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個人を幸福にしない日本の組織/太田肇 #自己用書籍要約

◆なぜ、日本企業では経営理念が社員の心に響かないのか?
 →「日本企業の経営理念は社員に言及していないから」
 ➣IBM「個人の尊重」
➣ヒューレットパッカードが掲げる「HPウェイ」の中には「働く人のコミットメント」
➣ジョンソンエンドジョンソンの自社クレド(信条)の二番目に、全社員に対する責任を定め、「社員一人一人は個人として尊重され、その尊厳と価値が認められなければならない」


◆「日本人はチームワークが苦手だ」
かつて日本が得意とした「運命共同体型のチームワーク」→世界標準の「メンバーの個性を生かすチームワーク」→最先端「個人の力を何倍にも高めるチームワーク」へと進化


◆ほんとうの意味でのチームワークを強めるためには
「分化」、つまり個々人の自律性と多様性を尊重し、そこからいかに「統合」を図るかという迂回的発想に切り替えるべき


◆罰則への意外な「適応」
管理を強化しても不祥事を根絶できない現実の裏には、個人の心理に関わる深い問題がある。
組織や管理職は部下の行動を正したいとき、すぐ管理を強化したり罰を与えたりする→効果は微妙
Ex.)幼稚園に迎えに来る親たちが時々遅刻することに困っていた。
→遅刻した場合、罰金徴収制度を設ける
→罰金を払って堂々と遅刻するようになった
→罰金を払うことで、申し訳ないという意識が消滅
 結果、ペナルティが受け入れがたいほど厳しければ強制的に従わせることができるが、罰金が中途半端だと開き直らせ、罪悪感と改善の意欲を奪ってしまい、逆効果になる場合がある。


◆「個性あるまちづくり」が住民の個性を奪う
社会学者ジンメル、1890年刊行著書より
「我々が身をゆだねる圏が狭ければ狭いほど、それだけ個性のよりわずかな自由しかもたない。しかしその代わりにこの圏そのものは個性的なものであり、まさにそれが小さいものであるから、鋭い限界によって他の圏から区別される」。「より狭い圏への帰服は一般的には、できるだけ大きな公共のなかの生存よりは個性そのものの存続にとっては有利ではない」。
分権によって組織や集団の単位が小さくなるほど極端な運営ができるようになるのでその集団は個性的になるが、その中にいる個人は集団の個性を押し付けられるので自分の個性は発揮しにくくなる、ということ。
したがって住民の立場からすると、特色のない街でも構わないので一人ひとりの個性を伸ばせるよう、多様な受け皿があるほうが良いことを意味する。
ちなみにダイバシティマネジメントにも通じて言えることで、社会的マイノリティやユニークな人、個性的な人物は規模が大きい組織ほど選択の余地や自由度が大きく、働きやすいし居心地もよいのが普通である。

◆「部下が指示待ちで、自ら行動しようとしないので細かく指導・管理せざるを得ない」
「上司が仕事を任せてくれないし、細かく口出されるので主体的に仕事ができない」という、
「鶏が先か、卵が先か」問題

➣従業員をプロ集団に変えること (以下、プロ集団要件定義)
□専門的能力      →問題解決能力が形成される
□仕事上倫理規範に従い、社会的責任を果たさせる
 プロとして社会に奉仕する責任を果たすなら、「私益追及型」の不祥事を防止できる
□自律性
 個人の姿勢と同時に、組織によって保障されなければならない。
プロとして自律的に仕事ができれば組織の利益を最優先したり、上司に取り入ったりする必要はない。
□ユニバーサリズム(普遍性)
 プロの仕事には普遍性があり、組織を移っても能力や精神は通用するし、通用しなければプロとは言えない。所属組織の枠を超えてプロ同士が価値を共有するコスモポリタンである。

◆コンテストのグランプリにおける既視感と、化ける人材。厳選された人材は伸びない
「選ぶ」行為は何かの基準によって行われる。無意識のうちに過去の経験に照らしながら評価している。同じような特徴をもった人、どこか似た人がスターになっているというように。
→ 新寄生、意外性を捨てている ……既視感へ
最初から魅力的なタレントが期待どおりの魅力を振りまいても、ドキドキ感やワクワク感がない。
逆に欠点だと思っていたところがチャームポイントに変わったり、見逃してきたところがクローズアップされてきたりすると人々は引きつけれられ、トリコになる。→ 化ける人材


◆「地方は魅力を失い、人々は魅力的なところへ移り住めばよい」という暴論
企業ならその考え方は正しい。しかし同じ考え方を地域に持ち込むのには無理がある。
社会的に分類すれば企業は特定の目的を達成するための「目的集団」であるのに対し、地域は自然発生的で文字どおり生活の基礎となる「基礎集団」である。
そのため、そもそも「選択して住む」ことには限界がある。特に過疎地域に住む人の多くは受け継いだ田畑や、何代にもわたって付き合いのある近隣住民と一緒に暮らしている。そこから切り離されたら生きていけない人たちである。また、家族それぞれが学校や職場などの別のコミュニティの人間関係がある。


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