★モーションキャプチャーと指標性の揺らぎ:まいにち100字【34日目】

先日、友人にウマ娘のライブシーンがモーションキャプチャーによって作られているときき、半信半疑でライブ映像をみた。しかし、筆者はそれがモーションキャプチャーによるものとは思えず、手の込んだ手付けによるものだと勘違いした。結果、その予想は間違っていると以下の映像によって証明された。

https://youtu.be/PTEMokbC6cg

むろん、完全にモーションキャプチャーの動きを取り入れているわけではなく、多くの手直しが入っているはずだが、筆者は個人的にこの出来事がショックだった。ついに、二次元アバターの動きが、モーションキャプチャーによるものか、手付けによるものか、わからない所まで来てしまっているのだ、と。

筆者はVTuberについて論ずるなかで、モーションキャプチャーの重要性に言及してきた。それは、モーションキャプチャーがもたらす指標性が、VTuberの重要な特徴だと考えているからだ(砂浜についた足跡のように、アバターには現実の人間の動きの痕跡がついている、という考え)。

そもそもMMDerのなかには、手付けでやっていた動きのより効率的な方法として、モーションキャプチャーに注目していた。そのことは以下の拙稿を参照。

https://ans-combe.hatenablog.com/entry/2020/09/24/023927

筆者はある一節を、次のようにまとめている。
「MMC勢は、動きそのものの完成度やモデル操作のしやすさ(MMDや動画としてのクオリティ)を優先し、「人間らしい動き」を追求しなかった(その必要がなかった)。(そうした動きがなかったわけではないが、メインではなかった。)」
つまり自然な動き、指標性のある動きというものを追求せず、あくまで手付けの代替案としてモーションキャプチャーが注目されたに過ぎない、と筆者は分析した。

しかし冒頭で述べた通り、モーションキャプチャーは、人工的な動きの代替案としての機能を大きく超え、自然な動き/不自然な動きという二項対立を揺るがしつつある

この二項対立をどうとらえれば良いのだろうか。
MMD的な動き、異様にカクカクした人工的な動きは、部分的には人間によって再現できるように思える。
また、動きが自然でなく、あまりにもカクカクし過ぎていると、それが人形性を愛でる文脈でない限り、クオリティが低く見える。
結局、動きの自然さ、という評価軸は効力を失いつつある。その一方で、動きの自然さ/不自然さ、という二項対立を自覚的に取り入れていく、というメタ的な方法を取り入れていく方向性も考えうる。

動きの自然さ、という観点は、MMDやダンスを嗜まない人物でもわかる、素朴な価値観である。そういった素朴さには、目を向けられなくなるのだろうか。あと10年経ったとき、動きの自然さという価値観は、どのように受け止められるのだろうか。

そして、筆者としてこれから考えたいのは、指標性という概念が揺らぐという事態である。比喩的に言えば、砂浜についた足跡は、誰かが描いたものかもしれない、という可能性が生じる。こうした指標性の変化についていける言葉を、筆者は探していかなければならない。

おわり❗️

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