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シリーズ「ヤル気を伸ばす」(その13):「内在化」と「外在化」

■「内在化」と「外在化」

人は誰しも自分が属する共同体(家族、地域、友人の輪、学校、職場、地方自治体、国・・・)の文化や社会的ルールや行動規範などに順応・適応しなければ、その中で生きていくことはできません。小さい子どもであればあるほどそうでしょう。ある程度自我が芽生えれば、気に入らないルールに逆らうこともできるかもしれませんが、その場合は孤立や疎外を覚悟しなければなりません。
親や教師や上司などの社会化の担い手たちは、人が本来的に持つそうした協調性を利用して、いわば「人に認められたい」「社会の中で有能でありたい」という気持ちを「人質」にとって統制をかけ、言うことを聞かせようとするわけです。「あなたが言うことを聞くなら認めてあげる。そうでないなら認めてあげない」という態度です。これを「随伴的な(条件つきの)愛情・容認」と呼びました。
しかし、このような方法を用いて人をコントロールしようとすればするほど、その統制に反抗しようが服従しようが、それは外発的な意欲、外発的な自己像によるものであり、そうした社会化からは随伴的な自尊感情、随伴的な関与(エゴ関与)が促進され、人は社会的に不適応状態になっていきます。
その反対に、適切なかたちで自律性が支援されるなら、人は非随伴的な(無条件の)自尊感情、非随伴的な(内発的な)意欲を育て、物事に課題関与するようになっていきます。健康で健全で意欲に満ち溢れ、持てる能力を最大限に発揮して、ヤル気が持続する、という具合いです。こういう人は、社会的なルールや規範を守ることに関しても課題関与の態度であるはずです。つまりそうしたルールや規範の意味や価値を深く理解し、自主的に守っている、ということであり、場合によってはそれらをよりよいものにバージョンアップさせもします。
このように社会的なルールや規範を「自家薬籠中」のものにすることを「内在化」と呼びます。それらを外側から与えられるのではなく、自分の内側に内包し、自己の一部としている、ということです。
反対に、「外在化」しているとは、「自分の中にルールがある」のではなく「ルールの中に自分がある(ルールに乗っ取られている)」ということです。言うまでもなく、外発的な動機づけ、随伴的な(条件つきの)愛情や容認は、ルールの外在化を促します。

■ルールを「自家薬籠中」のものにする

デシ博士によると、内在化とは「発達しつつある人間が外的な援助を内的な援助へと変換する能動的なプロセス」ということです。自分で自分を助けることができるようになるプロセス、ということでもあるでしょう。
デシ博士はここで内在化の一例を示しています。

例)ある少年が、ゴミを外に出しておくように親から言いつけられていたのを、やがて親から何も言われなくてもゴミに目を配り、適切なときに適切な方法で外に出すというプロセスへと変換させた。

「この場合、親が少年に対してゴミ出しというルールの内在化を行ったわけではない。彼の両親は、彼をゴミ出しへとプログラムしたわけではない。保護者の援助を得ながら、この少年自身によって内在化が行われたのである。少年は、両親が彼にそうあってほしいと願っていた責任を受け入れた。もちろん社会化の担い手は、子どもの内在化を促進したり阻止したりするのに重要な役割を果たしているが、彼らが内在化を行うわけではない。行うのは子ども自身である。」

人を伸ばす力

デシ博士の言う通り、内在化の主体はあくまで社会化を施す側ではなく受ける側です。内在化はまさに本人の内面で起きることです。外部の人間は、それに対して影響を与えることができるだけです。
一方、「取り入れ」とは、いわば極めて外発的な側面を持つ現象であり、これによって「外在化」が促進されるはずです。
ところが、デシ博士は「外在化」という概念は使わず、「取り入れ」も「内在化」の一形態であると考えているようです。

「他者とつながりをもち、他者とかかわりあうために——すなわち関係性への欲求を満足させるために——、子どもたちは周囲に順応しようとする。彼らは、身近な集団や社会の価値とルールを受け入れようとする傾向を、生まれながらにもっている。このような順応過程を経て価値や行動規範を内在化していく中で、子どもは社会と有能に交渉していくやり方を身につけていく。しかし、ここで頭に入れておかなければならないのは、内在化には二つのまったく異なるタイプがあることである。そのため、単に規範を内在化するだけでは、自律的に、偽りのない自分にもとづいて自己調整をするようになるとはかぎらない。
この内在化の二つの形態とは、取り入れと統合である。」

