CODAという概念から考えたこと
皆さんこんにちは|‾▽‾)ノ
そういえば連休みたいでしたけど、いかがお過ごしでしたか?
こちらは、先週の3/16~19まで外へ出向く機会が多かったので、久々に身体も頭もくたくたです^^;
ですが、短い期間で意識を新たにできるいい経験が沢山できたと思います。
今回は、その内の一つである「CODA」についての諸研究発表会を聞いて、自分が感じたことを書きたいと思います。
ということで、今日の目次はこちら
・そもそもCODAとは?
・〇〇のこどもたちの出現(再発見)
・子どもによる親の役割代行
・人間関係の学び直しの場を
いつも通り個人の意見となりますので、認識が間違っていたらゴメンナサイ
それではよろしくです
そもそもCODAとは?
CODA(コーダ:Children of Deaf Adults)
聴覚障害の親を持つ、自身は耳が聞こえる子どものこと。(すでに成長した成人を含む)
この言葉を知ったのは、Facebookで友人がたまたまシェアしていた講演会の案内を見たのがきっかけでした。
講演会の内容に興味を持ったこともそうですが、それ以上にCODAという言葉そのものに強く惹かれました。
なぜかと言うと、自分たちのやってる当事者団体は親の離婚経験者の集まりですが、そのような我々のことを英語では「ACOD(Adult Children of Divorce)」という風に言われており、とても他人事とは思えなかったからです。
そして、私個人の話を付け加えさせていただくと、母親が耳が聞こえにくく昔から苦労している人だったので、そのような意味でも話を詳しく聞いてみたいと思い、参加を申し込みました。
研究を聞いて
研究については、初めて聞く内容だったので、なじみの無い私に詳しい説明はできませんが、
聴覚障害の親を持つ子どもが、
・どのような影響を受けて親子関係を築いていくのか
・どのように自己を発展させ、成長を遂げていくのか
について語られていました。
自分たちが活動に取り組んでいる理由は、この家族関係の再調整や自我の獲得について知ることなので、話を聞くたびになるほど似ていると頷いていました。
〇〇の子どもたちの出現
聞き終わった後について一つ考えたことがありまして、
それは、自分たち親の離婚経験者や、聴覚障害の親を持つ人たちのような「〇〇の子ども」というくくりで語られる集団の事例が増えてきたなということでした。
自分の知っているところでは、ぷるすあるはさん(精神障がいを抱えた親を持つ、子どもと家族に対しての支援をしている)も、そのような観点から活動されてます。
おそらく自分が知らないだけで、まだ他にもこのような事例はまだあるのでしょう。
それでは、どうして増えてきたと感じるようになったのでしょうか?
存在の再発見
あくまで一般論ではなく個人的な意見となりますが、
存在そのものは昔からいたはずです。
ただ研究の対象になるようなことはありませんでした。
家族というものに対して、基本的に他人はノータッチだった時代が続いたので(ガンガン介入するお節介焼きの方はいらっしゃったかもしれませんが^^;)、「〇〇の子ども」も結局はただの子どもという括りに入れられていたのではないかと思います。
しかし、現代において家族という組織が孤独に陥りがちとなり、そこで発生する諸問題についても家族内で全て解決することができずに、そのまま影響を引きずるまま社会へ出た人(=かつての子ども)が増えてきたからではないかと考えております。
そして、研究内容を聞いて、もう一つ共通する点が思い当たりました。
子の「親役割代行」という概念
ACODについて書かれたアメリカの文献に「Parentification」という言葉が出ていました。
日本語で説明しようとするならば、子どもが問題を抱えた親の代わりに、自ら親の役割を代行しようと考えたり、行動してしまうということだそうです。
(英語版wikipedia参照)
自覚があるのですが、親の離婚など家族の諸問題が起きたとき、自分は完全崩壊を防ぐためにコミュニケーションを仲立ちするための調整役を担っていたような気がします。
聴覚障害の親を持つ子どもの場合、親が聞きとれなければ、日常生活で必要とされるコミュニケーションを、子どもが親の代わりに翻訳して伝える役割を担うことが多いということでした。
いずれも、人間関係が破綻しないための繊細さが必要とされる高度なコミュニケーションスキルが求められますから(常に場の空気を読んでいる感じです)、子ども側にとっての重圧は少なくないでしょう。
そのような重圧のストレスにより、色々後の人生に影響を与えることも考えられます。(ただし、両親の子に対する接し方次第で良くも悪くもなると付け加えておきますが)
我々は社会で生きている以上、常に誰かの影響を受けております。
仮に問題が起きた場合、解決方法を得るためには、もう一度人間関係全般(=親子関係などを家族のことも含む)を学び直せる機会が必要なのではないでしょうか?
成長したからこそ理解できる
私が人間関係における機微を多少なりとも理解できるようになったのは、色々なことを経験し、ある意味成長したから(それとも単に時間が多く過ぎただけ?苦笑)だと思っています。
経験の少ない子ども時代に強制的に学ばされたところで、いずれは正解や効率を求めて真の解決に至らなかったかもしれません。
重要なのは、問題を自覚できる大人の時にこそ、もう一度学び直すということです。
どんな内容に対しても同じことだと言えます。
自分は子どもの時に学ばされた時期より、自覚的に学びに行っている今の方が遥かに多くのことを得ていると思います。
社会人になるにあたって、現在就活ではコミュ力が高いことが求められておりますが、人間関係など高度なコミュニケーションスキルを要するものほど、学生時代までの貯金でやりくりするのは結構無茶なのではないかと感じました。
コミュニケーションの発達方法をそれぞれ自己流に任せておいて、高いコミュ力(主に相手から同意を引き出す力など)を若者にばかり求めるのはちょっとフェアでは無いと思うんですがね^^; どうでしょう・・・?
少し話がずれたので戻しますと、特に家庭内のコミュニケーションほど家族ごとに異なるやり方をされているのではないかと思います。
実は自分の家族の中で当たり前だったことが、周りでは当たり前ではなかったという話に暇は尽きません。
そのことでギャップを感じ、自意識に揺らぎを覚える方もいらっしゃるのではないかと思います。
だからこそ、家族の前に個人のことについて学び直し、その上で家族を作っていく中で重要なことを再び学んでいくというプロセスが大切なのではないかと考えております。
まとめ
人間関係とは一朝一夕でできるものではありません。
だからこそ、お互いの気持ちが共有できたという喜びは貴重な物なのです。
親しき仲にこそ礼儀あり。
尊重し合える心を持ちたいと思います。
今回はここまでです
ではまた|‾▽‾。)ノ
何らかのアクションをいただけると、一人で記事を書いてるわけではないのだと感じられ、嬉しくて小躍りしちゃいます。