ウィルバー理論解題(その6):ホロンの20原則(3~8)
前回、ホロンの原則1~2をご紹介した。
1. リアリティを構成するのは、モノでもプロセスでもなく、ホロンである。
2.ホロンは「自己保存」「自己適応」「自己超越」「自己分解」の四つの基本的な力を持っている。
今回は、前回に引き続き、ホロンの原則3~8をお届けする。
3.ホロンは発生する。
4.ホロンはホロン階層的に発生する。
5.発生したホロンは先行するホロンを超越し、包括する。
6.低位のホロンは高位のホロンの可能性を定め、高位のホロンは低位のホロンの確率性を定める。
7.階層が包含するレベルの数が、その階層が深いか浅いかを決定する。そして所与のレベルにおけるホロンの数を幅(スパン)という。
8.連続的に発生する進化は、より深い深度と、より狭い幅(スパン)を持つ。
3.ホロンは発生する。
ホロンの自己超越の力によって新しいホロンが発生する。新しいホロンは、その部分を構成する下位ホロンを単純に足し算しただけでは導き出すことのできない性質や属性を持つに至る。したがって、新しいホロンを、その要素である部分のホロンに完全に還元することはできない。すなわちホロンは「創発」する。
以前にはその存在を見なかったホロンが発生するということは、すべてが過去によって決定されているわけではないことを意味している。あるレベルから次のレベルを決定論的にすべて説明することはできない。「すべて説明することはできない」と規定したのは、因果論で説明できる部分もあるからだ。つまりホロンには、因果の法則に従う部分も従わない部分もある。言い換えると、ホロンはある面において根本的に不確定的である。
この原則3は、すでに原則1と2でも語られているし、次の原則4と併合してもよかったはずだが、なぜわざわざウィルバーは、これを独立した原則として扱うのか、それには戦略があると思われる。
すでに述べたように、ウィルバーはホロンという概念を用いて「超(トランス)モダニズム」を試みようとしている。
その試みの中には、決定論、因果論、還元論の超克が含まれているだろう。
「モダニズム」とは、基本的に啓蒙主義パラダイムである。啓蒙主義とは、基本的に「表象パラダイム」だとウィルバーは言う。これは、一方に自己または主観があり、他方に経験的または感覚的世界があって、すべての妥当な知識は、経験的世界、単一のかつ単純な「あらかじめ与えられた」世界の地図を作ることにある、という考えだ。この場合の「地図」とは、地理的な地図以外に、理論、仮説、観念、概念、またはある種の表象を含む。一般に、客観的世界の何らかの種類の地図を指す。
その「何かを描いた地図」が「実物」を正確に再現しているなら、その地図は「真実」ないし「真実の反映」である、とするのが啓蒙主義だとウィルバーは言っている。
これに対し、様々なポストモダンの思想家たちが団結して異議を唱えている部分がある。それは、こうした地図作成パラダイムの最大の問題とは、地図作成者本人をその地図から除外している、という点だという。
つまりモダニズムは、「ホロン構造体である人間が、ホロン構造体である経験的・感覚的世界を観察し、地図化している」というところにまで思い至っていなかったのだ。
そこでこの3つ目の法則、つまり人間というホロンも、人間によって知覚される現象世界というホロンも、主観的な意味においても、客観的な意味においても、常に創発的に発生し続けている、ということが重要になってくるのである。
ある意味、モダニズムもポストモダニズムも、この「再構築」を怠ったと言えるだろう。ザックリ言うと、モダニズムは「この世界は再現可能であり、予測可能である」とし、ポストモダニズムは「この世界は再現不可能である。予測しようとするのはやめろ」とした。それに対して、ウィルバーのトランスモダニズムは、「世界は再構築(予測)可能な部分もあれば不可能な部分もある」としたわけだ。
ホロンの自己超越の力がやがて限界点に近づいたとき、つまりもうこれ以上の創発は起きないだろう、という点に近づいたとき、再構築的な科学は予測的な科学へと崩壊する、とウィルバーは言う。
たとえば初期の経験科学は「運動中の小石」を研究対象にしていた。つまり「時間を経過して空間を運動する質量」の研究だった。小石に対してならそれでもいいかもしれない(本当はよくない)が、人間に対しても同じことをしたのである。極端な言い方をするなら、小石が今日どのように振る舞うのかをよく観察するなら、小石が明日どのように振る舞うかを予測できるように、Aさんが今日どのように振る舞うのかをよく観察するなら、Aさんが明日どのように振る舞うかを予測できるはずだ、としたのである。
