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夢を見るとき脳は・・・?(夢の学び42)

■「夢学カタログ」的な本二冊

私が夢に関する学術論文の執筆に参考にした文献のうち、今回は次の二冊を取り上げてみる。

○アリス・ロブ著『夢の正体』川添節子訳(早川書房2020)
○アントニオ・ザドラほか著『夢を見るとき脳は』藤井留美訳(紀伊國屋書店2021)

この二冊は、夢に関する様々な実験や研究について紹介している、いわば「夢学カタログ」的な文献だ。特に『夢の正体』の方は、ジャーナリストが様々な夢の研究者たちに取材して書いているため、カタログ的な意味合いが強い。たとえば、『夢を見るとき脳は』の共同執筆者であるロバート・スティックゴールドの研究に関して、『夢の正体』の中で紹介されている、といった具合だ。
『夢を見るとき脳は』の方は、共同研究者二人の共著になっているが、それでも夢にまつわる様々な事象や研究を取り上げたカタログ的性質が強い。
「夢とは何か?」について広く(浅く)知りたい、という人にはお勧めの二冊だ。
ただし、お断わりしておくが、二冊とも「夢とは何か?」のすべてを網羅しているわけではない。むしろ二冊とも「人はなぜ、何のために夢をみるのか」という肝心な意味論の部分には、残念ながら手が届いていない。
いちばん単純な話をするなら、「人はなぜ夢をみるのか」という命題は、「人はなぜ・どのように睡眠をとるのか」という命題の「一部」ではないのだ。ここを勘違いすると、どこにも行きつかない(行きつくとしたら、「夢とは何か」ではなく「脳とは何か」になってしまう)。

■これは「唯脳論」か?

たとえば、『夢を見るとき脳は』の著者は、「夢は睡眠に依存する記憶進化の一形態」と考え、その仕組みを「NEXTUP」というモデルを用いて説明している。
今回はこれについて少し取り上げてみよう。
「NEXTUP」とは、「Network Exploration To Understanding Possibilities」(可能性理解のためのネットワーク探索)という意味だという。
本書の前書きには、このモデルの意義についてこう書いてある。

「この本では、なぜ夢を見るのかという疑問に答える新たなモデルを提唱する」
「神経科学的な根拠にもとづく認識と、睡眠と夢の最新の研究成果を踏まえたこのモデルをもとに、人間の脳が夢を必要とする理由を明かし、夢とは何か、夢はどこから来るのか、夢にはどんな意味があり、どんな目的があるのかという四つの大きな疑問に新しい答えを示していく」

夢を見るとき脳は

これはエライことだ!
どうやらこの「NEXTUP」というモデルは、夢に関する主要な疑問に、神経科学的ないし睡眠学的知見から明確な答えを出してくれているようだ。
ここで著者が言っている、夢に関する「四つの大きな疑問」を整理しておく。
○人間の脳が夢を必要とする理由
○夢とは何か
○夢はどこから来るのか
○夢にはどんな意味があり、どんな目的があるのか

そこで、私の疑問・・・
その1:「人間の脳が夢を必要とする理由」だって?! 夢は、脳の必要性によって作り出される、だって?! 私が(あるいは私の無意識が)、ある必要性から脳を動かして夢を作り出すのではなく、脳が何かの必要から私の無意識を動かして夢を作り出すのだって?!
脳がハードウェアで意識(ないし無意識)がソフトウェアだとするなら、ハードウェアが自らの必要性によってソフトウェアを操作するだって?!
そもそも、人間の思考や想像力の主体は脳にあるのか、それとも「私の意識ないし無意識」にあるのか?
その2:「夢とは何か」「夢にはどんな意味や目的があるのか」を神経科学的・睡眠学的に解明できたと主張するからには、夢の正体の解明について心理学・精神分析学・現象学・神話学・記号学・解釈学あるいは文学といった分野が行なってきた努力を、脳科学分野が凌駕してみせた、という証拠が提出されて然るべきだが・・・?
その3:「夢がどこから来るのか」という疑問に対して、脳の解剖図のどこかを指さして「ここです」というような真似をするなら、「古いラジオを分解したら、プレスリーの歌の出所を突き止めました」的な話になってしまうが・・・?

