自己責任という言葉について、元自己責任論者として思うこと
経済メディアであるNewsPicksのオリジナル記事で、貧困の現場を取り合げる内容を見たのは今回が初めてかも。
大まかなところは「コロナとそれに付随する貧困問題」についてであり、この辺はググれば似たような記事をいくつも読めるので特にいまさら言う事はない。
ただタイトルにある自己責任について、少し振り返ってみたくなったのでその内容を書く。
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わたしは過去、割と強めに自己責任論を信奉していたのだが、色々一人では解決しきれない経験を重ねた結果、無理なものは無理という風に考え方が変わっていったことがある。
その経験上思うに、自己責任の思考は呪いみたいなもので大きなメリットとデメリットが伴う。
起きた(orこれから起こる)出来事に対して責任を負うという「自己決定」は、自らの思考や行動に縛りを設けるからだ。
例えば戦場とかみたいに、とにかくまず自分が生き残らないといけない緊急な場面では、己を奮い立たせるために結構な力を発揮してくれるのではないだろうか。(自分は初めて心が大きく折れそうになった時、自己責任で自ら未来を変えることを決断し、その事実を受け入れることにした)
しかしそれが一旦落ち着いて、その後努力した後も人生がパッとしなかったとき、多くのことを諦めさせるような思考の縛りとなって心に影を刺してくる。
「これは”自分が決めた”のだから仕方ない・・・」みたいな感じで。
当然他人から同じように「あなたが決めたのでしょう?」みたいな感じで突っ込まれたとしたら、立つ瀬が無くなりさらに追い詰められるだろう。
これを長いこと繰り返すと「学習性無力感」やうつ病のような形で表立って問題が出てくるのだが、その辺の解決について社会や個人としてどうすればいいのかはまたいずれ別の機会に。
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そのようなことから、使う場所によって言葉の意味が大きく変わることを自覚したわたしは自己責任という言葉を使うことが無くなった。(山登りとかそういう趣味の場だと、ある程度始めた責任は問われるのでもちろんゼロではない)
たぶん力の使いどころを知ることが大事だし、それが他人にも当てはまるかどうかは全然別の話だという切り替えが大事かと思う。
何らかのアクションをいただけると、一人で記事を書いてるわけではないのだと感じられ、嬉しくて小躍りしちゃいます。