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第六感とは、五感を含んで超えている

目が半開きならば、しっかり見開くこと。
それでも見えないなら、いっそのことしっかり閉じ、耳を傾けること。

私たちは、あまりにも五感に頼りすぎていないだろうか。
特に視覚はすっかり肥大化してしまっている。贅肉のつきすぎた視覚は、すっかり鈍らされているのだ。あなたの目は、しっかり開いているようで、実は薄目でしか見えていないかもしれない。つまり、すべてのものがボケて見えているのではないだろうか。

視覚を完全に閉じたときに聞こえてくるものとは、聴覚で捉えたものですらない。
視覚でも聴覚でもないなら、イメージ、ヴィジョン、第六感?
それは、五感によって認知できる「現実」とは別にあるのだろうか。それとも、現実を踏まえつつ、現実を超えた何かか?

6番目の感覚とは、五感とは別にあるものと捉えることもできるし、五感をすべて足したうえに、五感を超えた感覚と捉えることもできる。
そう捉えるなら、五感とは第六感の類推でしかなくなる。五種類の感覚にだけ物理的な器官が与えられたが、それらを統括する感覚は物理的な器官を持たないことになる。
言い換えるなら、五感とはすべて、第六感を使うための道具にすぎないことになる。私たちは、五感を使うことでしか、第六感に到達できないのかもしれない。五感をフル回転させたときに、ようやく第六感の正体が垣間見えるのかもしれない。
一方、五感が肥大化すればするほど、第六感は抑圧される。あるのにないがごとくに扱われるのだ。

五感をすべて同時にフル回転させることは、実は五感を完全に閉じた後にしか起こらない。
これは、ひどく逆説的に聞こえるかもしれない。
このことを実感するためには、おそらくあなたがまず五感の限界をイヤというほど経験する必要がある。「どうも違う。五感で得た情報は最も確かなもののはずなのに、何かしっくりこない」という経験だ。「当たり前に確かなことだ」と思っていたあなたの信念が揺らぐ経験だ。
そのうち、あなたは気づく、「五感は手段にすぎない。手段の中に目的を探しても見つかりっこない」ということに。
そして、あなたは経験するだろう、見えないはずのものを見、聞こえないはずのものを聞き、触れられないはずのものに触れることを。
そのとき、あなたは同時に気づくはずだ、脳でさえ道具にすぎないことに。

目が半開きならば、しっかり見開くこと。
それでも見えないなら、いっそのことしっかり閉じること。


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