人を伸ばす力

そして、デシ博士は、取り入れとは「不完全な内在化」だと定義していますが、私はこのように「取り入れ」を「内在化」の一形態と分類し、不完全に起こった内在化を「取り入れ」と定義することには、いささか疑問があります。
内在化が完全か、不完全か、ということになると、たとえば50%は内在化できているが、もう50%はできていない、といったような程度問題になってしまいます。しかし、取り入れのいちばんの問題点とは、程度問題ということではなく、自分の内側にあるはずのものを、外側から押しつけられているように感じてしまう(つまり本来内在するものを外在化してしまう)、という点にあるだろうと思います。これこそが病理化の原因でもあるわけです。
デシ博士も言うように、内在化の主体は、子どもを統制的に扱おうとする周りの大人ではなく、あくまで子ども本人です。問題の中心は、子どもが社会的なルールや規範をどのように「自家薬籠中」のものにしているか、ということです。

■消化できていない心の「異物」

社会的なルールや規範を「取り入れ」ている状態とは、噛み砕かずに丸飲みにしている状態ですから、それは本当の意味でその人の血肉にはなっていません。いわばそれは、未だ消化し切れていない「異物」のようなものです。「腫瘍」と言ってもいいかもしれません。つまり、「本当の意味で納得していないにもかかわらず、自分の内側にあるもの」という意味です。
社会的なルールや規範を「取り入れ」ている状態で守ろうとすることは、いわばその異物、その腫瘍を、必死になって「自分の一部」にしようとしているようなものです。それは涙ぐましい努力ですが、やはりそれには無理があるため、その異物や腫瘍を激しく拒否するならアレルギーとなり、それらと同一化してしまう(それに乗っ取られてしまう)なら中毒を起こすわけです。さらに、そのような自律的ではない(ルールや規範を「自家薬籠中」のものにできていない)自分の状態に確信が持てるはずもないため、アレルギーにしろ中毒にしろ不安や恐れが伴うわけです。

自分を置いて家を出て行った母親や、自分を統制しようとする父親が原因で拒食症を発症した女性の例を思い出してください。どれだけ痩せ細っていても、自分を醜く太っているとしか認識できないという状態は、まさに食物あるいは「食べる」という行為に対してアレルギーを引き起こしている例でしょう。そして、そうした自分の現状と、父親・母親から受けた扱いとが結びついていない、というのが彼女の悲劇だったわけです。
一方、この「シリーズその6」でご紹介しましたが、対立する他宗派の相手に対し、口角泡を飛ばし、顔を赤くしたり青くしたりしながら冷や汗をかき、今にも倒れそうになるほど激しく持論をまくし立てる青年の例を思い出してください。この青年は、ある特定の宗教的イデオロギーに対して「取り入れ」を起こし、その教義に自己が乗っ取られているような状態です。つまり一種の思想的中毒を引き起こし、自分の自由意思で発言しているというより、誰かあるいは何かに言わされているような状態でしょう。自分の中に思想的文脈があるのではなく、思想的文脈の中に自分が存在する、といった状況です。

■「取り入れ」は「影の投影」を招く

このように、社会化の担い手からルールや規範を統制的なかたちで押しつけられたなら、たとえそれが自分の内部にあったとしても、それがもとで傍目には異常に見えるような不適応行動を引き起こすわけですから、やはりそのルールや規範を本人も(無意識的にではあれ)異物や腫瘍のように感じていることになります。実際にはそうした社会化の担い手が、すでに自分の目の前にはいなかったとしても、目に見えない、存在しないはずの誰かからルールや規範を常に押しつけられているように感じ続けたとしても不思議ではありません。
つまり、アレルギーにしろ中毒にしろ、本来は自分の内部にあるものによって自分の考えや行動が動機づけられているにもかかわらず、あたかも外部から影響を受け続けていると思い込んでいる、という点で共通しているわけです。
このような状態が続けば、人生の歩みにおいて、踏みとどまって頑張らなければならない場面で、自分で自分にブレーキをかけてしまったり、逆にブレーキをかけなければならない場面で暴走したり、ということが起こってきます。

デシ博士も、次のように述べています。

「取り入れられた規範は、いわば外部から発せられて心の中に響く声であり、命令である。それは、底意地の悪い鬼軍曹のようなこともあれば、やさしく善意にあふれた、(しかしそれにもかかわらずおせっかいな)叔母さんのようなこともある」

