持ちつ持たれつ

あの自粛要請から始まった今回の騒動。次々と打ち切り、中止が多数決まり、なんとも言えない閉塞感を感じると同時に、コロナウィルスへの不安感を持ちながら生活する日々になっています。
自分が持っていた演劇とコンサートのチケットは、結局4枚分が観ることが叶わないまま公演中止となリました。そのうちの一枚は当日公演中止が決定したもので、もう一つは野田秀樹さんが芸術監督を務める東京芸術劇場の公演です。
その野田さんが芸術監督の立場ではなく、NODAMAPのサイトに「演劇の死」を乗せている事実は重くもあり、切ない気持ちにもなります。

この「演劇の死」という内容については、別のエントリーで触れているので、ここではやめておきます。

個人的に思うこと、、、、、自粛も公演続行も間違いではない。正しいかと言われたら、両方間違いがあるともいえる。その間違っている部分と、この社会を取り巻く空気感とのバランスをうまく渡ろうとするか、演劇を興行ではなく芸術として守ることができるかみたいなせめぎあいは、見る側、作る側、提供する側においてバラバラだと思う。だからこそ、この横並びの風潮には残念さを感じている。無理矢理舞台をやれという気もないが、安心できる環境づくりは自粛だけではないはずだから。

音楽も演劇も単に芸術という部分だけでなく、娯楽というもの、その瞬間に得られる感情の動きなど、様々な要素があると思います。もっと単純に楽しもうよ、しんどいときはお互いになんか手助けしていこうよ、っていう感じは演劇や音楽が好きな人には共有できるものですが、そういったものへ価値や意義を感じない人も多数いるわけです。その人たちに同じ感覚は望むべくもなく、逆に押し付けた形になってもいけないのですが。
ただ思い出してほしいこともあって、例えばある曲を聴いたら、ある出来事や思い出がフラッシュバックしたり、単純に嬉しい気持ちになったり、生活必需品ではないけど、ちょっと片隅に残っているものだったりしたと思うんです。
そういう音楽や演劇やもちろん絵画や漫画、いろいろな芸術ってやつが、どこかにしっかりとあって、そこに生活の糧がある人も大勢いて成り立っています。
こんなときにはいらない!ではなく、こんなときにもあって、ちょっと救われたっていうものであってほしい。そういうささやかな喜びや救いをプレゼントしてくれるものが、演劇や音楽とかなんだと思っています。
こんなときにやっている劇団やミュージシャンを、叩くことなく見守っていてほしいなと思います。そこに足を運ぶ人たちを批判してほしくないなと思います。
自粛が当然という論調は、ごもっともな話であると同時に、それは最適解ではない可能性にも思いを巡らせてほしいと思ったりします。
自分たちの生活の中で、演劇も音楽も今まで持ちつ持たれつ、程々の距離感の中で生きてきたと思うので。

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