得ていくだけではダメで,現実に起こっている子育てにかかわる葛藤の解消には,男性が正しい知識を得ていくことも重要です.妊娠・出産・育児にかかわる女性の生理や行動の進化的背景を理解するうえでも,本書は最適であり,男性にもぜひ読んでもらいたいとお勧めするものです.繰り返しになりますが,読むのにかかった時間を補ってお釣りがくるくらいの収穫があることは,私が保証します*3.

(執筆者: ぬかづき)


*1 サラ・ブラファー・ハーディー (塩原通緒 訳). 2005. マザー・ネイチャー. 東京: 早川書房. (原著: Hrdy SB. 1999. Mother nature: maternal instincts and how they shape the human species. New York: Ballantine Books)

*2 以前,フランスで開催された学会で,ハーディー博士の講演を聞いたことがありました.花柄のワンピースをさらりと着こなし,自信に満ちた姿が,非常にかっこよく見えたことを覚えています.

*3 と言ってみたものの,「つまらなかったぞ,どうしてくれる!」と文句を言われても弁償はできませんので,あしからず…

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