モダニズムにとって、この世界は再現(予測)可能なものでないと困る事情があったのだろう。つまり、この世界が「創造的」であっては困る事情ということだ。なぜなら、それは科学が「神の創造性」というタブー領域に首を突っ込まなければならなくなるからかもしれない。
仮に、歴史を大雑把に「前・近代(プレ・モダン)」—「近代(モダン)」—「後・近代(ポスト・モダン)」の三つに分けてみよう。ウィルバーは、この三つの時代それぞれに「尊厳」と「災難」があると言う。
歴史は弁証法的に進化する。つまり、旧い時代の「災難」を克服することが、新しい時代の「尊厳」となり、その尊厳が行き過ぎてしまうことがその時代の「災難」となり、それによってその時代の限界が訪れ、その災難を克服することでまた次の時代への進化が促される、という具合いである。
前・近代の尊厳とは、農耕具の発達により食料の大量生産が可能となることで、それまで重労働だった食料生産から主に男性の労働力が解放されることで、学問や文化が華開いたこと。前・近代の災難とは、男性のあり余った力が、家父長制、帝国主義、覇権主義、植民地主義などの勃興に向かったこと。
近代(主に産業革命時代)の尊厳とは、科学技術や合理的思想によって、それまで猛威を振るっていた宗教的権威主義や封建制から脱却できたこと。また、生産現場に技術革命が起きたことで、男性的パワーへの依存度が下がり、女性の社会的立場が向上したこと。近代の災難とは、行き過ぎた啓蒙主義、還元主義、唯物論、人間機械論、女性の男性化、人間の内面の外面化(主観の客観化)などがはびこってしまった点である。
さて、これを受けて後・近代の災難になりつつあるのは、啓蒙主義の表象パラダイムをことごとく「脱・構築」しようとする傾向だろう。そこでウィルバーは、「ポストモダン」から「トランスモダン」を目論み、ホロン概念を用いて、モダンパラダイムの予測的科学が崩壊させてしまったコスモス(物質圏、生命圏、心圏、神圏すべて)の水平方向にも垂直方向にも豊かな創造性を示すリアリティを「再構築」しようとしているのである。
なお、こうして概観してみると、歴史とは、それまで抑圧されていたものが解放されることで、「○○」が勃興し、そのパワーが過剰になることで、エイジェンシーとコミュニオンのバランスが崩れ、それを補正するために「反○○」が勃興し、それが新たな抑圧を生む、といったことを弁証法的に繰り返しながら、前へ進んでいることがわかる。言い換えるなら、過剰なエイジェンシーと過剰なコミュニオンをひとつひとつ克服していくプロセスであることにご注目いただきたい。
4.ホロンはホロン階層的に発生する。
ホロンは増加する部分/全体の連続として階層的に発生する。有機体は細胞を含む。しかしその逆ではない。部分の総和とそれらの部分の上位階層である全体とを比較した場合、そこには非対称な階層性がある。上位階層は、下位階層の総和ではない。より深い、より高位のホロンは先行する低位のホロンを含む。そして自己の新たな、より包括的な全体性ないしパターンを付け加える。
「A+B+C」は常に「ABCα」になる。
この考え方に、ほとんどすべてのディープ・エコロジスト、エコフェミニストが反発したという。差別や支配、戦争や環境破壊の元凶は「階層性」にあったはずではないか。つまり、人の上に人を作り、人の下に人を作ることではなかったか。せっかく自分たちが「階層性」(ヒエラルキー)を解体し、フラットなネットワーク・システム(へテラルキー)を導入しようとしているのに、またぞろ階層構造を持ち込もうというのか、というわけだ。
実際、ウィルバーに向けられた批判の根拠はここにあったようだ。
そこでウィルバーは言う。
そしてウィルバーは、エリッヒ・ヤンツの「自己組織化する宇宙」より、次の言葉を引用している。
上意下達的な階層構造とホロン階層構造はもちろん別のものである。しかし、エコロジーの分野に善悪の判断を持ち込み、環境破壊の犯人捜しをしたいエコロジストたちは、垂直方向の階層性に対しては、何であれ神経質になっているようだ。
エコロジーは、近代の行き過ぎた産業化がもたらした環境破壊という災難に対し、地球をひとつの巨大なエコ・システムと考えることで、過剰な産業化に歯止めをかけた(かけようとしている)はずだ。そういう意味でエコロジーはポストモダンの尊厳のはずだが、それが思想的に行き過ぎてしまうことで災難になりつつある、ということか。
「システムのなかにシステムがあり、そのシステムはまたさらに一回り大きいシステムのなかに組み込まれている」
この目もくらむようなシステムの「入れ子構造」は、どこまで上に上がろうが、下に下がろうが際限なく続く。「この世界はたったひとつの全体によって構成されている」とする全体論者にとって、こうしたホロン構造は受け入れられないだろうことはよくわかる。
