徒然駄文12.カフカ

曰く、
人の環を見つめる者は、決してその環に加わることは出来ない。だ、そうだ。

※以下、今から15年前に友人を自殺で亡くした夜の日記です。


素直に話してしまうなら、彼女が自殺したこと自体には別段何の感慨も無いのである。

唯、そこに何かのひっかかり、というか、歪な、不謹慎な感情が、あからさまに言ってやるなら、興味があるのだ。

数年ぶりに訪ねた彼女の家。

その母から礼を言われた時、改めて、自分がどこかで彼女の死を防げるのではないかと期待していたのだという感覚を覚えていたたまれなくなってしまった。

帰り道、コンビニどころか、喫茶店なんて無駄は全くしないわけだが、何となく気取ってみたくなって一緒に駅に向かっていた友人と不慣れな体験をすることにした。

彼女の母から渡された、遺品となってしまった日記の処置に困っていたこともあり、恐らく僕は落ち着かなくて、とりあえずどこかで評定でもしたかったのだろう。

いつだったか、夏休み、旅行先でやることもなかった僕たちは三島由紀夫を読んで腹を抱えて笑った。その赤裸々は滑稽過ぎたからだ。

あのナイーブさと、「美であるべき」「美とは~」というパラノイアに陥った挙句、思想と商業が乖離を始めた時代に取り残され、はしごを外されて道化のように憤死した、それこそ、ニーチェの超人などとは程遠い、それでいて彼の小説に出てきそうな人間、それが僕らの三島由紀夫像だった。

「馬鹿だねー。」

彼女が三島由紀夫に対してそう言ってみせるひねくれ方に多少の親近感とシンパシーを覚えたのは忘れてしまう前に素直に書いておく。

文学なんてものは嘘っぱちで、土台、無効な情報なのである。思想はコンピューターウイルスのように電波するプログラムなのであり、そこに何らかの感動や真理を求めるとするなら、それは、パソコンに新しいアプリケーションをインストールするようなものに過ぎない。その情報体に実体を持たせるのはパソコン=人間そのものなのだから。(そういうシステマティックに厭らしさを覚えるのは、実は、そう考える僕ら自身がどこかで、「素晴らしい感動・超越的な真理」の存在にロマンティックに憧れている証拠でもあると、今にして思う。)

それも、僕らが共有した感覚であった、と思う。だから、「嘘っぱちで、無意味で、馬鹿馬鹿しい、無効なそれら」に素直に、それそのものに「感じて」狂ったように馬鹿笑いする彼女が好きだった。

デモクリトスという人を知ったのも、確か彼女との会話の中である。原子論という、ソフィストの中でも特にニヒルな結論を出した哲人だったが、誰よりも明朗快活に90近くまで生きた「笑う哲学王」と称される人であった。彼のように生きたい。僕にそう言ったのを覚えている。

軽い演奏を交えて詩だかアジビラだかわからない中途半端をラウドする彼女のパフォーマンスを初めて見たのは高校に入ってからだ。彼女も、ふつう、や、大衆嗜好、下衆なものがイヤで、「自分だけの正解」を探し続けていて、そのありようがとても素直で、自然で、美しかった。

小泉内閣が支持率70%台で出来上がったときや、お子様共の妙な殺傷事件が相次いだ時も色々怒鳴っていたのを偶に聞きに行って、飯を食って、笑った。聞いている人間にヤスリをかけるような彼女の紡ぐ言葉が心地よかった。

僕にとって、彼女の叫びはパンチの効いた冗談そのものだった。冗談とは、必ずしも現実以外によって構成されるわけではない。そこに何らかのベクトルや暗示があったって、それはそれでアリなのではないか。それこそ、有効な言説としての冗談なのだから。


自意識に拘泥する人間は皆、その高潔な精神に多少の異常を抱えるものなのだろうか。

彼女が入院したことを聞いた時は、正直に「なるほど。」と思った。会えば談笑したり、食事に行ったりしていたし、そのときは到って普通の女の子(と、いう言い方もアレなんだけど。)なのだが、どうも独りのときの彼女はそうではなかったらしい。