夢の機能を合理的に説明するモデルとして編み出されたというこの「NEXTUP」によれば、夢とは「現象としては複雑だが、手つかずだった連想を発見し、強化して、既存の情報から新しい知識を抽出するもの」だという。

「夢は、いま抱えている懸念を直接再現したり、具体的な解決策を提示したりすることはまずない。かわりに懸念を何らかの形で具現化したうえで、似たようなほかの課題も含めて、いますぐ解決に使えるとか、この先役に立つと脳が判断した連想を見つけだし、強化していくのである」(『夢を見るとき脳は』より)

夢を見るとき脳は

脳科学分野の研究者は、どうしても「脳」を主語にした言説で語りたがる。夢が脳の働きの「付随物」であると考えているなら、こういう言説になっても仕方ないだろう。それは百歩譲って「よし」としておくとしても、この「語り癖」が夢の機能解明のためのモデル構築の大前提になっているとしたら、これはもはや「唯脳論」とでも名づけるべき「科学的イデオロギー」に限りなく近づいてしまう。

■「NEXTUP」モデルの概要

まず、この「NEXTUP」モデルの「肝」になる部分から。
「現象としては複雑だが、手つかずだった連想を発見し、強化していく」という夢の働きを証明するのに、ある実験が行われた。この実験の細部はともかく、「論理構成」は恐ろしいほど単純なものだ。
ある単語とある単語の「連想性」の強い・弱いを調べる、というもので、たとえば「wrong(悪い)」という単語は、「right(よい)」という単語との「連想性」が強い(二つの単語の関連性を脳が認知する速度が速い)が、「thief(泥棒)」という単語との連想性は弱い(二つの単語の関連性を脳が認知する速度が遅い)。もっと平たく言うと、「wrong(悪い)」と「right(よい)」を並べてみたとき、脳はピンとくるが、「wrong(悪い)」と「thief(泥棒)」を並べてみたとき、脳はあまりピンとこない、ということである。
ところが、これはあくまで覚醒時の傾向で、REM睡眠時(夢をみている状態)では、この傾向が逆転するという。つまり夢の中での情報処理は、覚醒時の情報処理パターンでの「連想性の強さ」ではなく、「連想性の弱さ」の方にことさら注目するというのだ。

「眠っている脳は、覚醒時よりずっと広範囲を検索して、起きているときには考えてもみなかった隠れた財宝を掘りあげようとする。」
「夢を見ているあいだ、脳は連想を発見し、調査して、評価を行なっている。斬新で創造的で、役に立ちそうな連想だと判断したら、それを強化して保管しておくのだ」

夢を見るとき脳は

夢の中で展開する物語が「奇妙」なのは、覚醒時の思考や感覚からすると「関連性が弱い」と思われるもの同士を、記憶の貯蔵庫の中からことさら検索してきて、その結びつきを強化するからだ、というのだ。夢は「弱さ」を「強さ」に変える、というわけだ。そして、この変換によって、記憶の進化が起きると・・・。
こうした実験結果から編み出された「NEXTUP」モデルとは、概ね次のようなものである。

1.夢は睡眠に依存する記憶進化の一形態である。多くはそれまで手つかずだった予測外の連想を発見し、強化して、既存の情報から新しい知識を引きだす。

2.夢では、覚醒中の経験やできごとのうち、情動が突出している未解決の懸念が組み込まれる傾向にある。懸念は、その日小耳にはさんだ噂、明日のバスの時間のこと、といった些細なことの場合もある。

3.夢は、現実のできごとを昼間思い出すのと同じように再現するのではなく、そのできごとについての物語を語る。
夢にはエピソード記憶と意味的記憶の断片が集まっている。
完全なエピソード記憶が夢に組み込まれることはないし、当面の懸念もそのままの形で夢に出てきたり、直接言及されたりすることはない。

4.以下の目的を達成するには夢を意識的に経験する必要がある。
A.可能性のあるシナリオを探れるような物語を創造する。
B.シナリオの評価に欠かせない情動的な感情を呼びおこす。
C.夢で描かれた状況への本人の反応を追跡し、その反応が夢の人物やできごとに影響を与えることを確認する。

5.夢に組みこまれる連想は関係が薄く、しかもかつて検索されたことのないものなので、当面の懸念とのつながりが明白ではない。それとわかるつながりがあっても、複雑にからみあった物語に深く埋め込まれており、奇妙な内容に気をとられて気づきにくい。

