見出し画像

シリーズ「新型コロナ」その47:森喜朗発言が意味するもの

画像1

■森氏発言に思うこと

ついポロリと口をついて出てしまった自身の発言によって、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会会長である森喜朗氏が「メールショービニスト(男性優位主義者)」であることが露呈した。
開かれた謝罪会見を見ても、森氏が「改心」(あるいは「回心」)したという証拠は微塵も見当たらない。むしろ、自身のイデオロギーが強化された感さえ見受けられる。メールショービニズムは一種のイデオロギーであるため、「回心」は極めて難しい。頭の中身をごっそり入れ替えでもしない限り、考えは変えられないだろう。
メールショービニズムは、イデオロギーとしての心理構造・意識構造で言えば、白人至上主義などと変わりはない。つまり、必要な措置があるとしたら、一種の「洗脳解除」だ。
そんな森氏は、「余人をもって代えがたし」といった存在だそうだ。つまり、他に適任者が見当たらない、ということらしい。政治の世界がそれほどの人材不足なら、日本という国はオリンピック・パラリンピックなどという国際的な一大イベントを催すまでに成長していないことを物語っている。「おもてなし」が聞いて呆れる。こんな体たらくでは、恥をかかないうちに即刻中止した方が身のためだ。
たとえば、今回のことで世界中の女性アスリートから出場ボイコットされても文句は言えないだろう。逆に、日本の女性アスリートやボランティアを含めた大会スタッフがこぞって参加ボイコットして抗議してもいいぐらいだと、私は個人的に思っている。さもないと、日本人全体の頭の中身が森氏と同程度だと国際的に評価されても反論できない。それでいいのか?
「森氏一人を辞めさせても、何も変わらない」と言う人もいるようだが、少なくとも変革のスタートにはなる。今はまだ、何の変革も始まっていないのだ。

■男と女の歴史を振り返る

ちょうどいい機会だから、人のことはさておき、自分たちはこの際しっかり勉強しておこう。
まずは、正しい歴史認識を持つところから始めよう。
男と女の性差、社会的役割、力関係といったものは、歴史の中でどのように変遷してきたのか。それを知ることは、人間の意識が、どのようなプロセスを経て、成長・発達してきたのかを知ることであり、その先の進化のスケジュールを読み解く大きな手掛かりともなる。

今から100万年以上前、人間がまだ類人猿あるいは原人と呼ばれる存在だった頃、その生活はもっぱら狩猟採集によるものだった。男(オス)は、原野をうろついて狩りをし、女(メス)と生殖行為をするのが仕事。女(メス)は生殖行為に加え、採集と子育てに携わっていた。
生殖行為と妊娠・出産が関連づけられていたかどうかはともかく、はっきりとした生理的変化(ホルモンの変化)が物語っているように、女(メス)から母親になるという移行は、ごく自然な成り行きだったに違いない。そうでなければ、種の保存はあり得なかっただろう。
ところが、「オスから父親へ」という移行は、ひとつの画期的な進化だったのだ。その進化を促したのは、女が狩りに参加すると流産率が高くなり、人間という種の保存に不利になるという事情だった。まさに、父親という社会的役割が発明されたとき、原人から人間への最初の進化が起こったと言っても過言ではないだろう。
その結果、男は狩猟という食糧生産を司ると同時に、生殖に基づく家族(血族)という「再生産」の場にも参加する存在になったのだ。家族あるいは血族系統という概念もこのとき同時に発生したと考えられる。だから、父親という役割の発明は、人間が社会的な動物になった瞬間でもある。
しかし、この進化は、男にとって同時にひとつの受難でもあった。一方の手で命を奪い(狩猟)、もう一方の手で命(子ども)を慈しみ、守るという相矛盾する役割を余儀なくされたからだ。このときから、男は(一日のうちで?)男性性優位の状況と、女性性優位の状況との間で微妙な折り合いをつけるという宿命を担ったのだ。男性の中で、いまだにこの対立あるいは葛藤は続いている。
この時期の人間の世界観は、生産と再生産に携わる家族(血族)が世界の中心で、それ以外は「外界」といった程度のものだったと推測できる。いわば、前・意識的であり、もっぱら形而下であり、生存本能優位、世界観が芽生える前の世界認識と言ってもいいだろう。