僕は駅で知り合いと別れた後、踵を返して歩き出した時には次の事を考えている。そのときの顔が、彼女はとても嫌いだったそうだ。その時は、彼女がそこまで他人に執着することが意外で、少しの恐怖を感じたが、目前ですぱげっちーをずるずる食べている友人に聞いたところ、どうも血液型によるものだそうだ。当然のことだが、一定の納得はすれど信用はしていない。

彼女の血液型はO型だった。
「寂しがり屋」そんな言葉が脳裏をよぎり、ヒロイックにつけあがった悔恨が首のあたりにプレッシャーをかけてくる。

彼女と共にライブに出ていた連中と話していて、彼女の意外な側面を突きつけられて呆然とする。ヒステリックになったり、ナイーブになったり、ナーバスになったりする彼女は「全く普通な女子だった」、ということだ。

思えば、僕は彼女を「逸脱者」として過大評価していたのかもしれない。

僕が初めて会った頃の彼女は外側を見たがっていた。

そして、中学時代をしくじって外側に出てしまった彼女は、外側から周囲の人間を見つめていた。

外側にいた彼女は、外側から見つめた観測とそこからつむぎだした信念に矜持と恥じらい、哀れみを持っていた。

ここまでは多分、僕らは同じような屈折した道を歩いてきたのだと思う。死んでしまった今、或いはあの日記を読むことでそれを確かめることが出来るかもしれないが、とりあえず、その真相は彼女が持っていってしまった。


その先が問題だった。

僕は、仕事をしながら、大学で残酷なまでに下らない体験をしながら、矜持や信念と、生業としてのプロ=能力労働者という概念(こうじつ)を少しずつだが、いやいやながら学ぶことにした。

僕は、彼女はそこでしくじったのではないかと思える。彼女は、自分が笑える物以外に対してもそれなりの寛容さを示せる女性だったと思うが、その寛容さに対して、常に低きに流れる人間で埋め尽くされた世の中は応えてくれなかった。

「アイツ等の言葉は解るのに、ワタシの言葉は解ってもらえない。語る口を持ち聞く耳を持たないモノ達。」

それこそつけあがりだとでも言われそうな彼女のフレーズ。ちょっとばかり小賢しい人間なら一度ならず抱いてしまう感情、それこそが彼女を狂わせる原因だったのではないか。

世の中の99.9%は馬鹿でフツーだ。
正確に言えば、自分以外は皆、馬鹿でフツーだ。人間とはそう感じてしまう生き物なんだと思う。

五感で拾い集めた情報を脳が編集・再構成した箱庭を見て世の中を感じているのが人間の認識だとするなら、世の中、誰一人として出会うことは出来ず、まして、理解すること、共感することなぞは出来はしないのだ、という考え方がある。デモクリトスの話をしたときに、彼女は楽しそうにその話をしていた。

無頼で、臆病で、プライドが高くて、つかみどころがない。そんなイメージがあった彼女は、死後にありがちな美化を差し引いてもイイ女だったと思う。悲しいことは、彼女がカフカの言うように、人間の環を見つめていた為に、その環の中に入ることが出来ないまま、遂に死んでしまったということだ。


実は、ここまで書きながら何か悲劇的な感情を掘り起こそうとしているのだが、それこそ皮相的というか悲壮的なまでに僕の中の凪は続いている。

唯、通過儀礼に失敗して死んだ女の子。という毎度毎度の失礼極まりない興味だけがちょこまかと蠢いている。

精神病院に入院しながらも、担当医を二人もノイローゼにしながら、他の患者の観察と、そこから得た考察を僕らに楽しそうに話す彼女が自ら死ぬとは思わなかったし、だからこそ、そうした逸脱の上で死を迎えてしまった20代の女としての、彼女の失敗についても興味がある。

何を思ったのだろうか。

何を考えたのだろうか。

何が見えたのだろうか。

いや、そもそも何かが元で死んだのではなく、突発的な行動なのではないのか。母親から聞いた彼女の症例からすれば不思議なことではない。

だが、僕の知る彼女なら、恐らく前者なのだと信じたい。三島由紀夫の『豊饒の海』の最後は、「いくとこまで行ったけど何もねーや。」というオチがつく。この辺がアイツは馬鹿だと僕達が、彼女自身が笑ったことだ。古典に目をむけ、自意識を掘り下げ、社会を見渡したが、三島はその先の未来を予見しながらも未来に生きようとはしなかった。