しかし、だからといって、上意下達的な階層構造を嫌うがあまり、垂直方向にも水平方向にも豊かな創造性を展開するこのコスモスを否定することはできない。
もちろんウィルバーは「ファシスト的」で「病理的」な階層構造(ヒエラルキー)が存在することを考慮に入れていないわけではない。
つまり、すべてを平等に扱うはずの「へテラルキー」も病理化するし、正常で自然で健全な上下関係も存在する、ということだ。
5.発生したホロンは先行するホロンを超越し、包括する。
新たに発生したホロンは、先行するホロンを包括し、かつ自己を定義する新たなパターン、形式、全体性(カノン、コード、形態形成場)を付け加える。言い換えれば、新たなホロンは、先行するホロンを保存するが、その分離性、孤立性、一個性を否定する。つまり、上位のホロンが発生したとき、下位のホロンの自律性(エイジェンシー)はより相対化される。
すべての低位のホロンは高位に含まれる。しかしすべての高位のホロンが低位に含まれるわけではない。
原子は言う、「私は独立しているれっきとしたひとつの物質である。それ以上でもそれ以下でもない」。一方、有機体は言う、「確かにお前は独立したひとつの物質だが、お前は私の一部でもある。私からお前を切り離すことはできない。そして私は、お前たちをすべて足したものを超える何かだ。お前たちのなかに私はいない」
一人の人間は言う、「私は○○国の国民である。それ以上でもそれ以下でもない」。一方、もう一人の人間は言う、「確かにお前は○○国の国民だ。しかしその前に、お前は(私たちは)地球市民である。お前は、地球市民である状態から分離したかたちで○○国の国民であることはできない。お前がもし地球市民としてのアイデンティティを獲得したなら、○○国の国民としてのお前は、自分の一部にすぎないことを認識するだろう。そして、自分の全体は○○国の国民としてのアイデンティティをはるかに超えるものであることに気づくだろう。地球市民は、〇○国の国民のなかに存在することはできない」
確かに上位ホロンはすべての下位ホロンを内に含んだうえで、それを超える何かである。ところが、その一方で、超越によって上位は下位を保存するけれども、そこには否定も伴うことを、ウィルバーは指摘している。
たとえばハワイが独立国だった頃、主権を持ち、戦争を宣言し、紙幣を印刷し、軍隊を徴集することができた。つまり、独立国としてのレジーム(体制)、コード(規約)、カノン(規範)すなわち一個の全体としてのエイジェンシー(自己保存の力)を有していた。
ハワイがアメリカ合衆国という高位の体制に組み込まれると、その基本的な下部構造や土地自体は(合衆国の一部とはなったものの)失われたり害されたりせず、そのまま保存された。しかし独立主権、交戦権、貨幣の発行などは廃止された。
つまりハワイは、アメリカ合衆国という上位ホロンの一部になったことにより、エイジェンシーとコミュニオンの両面において、上位ホロンのコントロール下に置かれることで、その体制や形態に制限を受けたのである。この現象はすべてのホロン的現象に見受けられる。
このように上位ホロンが下位ホロンの不確定性をある程度制約することが起きなければ、創発(含んで超える)は起き得ない。
たとえば、細胞組織を人為的に分離し、培養により成育させると、その組織がより上位の有機体の一部だったときに比べると不確定的に行動するようになる。
反対に、より上位の生体組織は、細胞分裂の場に特定のパターンを与えることにより、全体としての組織が成長するように(完全にではないにしろ確率的に)コントロールするのである。
否定は必ずしも悪いことではない。全面否定ではなく部分否定は、不確定性に制限を与えることになるため、その分ある事柄が起きる確率を上げることになる。つまり、あるホロンが上位構造に組み込まれることによって(たとえば原子が分子に組み込まれることによって)、そのホロンはより広くて深いエイジェンシーを獲得し、そのエイジェンシーが新たな創造を呼び込むことになる。
6.低位のホロンは高位のホロンの可能性を定め、高位のホロンは低位のホロンの確率性を定める。
高位のホロンが低位のホロンの不確定的な振る舞いをある程度制限することで、下位のホロンの振る舞いの確率性を定めることを、すでに見てきた。
