見出し画像

終わりなき報復の連鎖〜野田地図「THE BEE」の感想

先日、東京公演を見てきました。この作品、2007年初演の世田谷シアタートラムでの上演を見ましたが、まあしんどかった。何がって見た方はよくわかりますが、救いはない。もちろんそういうものを描こうとして、このストーリーがあるわけでもないけど。2012年のときの上演を逃しているのは、仕事忙しくて、チケット取れなかったからなので、今考えても悔しい。
ただ、今回見たときに前回の印象とだいぶ変わって、それは自分が年令を重ねたことで、この作品における主人公「井戸」(この名前にも深さとそこの見えない闇があるわけですが、、、)の変貌という部分や、報復という行為の持つエンドレスというものを、観客である自分が色々な視点で受け止めることができたからだと思う。
今回は野田秀樹さんは出演せず、阿部サダヲさん、長澤まさみさん、河内大和さん、川平慈英さんの四名で上演されました。個人的にはこの四名、素晴らしい演技で野田さんが出演されていなくても、文句なく素晴らしいものに仕上がっていたと思う。
というか、これから先は野田さんも年齢を考えると、出演する割合が減るのかな、、、、と思いつつ、しかし木野花さんがあの年齢でお芝居をあれだけ派手に動き回っている(池袋での新感線の公演)かと思うと、まだまだ早いと思ってもいますが。

ストーリーは、
妻の浮気を疑った脱獄犯・小古呂が、警官を殺して銃も奪い、追い詰められて近くの民家に人質を奪って立てこもる。人質(子供と母親)の夫・井戸がそのタイミングで帰宅し、立て籠もりの状況を知ることになる。犯人の妻は説得を拒否し、子供の誕生日(井戸の子供の誕生日と同じ)をお祝いし、仕事(ストリップ)にいくと言い張る。井戸は自らが小古呂の妻を説得したいと警察に申し出て、警官と一緒に小古呂の妻の元へ行く。そこで話をするが説得に応じない相手に対して、井戸の持つ感情が爆発し、警官を殴り拳銃を奪って、小古呂同様に家に立てこもり人質を取って、小古呂へと要求する。「自分の妻と子供を今すぐ開放して、その家を出ろ。お前の妻と子供を人質にしている」と。そこから井戸と小古呂の双方の家での報復戦が始まっていく、、、、、、、。

この作品でとにかく阿部サダヲさんの演技の素晴らしさを再認識。最初の普通のちょっとエリート意識を感じさせるサラリーマンから、変貌して壊れていくというか加害者としての日常を過ごす井戸の演技は見事。蜂(BEE)が出てくるときに狂気があふれるというか恐怖に怯え、その後からさらに変貌するわけですが、報復合戦で小古呂の子供の指を切断する状況など、もうなんというか阿部サダヲさんだから、その報復と日常のバランスが取れているという実感しかなかったです。

長澤まさみさん、個人的に大好きな女優さんなので、野田地図で見ることができて嬉しいです。ストリッパー役ですが、そういう役柄云々よりも井戸の狂気に壊れていくさまが見事。子供の指を封筒に詰めるのを母親が自ら行うのですが、そこにも途中からためらいがなく反射的に行うようになっていきます。そういう壊れ方含めて、長澤まさみさんの凛々しさと下世話さと壊れ方が見事に混じった演技だったと思います。長澤まさみさんは、昔舞台初めての「クレイジーハニー」のときもすごかったと思いますが、舞台でのかっこよさが引き立つ女優さんなので、これからももっとたくさんみたいなあと思います。

河内大和さん、以前みた東京芸術道場の「赤鬼」でも素晴らしくて、今回も刑事役は見事に無能というか、傍観者に過ぎない警察という位置づけを演じてくれていたと思います。これはもちろん報復合戦という状況に、第三者は役に立たないという皮肉としての役回りだと思うのですが。目の鋭さが良くて、今までのキャリアも素晴らしいのですが、自分はあまり拝見する機会もなく、その「赤鬼」以来非常に気になる役者さんです。

川平慈英さん、前回の「フェイクスピア」でもそうですが、ほんとに何をやってもうまい。今回は脱獄犯、その子供など複数の役を瞬間で切り替えますが、うまいのです。川平さんは声の通り方も好きで、三谷さんや野田さんなど、多数の演出家に起用される理由がこういう演技をみるとよくわかります。

ストーリーですが、一見すると救いはないのです。報復合戦して、子供は死に、次に妻も死に、報復のために送る指がなくなったので、井戸はついに自分の指を切ってまでもその覚悟があるかと報復の有無を迫る。むしろ送らなければその時点で、小古呂の負けです。この舞台はもともと同時多発テロのあとに野田さんが触発されて作られたものです。アメリカと中東の報復合戦の先にあったあのテロは、アメリカの撤退こそあれ、結局は戦火の火種を残したままの状態です。
そういう報復の連鎖を断ち切るすべはあるのか?という偽善的な話ではなく、その報復という意味を当事者たちは正当化する心理だったり、その行為に対する罪悪感などの皆無さ、自己正当化などがよく伝わってきます。
「やったから、やり返す」子供の喧嘩のように見えますが、報復措置とは所詮その程度のものなのではないか?と。しかしそこに正当性があろうがなかろうが、報復に報復で返したら、その連鎖を止めることは第三者にはできないという事実も確かで、この舞台でも警察はただ切断された指の配達をするだけの存在です。もちろんメディアに至っては最初に騒ぐだけの、ただの邪魔者に過ぎない。途中、井戸が「俺は被害者でいることが難しかった。加害者の方が楽だ」というニュアンスのセリフを放ちますが、その認識をする瞬間の解放感が全く違うのかなと。被害者はその受けた痛みを耐える部分が大きいが、加害者に変わった瞬間にその行為による痛みの相殺から、受けた痛みを和らげるんだと思うけど、、、、受けた痛みが消えるわけでもないという事実がある。

野田さんはこのタイミングでなぜこの作品の上演を選んだのか?
なぜでしょう、パンフ買っていないから、そのあたりも書いてあるのかな?買えばよかった(笑)
個人的には、コロナ禍での人の関わりの変化、社会と人のあり方などなど、自分の環境変化に伴う関係性のなかで、演劇自体が晒された状況だったり、そのあとも続くワクチンを巡る状況なども踏まえて、報復という部分にとどまらず関係性を見せたかったのかな?と考えています。
初演で見た当時は、とにかく重くて救いもなくて、きついなあ、、、、という感覚が非常に強かったのですが、今回改めて見たことで、観客の受け止め方という部分がこれだけ自由な作品なのか?と実感しました。
これから先、またいろいろな社会変化のときにこの作品が上演されることがあるのかもしれませんが、自分の年齢と共にこの作品の受け止め方もまた変わっていくだろうし、この作品はそういう変化をしていく作りなんだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?