自らの「美しい国」のビジョンに基づいて自衛隊に切り込んだ挙句に勝手な殉死を遂げた馬鹿野郎だ。その自殺が一体何になったというのか。実は、彼の死はこの国で思想が商業から見捨てられる一つの契機になってしまったのであると、僕などは思っているくらいだ。何故、周囲の人間とともに生きる道を選べなかったのか。今日多くの日本人が三島由紀夫を支持するが、その三島由紀夫は日本人と共に生きることを、日本社会で生きることを良しとせず、最後まで抗って遂に最終的破綻というかたちでの自死というフェイルセイフが働く。

「そんなに世の中がイヤなら、死んで二度と出てくるな。」

SF漫画の台詞だ。これを原作にしたアニメでは最近、三島のオマージュをやっていたが、結局良く解らないまま終わってしまった。(問題意識の覚醒、視野狭窄に陥った大衆への復讐と慈悲としてのシフトを促す為の引き金としての英雄的自死などはそのまんまで、殉死する奴等は「或る文献」を読んだことでその思想に感化された模倣者で、それが失敗して犬死するあたり、あの監督も相当三島由紀夫が嫌いなんだろうな。)

彼女も似たようなことを言っていたことがあった。ごく最近のことだ。視ねとコロスが謳い文句の僕らの間じゃ別段不思議なフレーズでもないので聞き流していたけれど、それは、三島に近い死に方をすることになる彼女が見せた兆しだったのかもしれない。

小学生だった頃、どこか遠くへ行って特別な存在になりたかった。中学に入って、それが到って幼稚な感情であることを思い知らされ、それから、悔しいから似たような屈折を持っていた仲間を探した。(この時点でまだ時代遅れのソウルメイト探しと大差が無い。返す返す幼稚なことである。)それで、当時なんか文通で彼女と連絡を取るようになって、彼女も似たような願望があったことが判って、それで何となくつるむようになった。小学校3年にしてひきこもりの先取りを行っていた彼女のイメージは、「牛乳をくれるコ」だったので、そいつがとんでもなく「キレた」言葉やセンスを持っていたことは意外だったり面白かったりして嬉しかった。

同人誌を描くようになって、バンドを初めて、そのあたりも彼女と共に経験している。その一つ一つが僕にとって冒険だったように、恐らく彼女にとってもそうだったと思う。

一緒に描いた本が売れないこともあったし、失恋やトラブルに巻き込まれたり、酔っ払ってエライ目にあったこともあった。僕にとって、彼女はそういうくだらなくも必死な冒険をするパーティの一人だった。

似てるな、と思って、それが好意になりかけたこともあったけど、それ以上に近親憎悪的な感情だって抱いたこともある。極論すれば、じゃれ合うように殺しあってみたいとも思った。

愛流のモデルは彼女だった。

似ていたのだ。同じように屈折していた。そう感じていたから、彼女が死んだと聞かされた時に、ひざから力が抜けるような感覚に陥った。似ているからこそ、どこかで生きていて欲しかった。どういう生き方をしていくのか、見せつけて、語って欲しかった。


信念を貫くことを選ぶのか、プロ=能力労働者として世間に寄り添って生きることを選ぶのか。

9月だったか、僕は周りで創作活動をする友人の何人かにこんな質問をした。病院を訪ねたおりに彼女にもした。

彼女は笑っていた。僕がこんなことを言い出したこと自体が面白かったらしいが、それは本当に、単に滑稽だったのだろうか。僕はどこかで、彼女のはしごを外して、三島由紀夫の洋に取り残して追い詰めてしまったのではないだろうか。

なんという迂闊だろう。
いや、むしろそう思うことで僕は、彼女の死へのスタンスをつかもうとしているのだろうか。だとしたら、僕は何故日記を開くことが出来ないのだろうか。

葬式には、わけの判らない、系統がバラバラな怪しい連中がスーツを着て集まっていた。彼女の付き合いの広さをうかがい知るには充分だったが、「ジャンル」の違う彼女の知り合い同士が、僕を含めて全くと言っていいほどお互いに面識が無かったところに「彼女らしさ」を感じてしまう。

誰と話すときでも違う顔をする。それは、その場で最善を尽くしていているから。偽善のなした客観的な善を完全に否定することは出来ないように、人の前で「そうあろう」として振舞った彼女は、彼女自身であることに違いは無い。

そんな縁者の中で、僕に日記が回ってきたのは、中に僕の名が出てきたからだと彼女の母親から聞いた。同類だと思っていた彼女は、僕をどう思っていただろう。笑いながら生きて死んだデモクリトスのように生きていこうと言っていた彼女は、死に向かう過程で何を思ったのだろう。或いは、笑い飛ばされたあの質問に、君はどう答えるつもりだったんだ?