では逆に、高位のホロンは、低位のホロンの制約をまったく受けないか、というとそうではない。高位のレベルは低位のレベルを超越し内包するが、低位のレベルのパターンないし法則を犯すことはない。逆に言えば、低位のホロンが持つ法則性が、高位のホロンの出現の可能性を高める。たとえば、原子を支配している物理法則によって腕時計の出現(発生)を予測することはできないが、この物理法則がなければ腕時計は出現し得ない。原子を支配する物理法則が、腕時計の出現をお膳立てしているのである。腕時計は、それを構成する原子の動きを制限しているが、だからといって、腕時計が物理法則を超える動きを示すことはない。腕時計が物理法則を侵犯した(たとえば腕時計が心を持つに至った)という話は聞かない。
つまり、物質圏の進化がなければ、生命圏の進化はなく、生命圏の進化がなければ、心圏の進化はなかった、ということであり、物質圏、生命圏、心圏は、ホロンが持つ階層構造と、ホロン発生のメカニズムによって繋がっている、ということだろう。
7.階層が包含するレベルの数が、その階層が深いか浅いかを決定する。そして所与のレベルにおけるホロンの数を幅(スパン)という。
たとえば、原子は分子より深度が浅い(下位構造の階層数が少ない)が、幅は広い(同一レベルを構成するホロンの数が多い)。分子は原子より深度は深いが、幅は狭い。
つまり上位のホロンになればなるほど、深度は深くなり、幅(スパン)は狭くなる。
この原則も、次の原則8とほぼ同じことを言っているが、この原則を独立させたのにも、ウィルバーの戦略があるだろう。
エコロジストは、この世界が多様性に満ちていることに豊かさを見出す。そこまでなら、確かにそうかもしれない。しかしエコロジーが相対主義や平等主義と結び付いたとき、あるいはエコロジーが「脱・構築」したとき、あらゆる垂直方向の階層性に対して攻撃をしかけるようになってしまったようだ。「ミミズも人間も同じ生物だ。ヒットラーもブッダも同じ人間だ。そこにいかなる価値判断も持ち込むべきではない」といった具合いである。
そこでウィルバーは、正常な階層性と病理的な階層性が実際に存在することを断ったうえで、階層が深いということこそ豊かさの基準なのだと主張しているわけだ。
確かに、病理的なヒエラルキーにおいては、階層の上位になればなるほど「腐敗している」と言えるかもしれない。エコロジストたちは、階層性そのものを否定することで、この腐敗性を取り除こうとしているのだろう。しかし正常なホロン階層においては、上位になればなるほど、より多くのものを包含し、深度は増し、その分より多くのものに適合している(取りこぼしているものが少ない)という意味で、より全体的で、「より適切」になるのである。つまり、「人間はミミズより、より深くより全体的でより適合性が高いホロンである」となり、「ブッダはヒットラーより適切である」となるのである。ヒットラーは自民族主義や優生思想を病理と言えるほど極端に先鋭化させた。つまり一言で言うなら「あまりに了見の狭い考え方」ということだ。あまりに取りこぼしているものが多く、「狭くて浅い」考えだったと言わざるを得ない。反対にブッダがもし「悟り」を啓いていたとするなら(私はそれを疑わないが)、この世の森羅万象、一切衆生(つまり様々な階層のホロン)を自分の中で統合していたはずだ。つまり「多が一」になっていたはずだ。そういう意味で測り知れないほど深い深度を持ち、もうこれ以上何も統合する必要がない、という状態だったに違いない。
「多様性ではなく、ホロンの深度をもって豊かさとする」
これも「ポストモダン」から「トランスモダン」への大きなパラダイムシフトのひとつと言うことができるだろう。
8.連続的に発生する進化は、より深い深度と、より狭い幅(スパン)を持つ。
ホロンの深度が深くなると、それだけ下位ホロンへの依存度も増すため、その分その存在は不安定となる。では、不安定要因とは何で、どうすれば安定するのか、については後に譲る。ひとつだけ言っておくと、不安定だから必ずしも悪いということではない。
低位のホロンが高位のホロンの構成要素である以上、高位のホロンの数が低位のホロンの数を上回ることは物理的にあり得ない。たとえば、原子が分子の構成要素である以上、全宇宙の分子の数が原子の数を上回ることはあり得ない。
同じように、心的なホロンの幅(スパン)は生命のホロンの幅よりもずっと狭く、生命のホロンの幅は物質のホロンの幅よりもずっと狭い。
ちなみにウィルバーは、ホロンの階層が「深い」というのと「高い」というのは同義である、としている。
この原則8は、原則7の発展形とも言えるが、独立した原則としたのは、次の付加原則のためかもしれない。
付加原則1:ホロンの深度が深くなれば、意識の深度も増大する。
ここでいきなり物質圏から生命圏へ、しかも「意識」を有する高等生物の話に飛躍したような印象を抱くかもしれない。
付加原則の説明を始めるにあたっての冒頭に掲げられたこのウィルバーの言葉は、謎に満ちている。
進化とは意識のなせる業だって?