さて、生活の手段が狩猟採集からごく単純な原始的農業に取って代わったとき、第二の進化が訪れる。今からおよそ1万年ほど前のことだ。その頃の農業はまだ、女性でも楽に扱える程度の簡単な農具によるものだったため、妊婦も農業に参加していた。この頃はまだ男性は狩猟に携わっていたが、実際のところ、食糧生産はそのほとんどを女性が負っていた。
これによって、生産(殺戮)と再生産(生殖)という具合に引き裂かれていた男性の立場は、かなり緩和されただろう。そのため、男女の地位はほぼ平等だった。むしろ母系社会だったと言えるかもしれない。
その証拠に、この当時の信仰対象は、そのほとんどが女性神、あるいは男性神と女性神が半々だった。今でも続く原始農業社会圏は、そのほとんどが「太母」信仰社会である。
この時期の人間の世界観は、合理・非合理以前の、極めて魔術的・呪術的世界観だった。そのため、人身御供なども行われていた。つまり、自分たちでは制御不能な自然の猛威などに対して、人身を捧げて鎮めようというわけだ。

次の大きな進化は、今からおよそ6000年~4000年前に起きている。それまで妊婦でも扱えるような簡単な農具によっていた農業が、家畜に引かせるような大きくて重たい農機具に取って代わったのだ。農耕社会に変わりはないと思うかもしれないが、これは歴史的に見れば劇的な変化だった。それまで女性優位だった農作業は、もっぱら力で勝る男性の仕事ということになった。これは男性が自分の勝手な都合で強制的に決めたことではなく、妊娠・出産・子育ての重要性も考慮した上での、男女合意のもとの取り決めだった。その結果、母系社会は家父長制に取って代わる。
男性がもっぱら食糧生産に携わるという意味では100万年前の狩猟採集期の社会的役割分担に戻ったように思えるが、生産の規模が桁違いに拡大したため、新たな問題が持ち上がった。生産力の大規模化に伴い、部族制は国家体制にまで発展したのだ。その結果、男は政治・経済・教育・宗教というあらゆる公的立場を代表するようになり、女性は家族・子育て・家庭という私的立場に専念するという具合に、極端な男女分極化が成されてしまった。
同時に、食糧の大量生産は、生計に費やされていた男性の時間を解放し、それが男性を二つの方向に向かわせる。ひとつは学問や科学技術、あるいは芸術や宗教などの文化的発展、もうひとつは、帝国主義、覇権主義、植民地主義などの勃興だ。
この時期は一見男性のやりたい放題のように見えるが、実は、男性だけが国家防衛のために徴兵され、命を落とすという具合に、むしろ男性にとっての第二の受難とも言うべき事態をも引き起こした。
生産労働からの女性の解放と生産力の増大という二つの進化と引き換えに、男女の極端な分極化と、それに伴う女性の社会的地位の引き下げ、および共同体の肥大化の末の分裂・対立という大きな二つの問題を招いたという点に注目していただきたい。結局この時期は、男性にとっても女性にとっても厳しい状況だったのだ。この段階は産業革命まで続く。
この時期の人々の信仰対象はもっぱら男性神で、世界観は極めて神話的、前・合理的なものだった。人間の原初的な想像力の賜物である神々が人間を率いていたのである。

さて、次の段階だ。
18世紀半ばから19世紀にかけて、産業革命が起きる。何が革命的だったかと言えば、科学技術の爆発的な発達により、生産性が飛躍的に向上したことはもちろん、男性的パワーが生産性の絶対的必要条件ではなくなった、という点が重要だったのだ。これによって女性の社会的地位の向上、いわゆるフェミニズム運動が立ち上がる。
しかし、この時期のフェミニズムは、まだまだ単に「女性の男性化」にすぎなかった。つまり、男性も女性もともに暮らしやすい新しい社会を目指すのでなく、男性が作った欠陥だらけの偏った体制の中に女性性が折り畳まれていくプロセスになってしまったのだ。これは、男性が仕向けたことではない。男女ともに作っていった状況なのだ。
この時期の人間の世界観は、神々が地に落とされ、もっぱら物理的、合理的、機械論的とも言うべき性格のものに取って代わられる。それは、現代にも引き継がれている。

