★ディドロの演劇論まとめ:まいにち100字【46日目】

・ディドロの演劇論について、ciniiですぐに読める6本の論文を参考に、非常に雑駁であるがまとめてみた。雑な自分用まとめなので、間違いが多々あると思う。注意。

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▼1758:ディドロ『劇詩論』

真実らしさ(vraisemblance)
歴史画における、真実らしくみせる構成(タブロー)のように、劇もまた、そうしたタブローを持たなければならない。劇の場合、タブローはアクション(行為/筋)によって表現される(身ぶり・パントマイムの視覚性を強調)。
状況の急展開を示す「ク・ド・テアトル」は、作為的で不自然である。複雑な筋ではなく、シンプルな筋のもとに、観客の印象に残る「タブロー」をつくるべきだろう。
また、劇の慣習的行為や、観客への分かりやすい伝達であっても、不自然なものはするべきでない(自然主義)。
*譲原晶子「演劇における「タブロー」の概念」『千葉商大論叢』51(1)、2013年、215-224頁

・実際の作品『私生児』では、当時一般的ではなかった「ト書き」がふんだんに盛り込まれ、身ぶりだけでなく声の出し方の指示にまで及んでいる。
俳優ひとりひとりの身体の違いが、舞台で上演されることで、新しい演劇は創造されていく。
川野惠子「ディドロ演劇論における「パントマイム」と「台詞」」
『関西フランス語フランス文学』24(0)、2018年、15-26頁。

・時代背景(啓蒙主義/アリストテレス主義
時代は、フランス古典劇から市民劇への転換期。ディドロは徳の重要性を説き、劇を観た市民がより倫理的になることを期待した(「道徳の促進機関」としての演劇)。こうした観念は、同時代のレッシングも同様に持っていたとみられる。
ディドロは新たな演劇ジャンルとして、悲劇と喜劇の中間にある「まじめな演劇」を構想した。
*南大路振一「レッシングとディドロ : 演劇論にかんする比較」『人文研究』17(8)、1966年、66-93頁。

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▼1778?:ディドロ『俳優に関する逆説』

情念/感受性の抑制
強い感情が理性のコントロールを超えてしまう状態、我を忘れること、正気を失うこと、これらを退ける論調。自分と役柄を分離できることが、偉大な俳優の条件である(二重化、自己の自己との分離)。役柄は、自己を通り越して巨大化していくが、その巨大化は役作りをやめたときにストップする。このことで、役柄に自我が脅かされることはなくなる。このように、役柄の膨張をコントロールできることが、俳優に求められている。
*井田尚「ディドロにおける夢想、対話、演劇 : 『ラモーの甥』、『俳優に関する逆説』、『ダランベールの夢』をめぐって」『仏語仏文学研究』13、1995年、47-67頁。

本物の感情/まやかしの感情
ディドロは、感受性の乏しさを、王や裁判官、司祭などに結びつける。権力や宗教といったまやかしの世界に強い人々。
また、俳優はあくまで、観客に幻想をみせる(観客の感受性に働きかける)ことで、演劇を成立させる。しかしそのとき、観客の熱はほんものでも、俳優の感情はまやかしである。
*中尾雪絵「舞台役者、またはディドロにおける感受性」『待兼山論叢 文学篇』37、2003年、65-81頁。

・プロとしての俳優は、演技の安定性や恒常性をもつ。また、自然を模倣するという意味での洞察力も持っている(古典主義的芸術観)。理想的モデルを模倣するということ(ミメーシス)。
*青山昌文「ディドロ演劇論研究 : 役者の演技の在り方について」『放送大学研究年報』28、2010年、55-61頁。

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・これでディドロの実際の著書に触れる準備が整ったわけだが、訳書が古すぎてどうしよう……となっている。悩ましいな~。

おわり❗️

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