進化のスピリチュアルな次元? それがコスモスの織物に織り込まれている?
まるで(生命圏と心圏を飛び越し)物質圏と神圏をいきなり直結させたような印象を抱く。
そもそも、物質の分子が細胞へと進化したときに、何が起こったのだろう。そして、ある種の霊長類から人間へと進化したときは?
そこには、そうとう大きな進化論的飛躍があったはずだが・・・?
では、人間が神へと進化したとしたら・・・?
そこにもホロンの力が働いているのだろうか。
原子から分子への進化も、人間から神への進化も、同じ構造を持っているのだろうか・・・?
この究極の疑問に答える前に、もちろんウィルバーは、ここではまだ慎重に事を運んでいる。
まず、容易に想像がつくことは、原子が分子に進化したときも、分子が細胞に進化したときも、細胞が生物に進化したときも、霊長類が人間に進化したときも、つまりホロンがひとつ上位の段階に進化したときには、桁外れの幅(スパン)の縮小が起きただろう、ということである。いったいどれだけの原子のエイジェンシーとコミュニオンが結集して分子が発生したのだろう。いったいどれだけの分子のエイジェンシーとコミュニオンが結集して細胞が発生したのだろう。いったいどれだけの細胞のエイジェンシーとコミュニオンが結集して有機体が発生したのだろう・・・以降同様である。
人間がもしこの世界でもっとも進化した生命体だとするなら、度重なる進化(ホロン階層の深まり)の究極的な結果として、(今のところは)最大の深度(ホロン階層の数)を持ち、最小の幅(スパン)を持っているはずだ。私たちのなかに、この宇宙全体に匹敵するほどのホロン階層が眠っている・・・? そしてさらに心(意識)もホロン階層構造を持っている・・・?
しかも人間は、ホロン階層が深いからこそ、分子や細胞や器官などの下位ホロンに比べれば、不安定だという。不安定ということは、一人の人間は、ひとつの細胞より簡単にエイジェンシーとコミュニオンが過剰になったり、溶解したりする、ということである。
さて、いちおうここまでの考察を前提として先に進もう。
ここで、原則2で登場したホロンの4つの力を思い出していただきたい。この原則で、エイジェンシーとコミュニオンを水平方向に引き合うベクトルとして、自己超越と自己分解を垂直方向に引き合うベクトルとして位置付けた。
この原則8において、ウィルバーはこの4つのベクトルにさらにディテールを与えている。
まず、ホロンの性質を測るうえで、垂直方向のベクトル(自己超越と自己分解)と水平方向のベクトル(エイジェンシーとコミュニオン)の二つの異なったモノサシが常に存在している、という点が重要である。しかし、この二つのモノサシの違いを常に念頭に置くことは決してたやすいことではない。なぜなら、「理論的には二次元平面のチェスではなくて、三次元の盤面を持つチェスを戦うことになるからである」とウィルバーは言う。
しかし、最低でもこの三次元のチェス盤を意識しない限り、微妙な形の還元論に陥りかねない点について、ウィルバーは注意喚起している。
私はむしろ、6次元平面のルービックキューブをプレイするぐらい難しいと思っている。最大深度を持つかもしれない人間というホロンを対象にする場合はなおのことだ。
その複雑さを、ここでウィルバーはできる限り簡潔に表現している。
まずウィルバーは、エイジェンシーとコミュニオンの引き合いによって生じる水平方向の「変化」と、自己超越と自己分解の引き合いによって生じる垂直方向の変化とを明確に分け、水平方向の変化を「変換(トランスレーション)」と呼び、垂直方向の変化を「変容(トランスフォーメーション)」と呼ぶ。
