君たちはどこをみているか|『君たちはどう生きるか』を観て『どろんこハリー』を思い出したこと
宮﨑駿作品で賛否両論は珍しい
先日宮崎駿の最新作『君たちはどういきるか』を見てなぜか絵本の『どろんこハリー』を連想しました。正確にいうと内容よりも、今回特殊な公開のやり方と繋がりがあると思ったのです。
『君たちはどういきるか』は賛否両論割れているそうです。
こんな事って今まで無かったですよね?宮崎駿やスタジオジブリの作品は今までほとんどが公開したら絶賛、絶賛の嵐でみんなが大好きみたいな評価のされ方だったと思います。でも、今回はつまらなかったと酷評する人も、宮崎駿の集大成だと絶賛する人もいる。それはどうしてでしょうか?
それは事前の宣伝で情報をいっさい出さなかったことですよね。
今までは、大量に広告を出して、評価を最初に誰かがしてくれていました。映画評論家やメディアで、これは素晴らしいですよ。評価できるものですよ。とやってくれるから、見る前からじゃあ面白いんだねってことになってたんです。でもそれが無いというのは前代未聞。みんな面白いのか付いていけないのか、どう接していいか迷っていた。だから賛否が分かれたんだと思います。
逆に今までは先に情報を知り過ぎて、表面ばかりを見ていたのかもしれません。初見で作品自体を楽しむというよりは、映画で情報の確認作業をしていた気がします。
この家族はハリーをちゃんと見ていたのか
そこで思い出した絵本が『どろんこハリー』だったのです。
ある日犬のハリーは家からおでかけした時にどろんこになってしまいます。うちに帰ってきても、家族は誰もわかってくれません。いつもの芸をしてみてもダメなのです。家族にわかってもらえなくてしょんぼりしますが、最後には自分でブラシをもってきてみんなに洗ってもらいハリーだと気づいて終わります。
一見楽しいお話のようですが、なんでこの家族はハリーだと早く気づかなかったのでしょうか?外見しか見ていないから、見た目が明るくきれいなものはハリーとわかってかわいがるが、黒くてきたいないものは見向きもしないのです。鳴き声やしぐさでわかりそうなものですが、それも見ようとしない。よく考えたらハリーだろうとなかろうと、迷子の子犬がいたら助けてあげればいいじゃないですか。でも、この家族は、ハリーじゃないからとほっておいてしまうのです。なんだか、これじゃハリーがかわいそうです。だって見た目でしか家族はわかってくれないのですから。
例えば絵画でもそうですよね。ピカソって聞いていたらすごい絵だね!となりますが、知らずに抽象的な絵を観たら子供が描いたみたいでよくわからないなと思う人も多いはず。そこでは絵と向き合っているのではなく、表面の情報と向き合っているのです。芸術を楽しむには、わかる、分からないと白黒ハッキリさせる事はないと思います。何を描いているかわからない、でも色がキレイだから好き、とか。形が面白いでもいいし。なんか一個でも引っかかれば、向き合い方にはいろいろグラデーションがあってもいいはずなんです。そうやって対象の中身を見ようと努力するのが大事なのです。
どろんこの迷子の犬を助ける事ができるのか
そういう意味で『君たちはどういきるか』は、みんなが誰かに情報を押し付けられる前に、作品と向き合う事ができた始めての体験だったのかもしれません。だから、賛否両論あって良かったなと思います。受け取り方にグラデーションがあって当然でその意見をいろいろ言うのもまた楽しいのですから。いままでは、あまりにも大量に情報を浴びすぎて、面白いのか面白く無いのかよくわからずに、面白いと言わなきゃダメみたいな空気が公開前からできていたと思うんです。自分で感じて、考えて見ることができたのは何よりの貴重な体験だったと思います。それが対象に向き合うということだと思います。
この体験は『どろんこハリー』のように、泥をかぶって中身が見えない状態で、対象を愛せるのかと問われている状態です。つまり、人は表面で判断してしまう場面がいかに多いことか。それは、容姿の美醜だったり、肌の色だったり、出身だったり。表面しか見ないことの行き着く先は差別です。まさに、泥んこで黒くなったハリーは黒人を表しているのかもしれない。
他にも、高学歴や、一流企業など、の情報で人を判断してしまう場合も多々あります。それは他人だけでなく、子育てでも、いい大学、いい会社に入る事でしか、子供を褒められないなんて事にもなってきます。でも、それが人間の本質なんでしょうか。いざとなった時に困った人に手を差し伸べられるか。迷子の子犬を助けられるか。そういう事の方が人生では大切だと思うのです。一見かわいくて楽しい絵本に見えますが、泥んこの迷子の犬も助けられないこの金持ち家族を皮肉っている、ビターな絵本でもあるのです。