さて、著者は、脳が夢に対して施すこうした情報処理を、すべてノルアドレナリンだのセロトニンだのという「脳内神経伝達物質」の働きで説明しようとしている。
なるほど、夢の出所を特定するのに、脳の解剖図のどこかを指さす代わりに、ホルモンの働きに還元した、というわけだ。いわば、ハードウェアがソフトウェアを動かすのではなく、ハードウェアの「潤滑剤」がソフトウェアを動かす、といった類の発想だ。「潤滑剤の動きを追って行ったら、そこにプレスリーの正体を見出した」的なことを言いたいようだ。
脳科学や睡眠学から夢にアプローチしようとする研究者にはありがちな事情なのだが、ハードウェアの動きを追うことで、そこに内蔵されている「はず」のソフトウェア、ないしそこに内蔵されている「はず」のデータを把握したい、という「思い」は理解できるとしても、あまりにお粗末で、薄っぺらい。何の「深み」も感じない。こういう研究者は、まず自分自身の「無意識」を覗き込んで、その「深み」を充分味わったうえで、研究プランを立てるべきである。これをするとしないでは、そもそも実験立案にあたっての「仮説」の立て方からして違ってくるはずなのだ。これは、同じ「夢学」の研究者として、声を大にして言いたい。

ここで、こんなたとえ話をしてみよう。
あなたの無意識の中に(「脳の中に」ではない)夢を製造する工場があるとする。その「夢製造工場」の生産ラインは、ある特定のアルゴリズムにもとづくプログラムによって制御されているとする。「NEXTUP」というモデルは、いわばこの制御プログラムのアルゴリズム(のほんの一部)を説明しようとしているようなものだ。では、このアルゴリズムの解明によって、夢製造工場の工場長がなぜ、どのような意図で、どのような目的で、夜ごと夢を製造しているのか、ということを解明してみせたことになるだろうか。
結局のところ、「葉っぱ一枚をよく調べてみたら、森全体の動き、および森と人間の関係性がわかった」というぐらい極端な還元論になっていないか?

私は、この手の研究者のこの手の方法による夢の研究に触れるたびに、「ああ、これもまた“群盲象をなでる”の類か」とがっかりさせられる。「象」という巨大な動物を見たことのない「盲」たちは、ある者は尻尾に触って「象とは鞭のようなものだ」と言い、ある者は耳に触って「象とは巨大な団扇のようなものだ」と言い、ある者は鼻に触って「象とはごついホースのようなものだ」と言う。象の全体に触れた者は、こう言うはずである。「確かに象は、部分的には鞭のようであり、ホースのようであり、団扇のようである。しかし象は象だ」
果たして、「夢は夢である」と言える研究者がいるのだろうか。

これが、夢を脳科学的あるいは睡眠学的な観点から究明しようとするやり方の限界だとは思いたくない。
おそらく、私がこの手のアプローチで夢について研究するなら、まず夢をみることに関して別次元の能力を発揮するマスター・クラスの「ドリーマー」を集めて、その被験者たちが夢をみているときと通常の意識のときの脳の働きを徹底的に調べ、それを「一般人」あるいは「常人」の脳の働きと比較する。次に、瞑想などの特殊な変性意識状態に関する同じようなマスターたちを集めて、その被験者たちの変性意識状態時と通常時の脳の働きを徹底的に調べ、それをマスター・ドリーマーたちと比較する。
ここで終わりではない。これはあくまで基礎研究の段階で、次にマスター・ドリーマーと瞑想マスターと一般人(常人)の脳の働かせ方が、夢をみているとき、瞑想しているとき、通常の意識状態のときにおいて、そのときの思考や感覚との間にどのような相関関係があるのかを調べるだろう(私たちの夢研究グループでは、こうしたことを見越した基礎研究をすでに始めている)。
実は、瞑想に関しては、これと同じ趣旨の研究がすでにあるので、それに関してはいずれ詳しく取り上げたい。残念ながら夢学に関しては、まだここまで進んでいないのが現状だ。アカデミズムの世界では、まだどこかで「夢は取るに足らないもの」という認識がはびこっているのかもしれない。はっきり言っておくが、こうした認識は科学者としてあまりに底が浅い。
そういう意味では、この「NEXTUP」モデルは、「REM睡眠時と覚醒時では、脳の情報処理の仕方がまるで違う」ということを証明する一助にはなったのだろう。しかし、それ以上ではない。「夢の正体を突き止めた」というところには、あまりにほど遠い。