■まとめ:男と女のシーソーゲーム

ここまでをまとめておこう。
原始から現代まで、男と女の間で、どのようなパワーゲーム、シーソーゲームがなされてきたのか。
狩猟採集生活が中心だった原始時代、男性は、殺戮と子育てという、いわばテストステロン優位の男性性とオキシトシン優位の女性性の間で引き裂かれていた。
そこへ、原始農耕時代になって男女ともに生産活動に参加するようになることで、少しバランスがとれるようになった。
さらに大規模農耕時代に入ると、また男性の力が生産現場で優位になり、男性の方にシーソーが傾く。しかし、国家防衛のために徴兵されるというかたちでの男性の受難が同時に始まる。
産業革命が起きると、今度はフェミニズム運動が始まり、女性の方にシーソーが傾くが、「女性の男性化」という結果を招く。
しかし、これらのプロセスは、ある意味歴史的な必然で、しごくまっとうな人間の意識の発達・成長のプロセスであり、どれも省くことはできなかったのだ。学校の勉強に「飛び級」はあっても、人間の意識進化に「飛び級」はない。人間の心は一歩ずつしか前へ進めないのだ。ならば、次の一歩とは?
産業革命の時代には成し得なかった「男性も女性もともに暮らしやすい新しい社会を目指す」という部分に、今こそ取り組むときではないだろうか。

■日本のフェミニズムの現状

結論を急がず、まずは現状を見てみよう。
正しい歴史認識のもと、現在と未来のフェミニズムのあるべき姿を考えてみるなら、産業革命以前、虐げられ、社会の辺縁に追いやられ、抑圧されてきた女性の立場を解放し、真の男女平等を実現することが全人類的課題であることは間違いないだろう。
そのためには、男性が作った欠陥だらけ、偏りだらけの社会や文化を、男性・女性ともに手を携えて改革していく必要がある。そのためにはまず女性自身が、男性社会に畳み込まれ、取り込まれ、絡めとられていることに気づく必要がある。
ところが、現状はどうだろう。
たとえば「女性の社会参加率」といった尺度で社会変革度が測られたりする。日本は女性の閣僚や女性のCEOが極端に少ないといった理由で、男女平等実現度(先進国度)が低いと国際的に評価されたりしている。
国際社会に「追いつけ・追い越せ」とばかりに、男女雇用機会均等法が施行され、男女ともに積極的に「育休」を取ろうという風潮になりつつあるが、まだまだ文化として定着していないようだ。これは、制度整備がいくら先行しても、人々の意識が変わっていかない限り、変革は起きないことを物語っていないだろうか。

そんな社会に女性が参加しても、本来の女性性を抑圧することになるため、女性にとってもしんどい。「男勝り」といった言葉に象徴されるように、女性が男性化することでしか、男女平等が実現できない、というのが日本の現状ではないだろうか。
従来のフェミニズム運動が、単なる「女性の男性化」をもたらしただけであることにすでに気づいている欧米諸国が、女性の男性化を避けながら、たとえば閣僚の男女比を均等へと持っていこうとすることには意味があるのかもしれない。
しかし、日本はどうだろう。もし、メールショービニストが大きなイベントの国家的責任者であり続けるなら、たとえ女性の社会参加が促進されたとしても、相変わらず女性が男性社会に折り畳まれるプロセスが続くことにならないか。

日本の場合、男性優位社会とは言っても、その内実は相変わらずの封建主義だったり官僚主義だったりする。こうした社会体制においては、実は男性もつらい思いをしているのだ。狩猟採集時代の男が、オスと父親の間で引き裂かれていたように、現代の男性は、「企業戦士」と「育メン」の間で引き裂かれているのかもしれない。
女性は、昼間は「企業戦士」としてテストステロン優位でバリバリ働き、家に帰ったらオキシトシンに切り替えて子育てする、というような引き裂かれ方をしたいだろうか。

■シーソーゲームの二つの終わらせ方

女性が男性社会に折り畳まれているということは、シーソーの一方の端に男女ともに乗っていることを意味する。ならば、方策は二つだ。女性が空席になっているもう一方の端に改めて乗り直すか、あるいは男性の手を引いて、ともにシーソーの真ん中あたりに移ってバランスをとるかだ。
まず前者の方策を考えてみよう。
たとえば東京オリンピック・パラリンピックの開催を考えるなら、こうした国際的なイベントを催すにあたり、メールショービニズムのようなイデオロギーを助長するような方向へ持っていきたいと思う人間はいないはずだ。そのイベントが真の国際平和や真の平等を実現する方向へ寄与することを望んでいるはずだ。もしそうなら、私は今こそすべての大会関係者が、そうした基本理念に立ち返ることを望む。
私はアスリートたち(特に女性アスリート)に言いたい。自分たちにふさわしい活躍の場は、人に与えられ、お膳立てされ、そこに乗っかるものではない。自分たちで勝ちとるべきものだ。甘ったれた考えは断ち切るべし。スポーツは、心身ともに成長の契機でなければ、やる意味はない。さもないと、コーチや監督によるパワハラは後を絶たないし、選手の不祥事(薬物依存、ギャンブル依存、性生活の乱れなど)も後を絶たない。
心のあり方、意識の持ち方が、森氏レベルなら、スポーツをやる資格はない。「スポーツと政治は切り離すべきだ」と思うなら、政治とはいっさい関係ないやり方で、選手自らが別の大会を催した方がいい。ただし「真の国際平和や真の平等の実現」といったスローガンを掲げる以上、そのイベントは充分に政治的である。
この機会に、女性が改めてこうしたスローガンを掲げ、東京オリンピック・パラリンピックに臨むなら、それは女性が空席になってしまっているシーソーのもう一方の端に、改めて決意を込めて乗り直すことにならないか。