人を伸ばす力

心理学的には、このような現象を「影の投影」と呼びます。自分で自分を激しく統制している(自分の中の異物や腫瘍によって統制されている)にもかかわらず、そういう自分を認められないため、外界から(誰かから)の働きかけによって統制されていると信じ込む、という現象です。
実際に、過去に激しい統制を受け、それがもとで統合失調症などを発症し、「自分をコントロールし、意のままに操ろうとする存在がいる」という幻覚に常に悩まされている人はいます。そういう状況をもってして、それも一種の「内在化」の形態であると言うのは、あまりに無理があります。
そこで私は、「取り入れ」と「統合」を、「内在化」の異なる二つの形態として位置付けるのではなく、「統合」を適切な「内在化」とし、「取り入れ」とは、不完全な、あるいは中途半端な内在化ではなく、はっきりと内在化しそこなったパターンと定義する方がいいと思っています。
ちなみにウィルバーは「影の投影」を含む様々な「防衛機制」を総じて「誤-変換」と呼んでいます。ここで言う「変換」とは、まさに外界から受け取ったものを自分の血肉にすること(つまり、成長の材料にすること)を意味しますので、「誤-変換」とは、血肉にしそこなうことを意味します。

■「取り入れ」を含んで超える

では、社会的なルールや規範に対してひとたび取り入れを起こすと、生涯消化したり取り除いたりすることのできない異物あるいは腫瘍として心の中に残り続けるのでしょうか?
物理的な異物や腫瘍だったら、取り除くことはできるかもしれませんが、いったん記憶に刻み込まれたものを完全に消し去ることはできません。
では、どのように取り入れを克服したらいいのでしょう。
ごく簡単に言えば、そうした心の異物や腫瘍も、「自己」を適切に形成する材料とすることです。それらを消し去るのではなく、それらを「含んで超える(自分の一部にする)」ことです。

ここでしばし時を超えた想像力を働かせてみましょう。
あなたは二十歳です。今まで歩んできた人生を振り返っています。幼稚園の頃、親や先生に叱られたこと、褒められたこと。小学校の頃、親や先生に叱られたこと、褒められたこと。同様に、中学校の頃、そして高校の頃・・・それらの記憶を「下位記憶」と呼んでおきましょう。あなたの現在の意識の下位構造として存在する記憶という意味です。それらの下位記憶は、すべて現在のあなたの「自己」を形作る材料です。あなたはそれらを、あるものは苦々しい記憶として、あるものは甘やかな記憶として思い出すでしょう。
あなたは40歳です。あなたは二十歳のときと同様に、下位記憶を古い順に思い出します。ところが、同じ記憶でも、印象が二十歳のときと少し違っています。あなたはまるで自分の子どもが体験したことのように、ある意味愛おしく、一種の憐みの心をもって思い出しています。
あなたは80歳です。やはり二十歳のとき、40歳のときと同じように、下位記憶を順番に思い出します。しかし、二十歳のときとも40歳のときともちょっと違う印象で思い出しています。あるものは、自分の子どもが体験したことのように、またあるものは自分の孫が体験したことのように、慈しみと寛容さをもって抱きしめています。
いずれの場合も、「私には過去の記憶がある。それはどれも間違いなく私が経験したことである。それは私の記憶だが、記憶が私なのではない。私は記憶の外にいる。私は記憶の上位に位置する。記憶はあくまで私の下位構造である」ということです。この、記憶と自己との階層構造的な「差異」は、年を重ねるごとに広がっていく、ということです。
あなたは、そのように年齢を重ねるごとに、意識をより広く、深く、高いものにし、その成長の度合いごとに、下位記憶に対する認識や思いも進化(深化)させているのです。
あなたは年齢を重ねるごとに、下位記憶を内側に包み込み、その外側に幾重にも意識の新たな「層」を積み重ねて、その「層」の分だけ下位記憶に対する認識や思いもより精緻で洗練されたものにしながら、全体として「自己」をより広く・深く・高度なものにしていくのです。これこそが「統合」であり「発達」です。このようにして、あなたは取り入れを起こしていた下位記憶を、段階を踏んでどんどん「含んで超え」ていくのです。
統合とはまさに「含んで超える」ことに他なりません。

■「ペルソナ」と「シャドー」の統合

社会化を促そうとするときに、統制的なアプローチを用いると、明らかに相手の発達を妨げることになります。なぜなら、統制はルールや規範の統合を抑圧し、取り入れを助長するからです。このことは、デシ博士らの長年の研究からも明らかです。
では、統合を抑圧せず、発達を促し、取り入れを防ぐにはどうしたらいいでしょう。
まず踏まえておく必要があることは、そもそも発達の主体とは「内発的自己」であって、決して「外発的自己」ではない、ということです。「外発的自己」とは、他者から押しつけられたものを本来の自分だと思い込んでいる自己像です。いわば社会的に被った仮面を本来の自己と思い込んでいるということです。その仮面こそが自己であると思い込んでおけば、世間的に何かと都合がいいはずだ、という思い込みです。そういう意味で「外発的自己」とは、「ペルソナ(仮面)」と同義語と考えていいでしょう。
一方、「ペルソナ」の反対は「シャドー(影)」です。シャドーとは、普段は意識していない自己のもう半分であり、「ペルソナ」とは真逆の自己像です。