■夢の想像力と文学的想像力

この「NEXTUP」モデルを概観しての、私の正直な感想を述べよう。
「これは、夢の正体を明かしたものではなく、文学的想像力がどのように発揮されるかを、脳科学的に分析したモデルである」
小説家や映画作家、つまり「物語作家」と呼ばれる職業の人たちは、まさにこの「NEXTUP」モデルで示されるような脳の使い方でもって、毎日仕事をしている。私自身が「物語作家」でもあるため、すごくよくわかるのだ。一般の人たちは(文学について何も知らない他の分野の専門家たちも含め)、文学的想像力がどのように発揮されるかを、単に知らないだけの話である。簡単な話で、自分で一篇でも物語を作ってみればわかることなのだ。
つまりまず、このような脳の働き方は、著者が言うような「睡眠に依存する記憶進化の一形態」などではないのだ。「物語作家」なら、覚醒時に当たり前のように毎日仕事で駆使している脳の働かせ方である。
言うならば、この「NEXTUP」モデルは、文学的想像力とは何かをまったく知らない科学者が、たまたま夢の脳科学的研究をしたら、文学的想像力の働きに行きついて、さも夢の秘密を解き明かしたかのように得意になっている、といった類の話なのだ。しかも、行きついたのは、文学的想像力の(実験科学で解明できる程度の)極めて表層的あるいは初歩的な部分にすぎない。

「物語作家」(以下、作家)は、ある物語を書こうとするとき、ひとつのイメージなりテーマなりから出発する。それは、自分自身の記憶の貯蔵庫に収納された実体験の場合もあるし、純粋な想像(虚構)に端を発している場合もある。作家としては、その二つの間に何ら優劣はない。もちろん、それをそのまま表現したのでは、単なるノンフィクション作品になるか、あるいは、まさに夢のような荒唐無稽で、ただ「奇妙な」だけの話になってしまうかどちらかだ。
そこから、「実体験や虚構に物語としてのリアリティを与える」という、作家の気の遠くなるような長い苦難の道が始まるのだ。
作家は、毎日考える。

「ここにひとつのイメージなりテーマがある。それを言葉で表現したら、たった一言で終わってしまうかもしれない。しかし、私が創造したいのは、たった一言で片づけられるような底の浅いものではない。では、そこに広がりと深みをもたらすには、どうしたらいいのか」

そこで作家は、自分の記憶の貯蔵庫を総点検して、その片隅にひっそりと眠っている些細なエピソードを掘り起こす。しかし、たとえそれが見つかったとしても、その「素材」を、何の処理(料理)もせずに、そのまま提示しようとはしない。そこから文学的想像力を働かせる。それは一言で言うなら、その記憶を自由自在に「捻じ曲げる」作業だ。
その際に用いる想像力は、「wrong(悪い)」と「right(よい)」の間にある「強い関連性」ではなく、むしろ「wrong(悪い)」と「thief(泥棒)」の間にある「弱い関連性」である。簡単に言うと、作家という人種は、「wrong(悪い)」と「right(よい)」との関連性よりも、「wrong(悪い)」と「thief(泥棒)」との関連性に重きを置く人間である、ということだ。作家はそこに無限に拡がる物語の可能性を見出し、そこに新たな解釈や意味をもたらそうとする。つまり、想像力の力で記憶を(「哲学」の領域にまで)進化させようとするのである。

「ここに一人の泥棒がいる。この泥棒は、なぜいかなる理由で悪事を働くのか。その悪事とは具体的にどのようなもので、それは本人にとってどのような感情や思考を喚起するものなのか。さらに、その行為が周囲に与える影響とはどのようなものなのか。そして、この物語の落としどころはどこにあるのか。その結末によって、読者に何を提供することになるのか」