死んでしまった以上、彼女の冒険はここでおしまいだ。ついに人の輪に戻ることなく終わってしまった彼女の冒険。その内実が書かれているであろう日記は、まだ読むことが出来ない。


喫茶店の妙にスパイシーなビーフカレーを態と味わって食べた。味、風味、舌触り、歯応え・・・些細な感動も逃したくなかった。コーヒーしか出さない店で迂闊にも紅茶を頼み、カプチーノなんざを気取って呑む友人と彼女のことを話した。馬鹿馬鹿しい話だが、それ自体が弔いになるようなどうしようもない感覚に憑かれていたのだ。


結局、その喫茶店で友人と別れて、僕は地元をフラついてみることにした。その途中で友人の目が赤くなっていたことを思い出す。と、いうかやっと気がつく。

僕もまた、その環に入ることが出来ないでいるのだろうか。

まったく、今年はなんて年なのだろう。

2021年7月の終わりに、改めてmixiの日記を読んでいる僕はもう中年だ。この日記を書いた頃に比べて、ずいぶんと色あせて、乾いて、凹んで、そしてそうなり続けることに慣れてしまった。

感受性が若さとともに失われるものだとすれば、それは痛みに慣れ、失うことに慣れていくうちに、まだ傷も少なく柔軟で、何かに感動したときの熱を覚えていた頃の自分を忘れてしまうからだろう。

彼女を失ってから15年。この間に某通信企業に就職し、研究者となるために大学に戻り、苦渋の院生時代が10年を占める。中国に置き去りにされてみたり、訳の分からない分野で認められて教鞭を取ったり、今になってまた仕事が増えたりと、この頃からでは想像もつかないことにはなっているものの、この日記を書いた頃の自分は、今の自分を許してはくれないだろうなぁとなんとなく思う。

この日記を書いた頃、僕は営業職と教員にだけはなりたくなかった。他人が嫌いだったし(興味が無いのは今もだが)、精神的に自分より幼い、ごまかしも依存もできない相手と向き合うのは酷く辛かったからだ、が、この直後、某白いワンコの通信会社で企画や営業をするようになり、激動の1年を過ごした後で大学院に戻り、その後はもう生活費と研究費を稼ぐためにいやおうなく教員、というか、ごく最近まで長い間を非常勤講師という教職の権限すら著しく制限される一世行人のような立場として活動する羽目になる。嫌な職種を2つとも経験してしまったわけだ。今になって、ようやく別の仕事でも収入が得られるようになっているが、それでも、コロナ禍の昨今においてもかなり多くの人に会って、聞いて、喋って、働いていることには変わりはない。うまくいかないものである。

あの頃の未来に僕は立っているのかな。

どっかのアイドルグループの端唄にあった気がするが、あの頃の未来に、確かに僕は立っている。でも、君はいないのだ。君と交わっていた僕も、その気配を久しく感じていない気がする。

久しく思い出しもしなかったあの頃の自分の気配を感じたのは、今年、映画「閃光のハサウェイ」を見て、クェスに惹かれ続けるハサウェイを見たからだと思う。どこかへ連れて行ってくれそうな君を魅力的に思ったし、君も僕にそういうことを期待してくれたというのは、君のお母さんから聞いた。あるいは、『少女革命ウテナ』劇場版のラストのウテナカーのようななんだかよく分からない、社会でまだ規定もされず定義もなく名前すら付けられていない存在となって二人で消えてしまってもよかったかもしれない。ただ、最低なことに、あの頃の僕は、社会に要領よく着地点を見つけることを志向し、その姿が君を絶望させたのだと、この年になって分かった気がする。

或いは、そんな僕だから、今もこうして生きているのかもしれないが。

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