さらに、その水平方向の変換の基礎になるものを「表層構造」と呼び、垂直方向の変容の基礎になるものを「深層構造」と呼んでいる。さらに、深層構造と表層構造の関係を「転写(トランスクリプション)」と呼んでいる。
そして、この表層構造を基礎とする変換、深層構造を基礎とする変容、両者の関係である転写を、高層ビルにたとえて説明している。
高層ビルの同一フロア内での(水平方向の)変換は、その階の深層構造の範囲内で、表層構造に対して行われる。つまり、深層構造による基本的なガイドラインの範囲内で表層構造が変化するのである。ひとつひとつの家具という表層構造には、深層構造によるそのガイドラインが反映(転写)されている。細胞は細胞というレベル(階)の深層構造の範囲内でのみ、他の細胞のことを認識する。細胞が文学に関して認識したり反応したり、ということは起こらない(逆に言えば、文学というホロンは、細胞というホロンのはるか上位に位置するホロンであることが、これではっきりわかる)。細胞というホロンは、そのエイジェンシーの力の及ぶレベルに合わせて世界を変換するのである。そのレベルのコードに適合したもののみに対し、形式を与え、組織する(つまりその階の家具を並べ替える)。
つまり、細胞にとって、それより上位の深層構造とは、認識の対象外であるため、存在しないのと同じである。細胞は細胞の深層構造のレベルでのみ、この世界を見ているのである。同じ「家具」を見るのにも、自分の深層構造のレベルでのみ見ている、ということだ。そのレベルで見えない「家具」は、存在していないのと同じである。細胞にとっては、「素粒子-原子-分子-細胞」の連鎖が、全世界である。細胞が有機体を認識するためには、有機体の深層構造を獲得してみせる必要がある。これが進化である。
変換のレベルでは、イモムシがチョウの何たるかを認識することはない。イモムシにとってチョウは存在しないのも同然だ。
ブッダがヒットラーの何たるかを認識することはあっても、ヒットラーがブッダの何たるか、その人間としての、あるいは思想の「深み」を認識することはないであろう。
もちろん、家具を並べ替えている間は「進化」は起きない。進化が起きるには、高層ビルをひとつ上の階に引っ越す(つまり上位方向への変容=自己超越が起きる)必要がある。
たとえるなら、イモムシがサナギになったとき、初めてチョウへの変容が予感されるのである。
ちなみに、下位方向への変容(進化と反対方向の動き)を、ウィルバーは「退行」ないし「内化」と呼んでいる。
もちろんここで言う「新しい世界」とは、物理的にどこか別の場所にあるわけではなく、いわばこの世界の刺激に対するより深い知覚ないし認識によって新しく開示された、この世界のさらに深い(あるいは高い)側面ということだろう。つまり、昨日まで見知らぬ「他界」だったものが、今日は見知った(開示された)世界になる、ということだ。イモムシにとって葉っぱの上以外は「他界」である。イモムシ(あるいはサナギ)がチョウになったとき、チョウにとっての世界が開示されるのである。チョウは、イモムシより深く、より高い(より進化した)エイジェンシーとコミュニオンを持つに至る。
進化を、部分(パーツ)同士の単純な結合(付加)として説明しようとすることの限界を、ウィルバーは強調する。
ここにひとつの芸術作品があるとする。それがもしルネッサンス的でもあり、印象派的でもあり、キュビズム的でもあり、シュールレアリスティックでもあり、なおかつそれらのどれにもないイメージを提供するものなら、それは今までにないほど深い深度と狭い幅(スパン)を持つ(その分他に類を見ない)芸術ホロンたり得るだろう。
ちなみに、ルネッサンス時代にシュールレアリスティックな絵を描いたとしても、それは芸術とは認められなかっただろう。それが芸術ホロンの進化と言える。