この自問自答を常に念頭に置きながら、作家は物語にある「仕掛け」を施そうとする。物語に導入するエピソードは、常に読者の期待を裏切り、驚かせるものでなければならない。そのために、できる限り些細な出来事に思えるものに、重大な意味を与えようとしたりする。たとえば「関連性」の弱そうな二つの事柄に、あえて重要な関連性を付与してみせたりもする。そして、読者を驚かせるそうした仕掛けは、どちらかというと理性よりも感性や情動に訴えるものでなければならないと考える。なぜなら、感性や情動こそが、「虚構の物語を構築する」というこの苦難の旅を続ける作家自身の原動力であり、読者にとっても、読み続けるための動機づけになるからである。人を感動させる作品を作るには、まず作家自身が、作品を書くという作業そのものに心を動かされ続ける必要がある。
それは、今まで「手つかず」だった(誰も書いたことがない)予測外の想像力を喚起するものであればあるほど好ましい。そのために、作家は自分の個人的記憶と想像力の新しい関連性を発見し、強化して、「物語」というかたちで、それに新しい「価値」をもたらそうとする。そして、その「価値」を、登場人物がちょっとした噂を小耳にはさむ場面においても、バスの時間を気にしている場面においても、等しく表現しようとする。これによって、物語に「深み」や「奥行」がもたらされるのだ。そうした「仕掛け」を、決してくどくどしい説明にならないよう注意しながら、あくまでエピソードを積み重ねることによって表現しようとするのである。

「私には、読者にどうしても伝えたい事柄がある。では、そのためにもっとも効果的な素材は何か。そこにはどんな登場人物がいて、どんな人生を送り、何を考え、何を感じているのか。その人物に私の代弁者となってもらうには、どのような背景が効果的で、この物語はどこを舞台にするのがふさわしいのか。そして、この登場人物に何をさせ、結果としてどうなることが、もっともメッセージを伝わりやすくするのか」

作家は、これらをすべて自分で組み立てるのである。作家が駆使するこの想像力は、夢製造工場の工場長が、夢という製品を作り出すときに駆使する想像力と同質のものである。
さらに作家は考える。この物語を貫く統一テーマは、個々バラバラに見えながらも、実はその根底においては複雑にからみあったエピソードの集合体の中に深く埋め込んで、読者にはあえて気づかれにくいようにし、読者がストーリーを追うことに夢中になっている間に、知らず知らずのうちに読者の心の深層部分に定着するように工夫するのだ。ここで作家に課せられた使命は、読者に強烈なインパクトを与え、物語を忘れさせないようにすることだ。作家は、こうしたことを常に念頭に置きながら、ひとつひとつの言葉、ひとつひとつのエピソードを選ぶのである。
今このように描写した作家の想像力の働きは、作家が作品を書こうとするときに経験する心の働きの、ほんの一部(しかも表層的・初歩的な部分)にすぎないことを、お断りしておく。

私も実際、長編小説を書いている間に、覚え書きのためのノートに記していたものは、まさに物語構成のための「仕掛け」に関する試行錯誤の数々である。
つまり、ここで私が行なっている作業は、まさに「連想を発見し、調査して、評価を行ない、斬新で創造的で、役に立ちそうな連想だと判断したら、それを強化して保管しておく」という作業にほかならない。
もちろん、その覚え書きのノートだけ見せられても、読者は何のことだかわからないはずである。一晩の間にみせられる夢もこれに近いだろう。その奇妙なストーリーの「断片」だけ追いかけても、何のことだかわからない。そういう意味で、作家の覚え書きノートを読まされることは、誰かの夢日記を読まされることに似ているかもしれない。
だからこそ、夢の物語を昼の明るみの中に改めて持ち出して、それを吟味したり、物語の「暗号解読」(つまりドリームワーク)を行なったりする必要があるわけだ。
と同時に、夢の物語の奇妙さは、ひとつの夢の読み解きだけでは間に合わないことを示唆してもいる。長編小説のひとつのエピソードだけを取り上げて、小説全体で作者が言いたいことを読み取ることが困難なのと同じである。
ただし、上等な作家であればあるほど、たったひとつのエピソードにも、全体のテーマを込める術を知っている。そう、脳内の記憶が、部分的に貯蔵されているのではなく、脳全体に遍在している可能性(カール・プリブラムが提唱した「脳のホログラフィー理論」)と同じように、上等な作家は、作品全体に、統一テーマを遍在させようと企むのである。
実は、夢も同じことを企む。ひとつの夢の中に、その人が生涯で抱えている人生の統一テーマを忍び込ませるのである。つまり、記憶が脳全体に遍在しているという事情を、夢もその構造において再現してみせているわけだ。だからこそ、「NEXTUP」のような極めて部分的なモデルに対しても、夢は「それも正解(の一部)だ」と言ってくれるのである。
ドリームワークの中には、ある奇妙な夢の「続き」をあえて自分で想像(連想)してみたり、一連の夢の関連性をトータルで探ってみるようなものが存在するが、それはこうした「人生全体の統一テーマが、たったひとつであろうと、複数であろうと、あらゆる夢に遍在している」という事情を前提にしているのである。

