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ウィルバーと私(その1):ウィルバー理論の「穴埋め」

今から30年ほど前、ケン・ウィルバーの著作と出会い、いっぺんに魅了され、以来今までその難解な内容と格闘し、必死に食らいつき、自分の血肉にすべく消化吸収に努めてきたように思う。
その立場から、まず言わせていただこう。
ウィルバー理論は確かに「メタ理論」であり、この上ないほど高度な「形而上学」だと思う。つまり、ウィルバーという人は、あらゆる学問分野を一貫した「言葉」で語るとしたらどうなるか、という共通言語を見つけ出し、それを用いて、この世界全体を語ってみせてしまった人である。
しかし、その反面、ウィルバー理論は単なる「机上の空論」ではなく、極めて実践性の高い理論でもある。したがって、内容を実人生において実践しない限り、何の意味もない、ただの「絵空事」あるいは「絵に描いた餅」になってしまう。それはもちろんウィルバーの責任ではない。
ウィルバー理論への批判を耳にするにつけ、私は必ず言いたくなる。
「実践してから批判しろ!」
ウィルバー理論に対するいかなる批判も、部分的(つまり「群盲象をなでる」の類)であり、ろくすっぽ実践しないで批判していることがバレバレなのだ。つまり、ウィルバー理論へのあらゆる批判は、理論そのものへの批判ではなく、それを実践する人間に対する批判である。
ウィルバー理論を実践するにあたっての注意喚起をする人間もいる。しかし、それとて、理論に対する注意喚起ではなく、それを実践しようとする人間に対する注意喚起でしかない。
これはおかしなことなのだ。なぜなら、そもそもウィルバー理論は、「人間とは、全体的に見てこういう存在なので、その取り扱いには、こういう点に注意していただきたい」ということを言っている。その「注意喚起理論」に注意喚起するとは、どういうことだろう。つまり「猛犬注意」と書いてある札が危険だから、その札に注意すべきだ、と言っているのに等しい。そういう人間は猛犬に注意していないことがバレバレなのだ。あるいはその本人こそが「猛犬」か。

とはいえ、私はウィルバー理論を「絶対視」しているわけではないことだけは言っておこう。
ウィルバー理論は確かに「統合的」だが、それでもすべてをカバーしているわけではない。これから少し時間をかけて、ウィルバーの「インテグラル理論」の、必ずしもインテグラルでない(網羅的でない)部分についても触れたいと思っている。

つい最近、ある人にこう言われた。
「あなたはすでにウィルバーを含んで超えている」
そんなことがあり得るだろうか。
自分なりに自己分析してみると、確かにウィルバー理論を実践するにあたっては、自分で埋めなければならない「ギャップ」のようなものがあると感じてきた。ウィルバー理論の「手落ち」「手薄」な部分と言ったらいいだろうか。
すでに述べたように、ウィルバー理論は「知」のもっとも上流の部分を扱っている。それを実践することは、いわばその上流理論を下流にまで一貫性を保ちつつ流していく作業だろう。つまり、中流の部分を実践において埋めていく必要がある。その中流を埋める作業こそが、私のような人間の役割だろうとも思う。

ごく簡単に言うなら、ウィルバー理論は、けっこう目の粗いザルのようなものだ。目は粗いが、ザル自体はこの世界全体ほどに大きい。それが、「ウィルバー理論は一種のフレームワーク(枠組み、骨組み、構造)である」と言われる所以でもあるだろう。そんなザルの目からこぼれ落ちるものも当然ある。おそらく、今私がウィルバー理論に関してやっていることは、そのザルの目をもう少し細かくする作業なのだと思う。
これは、ウィルバーの著作を読み始めた当初から感じていたことだが、ウィルバー理論は「メタ理論」あるいは「フレームワーク」であるがゆえに、それを実践するうえでは、「詰めが甘い」と感じる部分が多々ある。その「詰めの甘さ」を埋めていくのも私の役割だろうし、その作業はまさにザルの目を少しずつ細かくしていく作業でもあるだろう。もちろん、ザルの目をどれだけ細かく埋めようが、ザル全体は揺らがない。それでも当然ザルの目からは何かがこぼれ落ちる。それは仕方がない。

ただ、私の役割は単なる「穴埋め」だけではない。
実は、畏れ多いことに、ザル自体を広げる必要性も感じている。もし、ウィルバーが提示した「世界全体」というザル(あるいはフレームワーク)をもう一回り大きくしたら、世界全体あるいは人間存在そのものへの見方もまったく変わってくる可能性もある。
私はそこまで考えている。それがかたちになったとき、もちろんそれはウィルバー理論を「含んで超える」ことになるだろう。

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