ペルソナとシャドー

「ペルソナ」と「シャドー」の関係は、地球の昼と夜の関係のようなものです。太陽に照らされた部分は昼、そのちょうど反対側は夜。しかし、どちらも地球であることに違いはありません。
ペルソナとは、簡単に言うと、普段自分が他人(社会)に対して見せている自分、ということです。その自分とは、実は自分の半分にすぎないのですが、それが自分のすべてだと思い込んでいる自分の姿、ということです。そう思われていれば、自分にとって何かと都合がよく、その方が常識や社会通念にも合致している、という自分です。
しかし、これは自分の一部にすぎません。いわば自分が社会的にかぶっている「仮面」ということです。
一方、「シャドー」とは、仮面の真逆で、仮面とは対立関係にある自分ということです。つまり、自分にはまったく備わっていないと思い込んでいる性格や感情や欲望ということです。それは、自分が考える常識や社会通念とは相いれない非常識で、ときに不道徳で、自分にとって極めて都合の悪い自分の一側面ということです。
人間には誰しも、この仮面の部分と、それとは真逆の影の部分の両方が備わっているのです。しかし、一般に、人は影の部分を自分ではないと思い込んでいます。

ここで恐るべき現象が起きます。人は自分の一部とは認められない影の部分を、自分から切り離し、外に出してしまうのです。つまり、そんな個性や感情や欲望は自分に備わっているものではなく、自分には関係ない誰かほかの人のもの、あるいは外部の何かによって自分に無理矢理押しつけられているもの、と思い始めるのです。
この現象を「影の投影」と呼びます。

先ほど申しました通り、「外発的自己」=「ペルソナ」と考えていただいてまず差し支えないでしょう。だからといって、実は「シャドー」=「内発的自己」ではないのです。
もしある人の「ペルソナ」の部分が、親の言うことをいちいち気にして、それに振り回されているなら、「シャドー」の部分は「親に逆らいたくて仕方がない自分」ということになります。親の言うことに振り回されるのも、逆らいたくて仕方がない気持ちも、どちらも自律的(内発的)ではありません。
「ペルソナ」も「シャドー」も、いわば「自己」を構成する要素にすぎません。そういう意味で、「ペルソナ」と「シャドー」の「部分性」に気づくことこそが統合への第一歩です。
「私は、表面的な部分では、親の言うことに逆らわない聞き分けのいい人間を演じているが、その裏では、親の言うことにいちいち逆らいたい自分もいる。どちらも自分だ。では、両方を足し合わせたものが自分かというと、そうでもない。だから、親の言うことを鵜呑みにするのではなく、よく噛み砕いて吟味し、しっかり自分の腑に落として、納得のいくものだけを実践していくようにしよう」という自分こそが、統合された「内発的自己」です。
「外の世界に見せている自分も自分の一部であり、その表向きの自分とは正反対の内面的な自分もまた自分の一部である。本来の自分は、その両方の自分をともに見詰めていて、否定せずに認めていて、そのうえで態度決定している」ということです。
簡単に言うと、統合された自己とは、ペルソナとシャドーを両方とも部分として含み、さらにそれらを超えたところにあるわけです。
つまり、「内発的自己」とは、ペルソナとシャドーが統合されたものと考えることができるのです。

■まとめ

ここまでをまとめておきます。
社会的なルールや規範に対して「取り入れ」を起こすと、それらを「内在化」させるのではなく「外在化」させてしまいます。これはいわば、社会的なルールや規範を消化しきれていない異物ないし腫瘍のように感じてしまうことです。それによって、アレルギーや中毒などの不適応症状が誘発されたり、「影の投影」を起こしたりして、随伴的な(条件つきの)自尊感情、外発的意欲、外発的自己が育成され、物事に対して「エゴ関与」する傾向になります。
一方、自律性を支援するかたちで社会化が成されれば、社会的なルールや規範に対して「内在化」が促進されます。これはいわば、社会的なルールや規範を「自家薬籠中」のものにし、自分の自由意思で使いこなすことです。このため、非随伴的な(無条件の)自尊感情、内発的意欲、内発的自己が育成され、その結果人は物事に対して「課題関与」する傾向になります。
「外発的自己」とは「ペルソナ」と同義であると考えられます。
「ペルソナ」の反対は「シャドー」ですが、「内発的自己」=「シャドー」ではなく、「ペルソナ」と「シャドー」を統合した(含んで超えた)ものが「内発的自己」と言えます。

さて、このテーマはまだまだ続きますが、長くなるので今回はここまでにしておきます。
次回は、統合(内在化)とは何かについて、発達論の観点から、より深めていきます。

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