■夢は文学的想像力さえも超える

さて、もうおわかりだろう。
作家が、物語を描くことを通して読者に施す想像力の「仕掛け」は、夢がそれをみる本人に施す「仕掛け」とよく似ているのだ。
この「NEXTUP」というモデルは、はからずも「人は誰でも、夢の中では文学的想像力を働かせて、自分にとって重要な人生のテーマを物語に変えて自分自身に伝えようとしている」ということを証明してみせた感がある。

しかし、それでも夢は、作家の文学的想像力さえも超えるものである、と私は思っている。
そのひとつの事例を最後に示そう。
チリの作家イサベル・アジェンデは、世界的なベストセラーとなった処女作『精霊たちの家』について、こう語っている。

「物語の結末のつけ方や、自分のいいたいこと、そしてこの作品を書いた理由も、すべてわかっていたにもかかわらず、私は最後の15ページを十回以上も書き直したあげく、まだ納得できずに悶々としていた。何度書いても、ものものしくて説教くさく、政治色が強すぎるうえに芝居がかってしまい、私はまったく調子をつかめないでいた。
ある夜、午前三時ごろ、私は夢をみて目がさめた。夢の中で、黒い服を着た祖父が黒いベッドに横たわっていた。白いシーツ以外は、部屋の中のあらゆるものが黒一色だった。私は黒い服を着て黒い椅子にすわり、自分がこの本を書いたことと、何についての本かということを、祖父に話していた。
目ざめたとき、私は、自分がずっと、祖父に向かってこの物語を書いていたことに気づいた。初めから終わりまで、祖父の声と私の声で語っていたのだ。そのとき、悩んでいた終幕は、祖父が死に、彼を埋葬するために孫娘が夜明けを待っている場面しかないと悟った。こうしてエピローグは、死んだ祖父が横たわるベッドのわきに孫娘が腰かけ、淡々と物語を語るという調子のものになった。
この小説のラストは、夢のおかげで書くことができたのだ」

ドリームキャッチング~子どもの心を掴む本・癒す本

参考:アラン・シーゲル/ケリー・バークレイ著『ドリームキャッチング~子どもの心を掴む本・癒す本』二方とし子訳/大高ゆうこ監修(ゼスト1999)

「夢は、いま抱えている懸念を直接再現したり、具体的な解決策を提示したりすることはまずない」と主張する本書の著者にとっては、この作家の例は、「例外中の例外」ということになるのかもしれないが、私の知る限り、夢が覚醒時の作家の想像力を超えて、物語を結末へと導くといった類の話は、枚挙に暇がない。少なくとも、多くの作家が夢日記をつけていて、物語のアイデアを得るのに年中その夢日記を読み返すのである。これは、私自身がさんざん経験してきたことでもある。
もっと言えば、作家でない人間が夢日記をつけていて、夢という現象に慣れ親しんでいるなら、読者として文学作品を味わう場合も、「通常の」読者とは「深み」が違ってくるはずなのだ。
このことを知らずして、「夢とは何か」を語り得ようはずもない。夢に関する科学的実験をプランニングする際にも、いわば夢に関する「マジョリティ」だけを対象にしていてはダメなのだ。「マジョリティ」も特殊な「マイノリティ」もまんべんなく相手にすることで初めて、夢がマジョリティに対してもマイノリティに対しても等しく仕掛けようとする普遍的な企みが見えてくるのである。

さて、著者がこのモデルで解明できたと主張する、夢に関する次の「四つの大きな疑問」に戻ろう。
○人間の脳が夢を必要とする理由
○夢とは何か
○夢はどこから来るのか
○夢にはどんな意味があり、どんな目的があるのか
これらの疑問に、本当に答えが出たのか?
結論はすべて「?」である。
では、これらの疑問に付随して私が抱いた疑問はどうか?
そこは、読者の判断に委ねよう。


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