あなたには見えない地獄

「恵まれた環境にいる人間が感じる辛さを、より悲惨な状況にある他者との比較を以て否定する論法が通るのだとしたら、この世界で最も不幸な人にしか発言権はなくなるね」
窓の外に目線を投げたまま、僕はそう言った。
マギーは散らかった机の上で、退屈そうに佇んでいる。
「またいつもの極論ですか。あなたも飽きませんね」
カタカタと音を立て、辟易したようなジェスチャーを取る。もっともこれは僕の想像だ。マグカップの真意は掴めない。
構わず続ける。
「僕は都会の裕福な家庭で育った。生まれてこの方お金に困ったことはないし、両親は主に教育面で厳しいところもあったけれど、愛情をもって接してくれた。習い事もたくさんさせてもらったよ。おかげで身体も丈夫だ。勉強もできるし、楽器も弾ける。周りもみんな気のいい奴さ。なんてことない話で盛り上がれるし、それに僕は割とモテる」
だったら———と言いかけたマギーを遮り、次の言葉を配置する。
「でも、面白い本を読むと死にたくなるんだ。こんなに面白いものを生み出す人がこの世界のどこかにいる、と思うだけで、嫉妬と自責で胸が苦しくなる。一流の作家と自分を勝手に比較して、勝手に力量の差に絶望しているんだ。それで夜通し頭を掻きむしっていたりする。どうだい、自意識過剰だろ?」
「自覚がある分、悪質ですね。分かってるなら治しましょうよ。そんなことで悩むのは中学生か、せいぜい高校生まででしょう」
マギーが呆れたように応える。
「そうだ、分かってるんだ。分かっていてもなお、そんな幼稚な悩みに、僕は未だに苛まれている。理性では衝動的な感傷を制御できない。つまるところ、どうしようもなく辛いんだよ」
向かいは廃墟だ。この雑居ビルにしても、取り壊し予定だったところを強引に買い付けたに過ぎない。ブラインドの隙間から覗く外界では、剥き出しの鉄骨が雨煙を纏っている。
視線が一点にフォーカスしないよう、意図的にぼかし、雨降りというテクスチャだけを保存する。
「もっと言えば、悩みの内容はなんだっていい。瞼が一重で辛い。ライブのチケットが取れなくて辛い。好きなアニメが終わって辛い。辛さなんて主観なんだ。どんな些細な出来事にも、辛さを感じる余地はある。そして僕らにはその資格がある」
右足のつま先で床を軽く叩く。昔からの癖だ。このせいで、僕の靴は右足のつま先だけ削れている。
「甘えるな、世の中にはもっと大変な人がいるんだぞと言いたくなるだろう。怒りすら覚えるかもしれない。では逆に、僕が貧困と争いの渦中にあったらどうだろう。生命すら脅かされる状況下で、日々を生き抜くことに精一杯。悲惨、悲痛だ。多くの人は不幸だと同情するだろう。でも案外、当の本人は、そこまで辛さを抱えていないかもしれない。切り詰めた暮らしの中にもささやかな幸せは転がっているはずだ。少なくとも、一重の辛さ、アニメが終わる辛さ、才能を目の当たりにする辛さは回避できそうだしね」
「詭弁ですね。不幸にも度合いがあります。大きな不幸の前では小さな不幸は0に近似される」
「そうやって悲劇を大小で捉え始めたらキリがないよ。人類が滅亡しようと、宇宙全体から見れば瑣末な出来事さ。つまりね、みんな違って、みんな辛いんだ。辛さは主観である以上、数値化できない。誰かの悲惨さを言い訳にして、自分の辛さから目を背けてはいけない」
「夭折の作家が言っていたね。"地獄は頭の中にある"———言い得て妙だと思ったよ。自分の地獄を認識できるのは自分だけだ。他人の痛みなんて分からないし、他人には僕の痛みは分からない。分かったつもりになってる奴が一番タチが悪い。僕が辛いと言ったら、それは辛いんだ。地球の裏側の不幸な誰かは関係ない」
雨が降り続く。灰色だった空がトーンを落とし、夜へと塗り変わっていく。
次の言葉は出なかった。薄暗い部屋に横たわる沈黙。
呼吸のサイクルを8回ほど繰り返した頃だろうか。不意に、仄かな香気を感じた。
振り返って机を見やると、いつの間にかマギーがソーサーに乗っていた。どこから出したのか、濡れたように美しい陶器だ。
香気の正体は明らかだった。マギーの内側に、透き通った薄紫色の液体が満ちていた。
何度見ても、どんな仕組みなのかまるで見当がつかない。魔法のようだ。
表情に出ていたのか、マギーは得意げに語る。
「ご明察、私は魔法のマグカップなのです。古今東西、世界線すら跨いであらゆる茶葉をトレースできます。その気になればコーラも出せますよ」
「製法を知る3人目ってわけだ」
「いえ、製法は分かりません。ただ完成形を精密に複製できるだけです。喩えるならコピー&ペーストでしょうか」
言いながら、マギーの側面に模様が現れる。
「これは………象と月、かな?」
いかにも、と頷くマグカップ。
居住まいを正して(きっとそうに違いない)、口上を述べる。

「さて、本日の茶葉は"アラビアンナイト"。塔と砂漠の国に想いを馳せて———」

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