次に後者の方策を考えてみよう。
女性が男性の手を引いて、ともにシーソーの真ん中あたりに移ってバランスをとるということだが、この場合、男性が女性の手を引いてそうすることはまず無理な話だ。男性が男性目線で今の社会を作ったからこそ、その欠陥や偏りに男性自ら気づくことは期待できない。森氏のようなイデオロギーの持ち主が、相変わらず要職に就いていることを思えば明らかだ。日本は、戦後の高度成長によって、科学技術の分野では先進国レベルになったのかもしれないが、価値観・世界観の部分では相変わらず産業革命以前のレベルなのだ。日本は、科学技術の進歩に比べ、意識の成長・進化のスケジュールがあまりにも遅れている。
女性が男性の手をとり始めると、おそらく男性の側にある種の抵抗感や変化に対する恐れが芽生えたりするだろう。これには、科学技術の進歩と人間の心の成長とのギャップがもたらす葛藤やねじれのようなものが絶妙に絡んでいる、と私は見ている。これもまた、産業革命以来の全人類的課題でもあるだろう。

東京オリンピック・パラリンピックに話を戻すなら、森会長を引きずり下ろし、女性の会長を後任に据えようという動きもあるようだが(https://president.jp/articles/-/43063)、そうなったらそうなったで、その女性会長はシーソーゲームの操り方が問われることに変わりはない。

■男女ともに取り組むべき全人類的課題

現代は、科学技術が極限まで発達し、(先進国の)市民生活は食糧の確保などに煩わされる必要はほとんどなく、そうではない余剰的な活動にいくらでも人生の割り当て時間を費やすことができるようになったかに見える。しかしその一方で、目に見える世界、手で触れられる、知覚できる世界、数値に還元できる世界こそがこの世のすべてである、といった唯物論、還元主義、啓蒙主義がはびこり、その結果、人間の意識は頭蓋骨の狭い空間に押し込められ、抑圧されることになった。しかし、抑圧されたものの逆襲はすでに始まっている。
すでに見て来た通り、いつの時代も、どの段階においても、人間の社会はそのときの世界観の反映だ。
だから、今ある環境破壊も、大気汚染も、放射能被害も、大量殺戮も、生活格差も、極端に偏重した食糧事情も、紛争もテロも、すべて私たちの今の世界観の反映だ。まるで、自分たちが解き放った制御不能の巨大な怪獣に、自分たち自身が飲み込まれようとしているかのようだ。これは、極めて神話的な状況でもある。神話的世界観はとっくに乗り越えたはずだが、乗り越えたのではなく、ただ抑圧されていただけだったようだ。
私たちは今、より包括的でより進化した新しい世界観の創出によって、この問題を解決するか、あるいは自分たちが撒き散らした「邪気」で死に絶えるか、その瀬戸際にきている。
この新型コロナが収束するか否か、といった問題も、私たちが科学技術の進歩と意識進化の遅れ、といった問題にどのように対処するかにかかっている。
残念ながら、旧い世界観に戻るという選択肢はない。なぜなら、程度の差こそあれ、いつの時代にも問題の原因は「無知」だからだ。私たちは、「充分に知らない」から「まったく知らない」に戻ることはできない。「不充分な知」から「完全なる知」に向かうしかないのである。
こうした現状を踏まえたうえで、おそらく女性は今後、自分の抑圧の解放とともに「男性育て」をしなければならないだろう。もちろん男性も「自分育て」をしなければならないことは当然だ。
人間の意識進化のスケジュールが、この先どの方向へ向けて一歩を踏み出すか、それは女性が鍵を握っていると、私は密かに期待している。


無料公開中の記事も、有料化するに足るだけの質と独自性を有していると自負しています。あなたのサポートをお待ちしています。